第二章『私なんていてもいなくても同じ』

第1話 月曜日

 給食をそそくさと食べ終えて図書室へと逃げこむ。

 私はここ数ヶ月、昼休みはずっとそうしている。

 ここにはお互いを牽制し合うような会話も、他人の一挙手一投足を細かにジャッジする視線もない。

 息苦しい教室とは違う、静かで穏やかな時間が流れている。私の居場所はここだ。

 

 文庫本を読む。今読んでいるのは村上龍の『イン・ザ・ミソスープ』だ。

 図書室に置いてあった本ではない。数日前に駅前商店街の古本屋で手に入れた本だ。

 アメリカ人の猟奇殺人犯と、歌舞伎町をガイドする若い日本人男性の交流を描いた作品だ。

 不気味で不安な気分にさせられる本だった。痛くて辛い描写もある。でも読んでいるうちに、今の私はこれを欲していたんだと強く実感させられてもいた。

 自分の中にいつのまにか芽生えてしまった鬱屈。そういった物と寄り添ってくれる話を求めていたのだと。

『イン・ザ・ミソスープ』の中の登場人物たちが語る言葉と、私の心情や、私の置かれている状況がぴったりとシンクロしているかと言われるとそうではない。

 それでも、鬱屈した私を突き放さないでいてくれる話だと実感していた。


 私は教室ではいつもひとりぼっちだ。友達と呼べる人はいない。

 小学生の頃から仲が良く親友だと思っていた幼なじみがいたが、彼女は「あっち側」の子だった。

 年齢を重ねるうちに、興味関心の対象も、他人との接し方も、服装や美容の嗜好も、何を大切に思うかも、何かもがすれ違い始めて、相容れなくなった。

 ある日、私が何よりも大事にしている本、読書という趣味を馬鹿にされた。そんな趣味は暗くてダサい人間がするどうしようもない事だと、あまりにも酷い決めつけと偏見をぶつけられた。そんな暗い趣味も持っている人とは友達と思われなくない。そう言われた。

 そうやって彼女は「あっち側」に去っていってしまった。

 私はとても傷ついた。心をズタズタにされた。

 それからというもの私はクラスメイトたちの視線が怖くなった。みんなが私の悪口を言っているような気がして心が常にざわついて辛かった。

 クラスメイトたちと上手く会話出来なくなった。そして孤立した。そんな孤立する私を見るクラスメイトの視線がますます怖くなった。

 一人でただ教室で椅子に座っているだけの昼休みの時間が途方もなく長く感じて辛かった。

 だから図書館に逃げこんだのだ。

 ここには束の間の安らぎがあった。


 ページから目を離し、図書室を見渡す。

 人はほとんどいない。がらんとしている。

 それでも私以外に、昼休みに図書室に集まるお決まりのメンバーが何人かいる。

 図書委員の三年生の女子。髪は肩くらいのボブで地味な印象だけど、顔が小さくすらっとしていてスタイルがいい。

 いつも昼休みはこの子だ。他の図書委員の生徒を見たことはない。

 あとはテーブルに突っ伏して寝ているスポーツ刈りで体格のいい三年生の男子。彼が本を読んでいる所は見たことがない。

 あと一人いて、二年生の男子だ。マッシュルームヘアーで眼鏡をかけている。ひょろっと痩せている。私も二年だけど知らない子だった。彼は歴史の本をよく読んでいる。

 クラスメイトと過ごさず昼休みに一人でここに来るからには、みんなそれなりに事情があるのだろう。

 委員会の仕事だから仕方ないにしても、図書委員の彼女も、いつも昼休みの担当をさせられているのには何か事情があるのかもしれない。

 誰とも話した事はないけど、少しシンパシーのような物を感じていた。


『イン・ザ・ミソスープ』は内容が内容だけに読むのに凄くエネルギーがいる。ずっと読んでいると少し心が疲れてくるのも事実だった。

 私は少し気分転換に他の本を少し読もうかと、図書室の奥にある海外文学の棚へと向かった。


 私よりずっと背の高い書架が、密集していくつも並べられている。

 書架と書架の間は人が二人なんとかすれ違えるかというくらいの狭さだ。

 書架と書架に挟まれていると、閉じ込められているような感覚に少しなる。

 机と椅子がある閲覧スペースから離れて奥へ奥へ進んでいくと、隔絶された別の異空間に迷いこんでしまったかのようだった。

 でもこんな、本に取り囲まれた異空間になら放り込まれてもいい。もういっそ死ぬまでずっとここにいたいとすら思える。


 海外文学のコーナーに置かれた本に目を凝らす。

 ドストエフスキー、カミュ、カポーティ、サリンジャー、カフカ……。

 

 何を読もうかと逡巡していると、後ろを誰かが通りすぎた。

 背中に何かが触れる微かな感触を感じた。

 私の右手側にある閲覧スペースの方から、左手側の図書室の奥へと向かったようだった。

 私は咄嗟に左を見る。

 誰かが左に曲がったのが見えた。隣の書架に隠れてすぐに姿が見えなくなったが、髪が腰辺りまで伸びた女子に見えた。

 いつもいる図書委員の彼女の髪は肩くらいの長さだ。だから彼女じゃない。

 他の生徒がやって来たのだろうか。


 特に気にも留めずに私はまた書架に置かれた本に目を移した。

 何気なく視線を書架の下の方へと持っていったその時、私の足元が濡れていることに気づいた。

 フローリングの床に小さな水溜まりが出来ていた。


 なんでこんな事に────


 私は周囲を見渡す。

 私のいる書架と書架の間の通路の床に、点々と水滴が落ちていた。

 この水濡れの原因は?さっき私の後ろを通った人が持っていたペットボトルの水でも溢したのだろうか。

 幸い本は濡れていない。

 掃除用具置き場からモップや雑巾を持ってきて私が拭いた方がいいのだろうか。

 そんな事を考えていると、どこからか微かな物音が聞こえた。

 

 ぴちゃん────


 水が滴る音だった。


 ぴちゃん────


 私の頬に冷たい水滴が一粒触れた。


 ぴちゃん────


 それは天井の方から降ってきていた。


 私は上を見上げた。


 私が向き合っている大きな書架を乗り越えるようにして、私を見下ろし向こう側から覗いている女の顔があった。

 女の肌は人間らしさがまるでなく、人工物のようだった。

『イン・ザ・ミソスープ』に出てくる猟奇殺人犯の肌の描写を思い出して私はぞっとした。

 私に向かって垂れ下がっている女の長い髪は濡れていて、そこから水滴がぴちゃんぴちゃんと溢れていた。

 女はまばたきもせず目を見開いて私を見ていた。

 目が合った瞬間、女はその顔を向こう側へと引っ込めて、消えた。

 明らかにこの世の物ではなかった。

 私はあまりの恐怖に声も出せなかった。

 私はその場から慌てて逃げだした。

 





 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

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