第11話 土曜日2

「カナコさん降りて。この滑り台だよ」

 私は膝を曲げてその場にしゃがんだ。カナコは私の頭から輪っかになった手を引き抜くと地面に勢い良く倒れこんだ。

 物置の奥から表へ這いずり出てくるのと同じ要領で、滑り台の階段下まで肘を地面に擦りつけながら近づく。

 手摺に捕まり立ち上がろうとしてカナコは崩れ落ちた。

「頑張ってカナコさん。私も手伝うから」

 もう一度手摺に捕まり立ち上がろうとするカナコの体を私は支えた。

 なんとか立てた。カナコは階段に足をかけると、たどたどしく登り始めた。

 ゆっくりゆっくりと時間をかけ、なんとかてっぺんまでカナコはたどり着いた。


「カナコさん右を向いて。あの欅の木に練習した通りに言うんだよ」

 カナコはゆっくりと身をよじらせて欅の木の方を向いた。

 公園には私とカナコ以外に人はいない。

 物音もしない。静まり返っている。

 カナコが息を思い切り吸う音が耳へとクリアに飛び込んでくる。

 カナコの口が開く。粘着質な音をたてて上唇と下唇が離れる。

 私は右手で左腕を思い切り掴んだ。全身に力が入る。鼓動が早まった。


「いっ、しょ、に、し、のう! いっ、しょ……一緒に死のう!」

 カナコが叫んだ。今までにないスムーズな発音だった。すっと空気を切り裂くような通りの良い高音が欅の木まで届いた気がした。


 数秒後。

 一瞬だけ公園を突風が駆け抜けた。

 欅の木の枝葉がバサバサと大きく揺れた。

 空の色がどす黒く淀んだ。

 寒気がして鳥肌がたつ。頭と肩が重苦しくなる。


 欅の木に目を凝らす。

 ぼやけた黒い影が右に左に小さく行ったり来たりしながら、ぶらぶらと揺れていた。

 ぼやけていた影が次第にはっきりとした実像を現す。

 宙に浮いた白い運動靴。その運動靴から伸びる二本の細長い足。だらりと力の抜けた手。その二つを繋ぎ止める胴体。首。首から枝に伸びるロープ。そして目を閉じうつむく顔。

 首を吊った、詰襟の学生服の男の子が、そこにいた。

 あれが、ヒロミチ君なのか────


 ヒロミチ君の体が滑り台の方を向いた。ヒロミチ君とカナコが正面で向き合う形になった。

 その時。閉じられたヒロミチ君の目が開いた。

 ヒロミチ君の視線がカナコを捕らえる。

 上目遣いで睨むように。

 

「待ってたよ。カナコちゃん」

 声変わりが完全に済んでいないかのような男の子の声がした。ヒロミチ君の声なのか。ヒロミチ君の口は動いていない。それでも声がはっきりと私の耳にも聞こえてきた。

 カナコは小刻みに震えている。カナコもヒロミチ君の姿と声をはっきりと認識しているようだった。


「カナコちゃん待ってたよ。ずっと。一緒に死のうって約束、ようやく守ってくれるんだね」

 ヒロミチ君がカナコに語りかける口調は平板で淡々としている。それでもその中に、明確な殺意のような物が感じられて、私は身がすくんだ。


「カナコちゃんが、毎日地獄のような虐めにあっていた僕と一緒に私も死ぬって言ってくれた時は凄く嬉しかったよ」

 カナコの震えが大きくなった。必死に手摺に捕まってなんとか立ち続けているが今にも倒れそうだ。


「僕があの世に行ったらその後にすぐ私も行くって言ったよね。でも来てくれなかったね。なんで? どうして? 僕ずっと寂しかったよ」


 カナコが何度も何度も連続して叫び声を上げる。


「カナコちゃんが自分で逝けないなら、僕がやってあげる」


 その言葉の後、ヒロミチ君の首が下へ下へと伸び始めた。

 首に掛かったロープが外れた。

 細長い首がどんどんと長くなる。それにともなって首から下の体が地面へと次第に近づいてくる。

 首が伸びて伸びて伸びて伸びてついに、白い運動靴の底が地面に接地した。

 そして、その運動靴が動き出した。

 首を、ろくろっ首のように伸ばしたヒロミチ君が滑り台の方へと歩いて来る。


 滑り台の近くまでやってきたヒロミチ君は自由自在に伸びきった首を操って、複雑な放物線を描いた。

 そして、ぬっ。と首の先にある顔をカナコの目前まで近づけた。

「カナコちゃん。一緒に死のう」


 複雑な首の曲線がいったん真っ直ぐになる。するとまたすぐに動き出した。

 ヒロミチ君の顔がカナコの体の周りをぐるっと一周した。伸びきった首がカナコの体を蛇のように取り囲む。そしてぎゅっとカナコの体を思い切り絞め上げ始めた。

 カナコの華奢な体が折れそうになる。

 カナコは声も出せず苦悶の表情を浮かべながら、なすがままだった。

 ヒロミチ君の表情はずっと変わらない。それが本当に恐ろしかった。


 このままいけばカナコは逝ける。ヒロミチ君と一緒にあの世に行ける。

 窒息死か、それとも体が真っ二つに引きちぎれるのか。

 どっちにしろ、このままいけば確実にカナコはあの世に行ける。

 良かった。あの話は本当だったのだ。私の確信と行為は正しかったんだ。

 白目を剥いて涎を滴しながら苦痛にもがいているカナコを見ながら私はそう思った。


 あともう少しだ。その確信した次の瞬間。


「やっぱりこんなの間違ってる! 消えろバケモノ!」


 そう叫ぶ誰かの声がして、白い粉末のような物がヒロミチ君とカナコに降りかかった。

 

「ぐあああああ!」

 ヒロミチ君が悲鳴のような叫び声を上げた。そしてずっと変わらなかった表情が苦悶の表情に初めて変わった。


 私の横に気づくと誰かが立っていた。


「面倒な事には関わりたくないって言ったけど、やっぱり私の中の正義感ってやつが許さなかったわ」

 私の横に立っていたのはセリナさんだった。

 セリナさんはまた白い粉末のような物をヒロミチ君とカナコに投げつけた。

 ヒロミチ君の首が力を失くして緩むと、カナコの体から離れた。そしてどこかへ逃げようとする。

 カナコは解放されて、その場に力なく崩れ落ちた。


「塩って速効性あるし万能! でも段々と効き目なくなるの。ちゃんと除霊しないとね」


 セリナさんの服装はバドミントン部のユニフォーム姿だった。白いVネックシャツに赤いミニスカート。靴は学校指定の、体育の時に履く白い運動靴だった。


「やっぱりユニフォーム動きやすくていいね」


 そう言いながらセリナさんは年季の入った白い布で出来た肩掛けカバンの中から、金色の鈴のような物を取り出し右手に持った。


 そしてチリンと一回それを鳴らした。

 厳かで清みきった綺麗な音だった。


「我はピチピチJC、その眩い輝きはお前の暗黒を全て光で覆い尽くし浄化する! オンアビラウンケンソワカ! オンアビラウンケンソワカ!」

 

 セリナさんは人差し指と中指をくっつけ立て、それ以外の指を握った状態の左手を顔の前に置くと、そんな言葉を呪文のように唱えた。


 するとヒロミチ君の姿がどんどんと薄くなっていった。

 セリナさんはもう一度鈴を鳴らし、もう一度呪文のような言葉を唱えた。



「我はピチピチJC、その眩い輝きはお前の暗黒を全て光で覆い尽くし浄化する! オンアビラウンケンソワカ! オンアビラウンケンソワカ!」



 ヒロミチ君の姿がまた一段と薄くなった。


「あともう少し! だけど完全にバケモノを浄化するにはカナコさんの力が必要よ!」

 セリナさんがそう叫んだ。切迫感のこもった迫力のある力強い口調だった。

「カナコさんが作り出したバケモノでしょ! 頭の中で妄想して作り出したバケモノでしょ! 一緒に死のうって約束したヒロミチ君なんて、この世には存在してなかった! 全てあなたの妄想の産物!」


 滑り台のてっぺんで崩れ落ちていたカナコが頭を押さえながら悲鳴を上げた。そんなカナコに構わずセリナさんは続ける。


「長浜先生から聞いたの。カナコさん三年生最後の大会直前にアキレス腱切って試合に出られなくなった。その事で凄く落ち込んでた。自死を考えるほどに」


 カナコの悲鳴がますます音量を上げて暴れていく。錯乱状態と言っていいほどだった。


「そんな時に頭の中で作り出した物語がヒロミチ君との物語だった。その物語にあなたは救いを求めた。本当にそんな事になったらいいのにって。でもそんなの救いにはならなかった。あなたを縛りつける呪いになっただけ!」


 セリナさんは鈴を一度鳴らした。

 ヒロミチ君の伸びきった首はいつのまにか元に戻っていて、欅の木の下で倒れている。


「バケモノはね、人間のネガティブな心の闇を餌にするの。そして人間を取り込もうとするの。ヒロミチ君なんてどこにもいない。欅の木に昔から取り憑いた低級霊がヒロミチ君を装ってるだけ。あなたがこれからも生きたいと強く願って、ネガティブな心を消せばバケモノへの餌は絶たれるのよ!」


 カナコは悲鳴をあげるのを止め、肩で息をしながら呆然としていた。

 セリナさんが鈴を鳴らす。


「カナコさん、本当は生きたいって、物置の中から家に帰りたいって強く願ってるはずよ! さぁ叫んで! 私は生きたいって! 一緒に死のうじゃなくて、あたが口にするべき言葉は、〈私は生きたい〉よ!」


 カナコは口を大きく開けた。息を吸う音が聞こえた。喉の奥から空気が漏れだして来る。

 カナコが叫んだ。


「私は生きたい! 私は生きたいです! 私は生きたい!」


 欅の木の下で倒れていたヒロミチ君の姿が狸のような小動物の姿に変わってから、すっと消えた。


 黒く淀んだ空が、夕暮れのオレンジ色を取り戻した。

 カラスの鳴き声、人々の話し声、車のエンジン音が聞こえてきた。


 セリナさんが溜め息をつきながら鈴を鞄にしまった。

 カナコは座り込んで欅の木の方をずっと見つめている。

 私は全身を虚無感に包まれながら、ぼうっと立ち尽くす事しか出来なかった。

「これがあるべき姿なのよ。分かった?」

 セリナさんがそう言って私の肩に手を置いた。




  






 


 


 

 

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