第9話 金曜日2
放課後。物置の扉を開ける。
ユズハ……いや松下タカコが勢い良くまた私に向かってきた。
奇声をあげる。涎が勢いよく溢れる。そしていつもより激しく頭を私の腕に擦り付けてくる。
「昨日は来れなくてごめんね。はい。ごはん」
私はコンビニで買ったジャムとマーガリンが挟まったコッペパンを差し出した。でも松下カナコはそれには目もくれない。何か言いたげに真っ直ぐ私に目を合わせてくる。いつになく切迫した眼差しだった。
「どうしたの?」
松下カナコは口角が引き裂かれそうになるほど大きく口を開いた。喉の奥から空気が漏れる。絞り出すように声を発した。
「いっ、じょ、に、じ、のう! いっ、じょ、に、しのう!」
目覚ましく上達していた。たった一日で見違えるほどにしっかりとした言葉になりかけていた。
「凄い! 上達したね!」
「いっ、じょ、に、し、のう!」
「じょ。じゃないよ。しょ! いっ、しょ、に、し、のう。だよ!」
松下カナコは一度唾を思い切り飲み込むと、少し間を置いてまた言葉を絞り出した。
「いっ、しょ、に、し、のう! いっ、しょ、に、し、のう! いっしょにしのおおおおおおおお!」
松下カナコの激しい叫び声が裏庭に響き渡った。天高くどこまでも突き抜けそうな叫び声だった。
「凄いよ! 完璧だよ!」
私は松下カナコを思い切り抱き締めた。
これで救済できる。
「頑張ったね。ヒロミチ君に会えるよ。連れてってくれるよ。もう少し。もう少しで楽になるよ」
私は自分でもはっきり分かるほどに満面の笑顔になっていた。
そんな私の頭を、慈悲に溢れた表情で松下カナコは撫で回した。
私はもう一度コッペパンを差し出した。
今日はゆっくりと人間らしく、松下カナコはパンをじっくり味わうように食べた。
言葉はもう大丈夫だ。後はどうやってここから連れ出すかだ。
手錠はそのままでいい。足首を縛るロープはナイフで切れそうだ。問題は首輪に繋がれた鉄製の鎖だ。
物置の棚の支柱に繋がれている。物置の中に入り支柱と鎖がどうやって連結されているのかを確認する。
リング状の太い金具が支柱を取り囲むようにして取り付けられていた。
リングには繋ぎ目のような部分が二ヵ所ある。繋ぎ目と繋ぎ目の間の一センチほどの金属は、リングの中で独立しているような造りに見える。
ここをどうにかすれば外れるのではないか。そう予想した。
私はその繋ぎ目と繋ぎ目の間の部分を指で押したり、揺さぶったり、支柱に押し付けたりした。
しかし金具になんの変化も起きず外れそうもない。
何か特殊な工具でも使うのだろうか。
汗だくになりながら必死に格闘していると、松下カナコが奇声を上げるのが聞こえた。
「何してる?」
低く唸るようなお祖父ちゃんの声が背後から聞こえた。心臓が飛び出そうになった。思わず悲鳴を上げてしまった。
恐る恐る後ろを振り返る。
お祖父ちゃんは手に斧を持っていた。無表情だったが、暗く沈んだ目は、はっきりと私を睨んでいた。危ない。そう直感した。
「いや……ちょっと……あの……」
しどろもどろになるばかりで上手く取り繕う言葉が出てこない。
これではお祖父ちゃんに対してやましい事をしていた事が丸分かりだ。
私はお祖父ちゃんが何をするか、ただ固唾を飲んで、蛇に睨まれた蛙のようにただじっと待つしかなかった。
しばらくの沈黙の後、お祖父ちゃんは「あんまり余計な事はしないでな」そう言うと、くるっと踵を返してその場から立ち去った。
緊張が解けて私は膝から崩れ落ちた。
深呼吸を何度も繰り返す。そうしているうちに落ち着きを取り戻してきた。
松下カナコが心配そうな眼差して私を見ていた。
「ごめんね心配させて。大丈夫。ちゃんとやるから……。あまり時間を掛けない方がいいかもね。すぐに、明日にでも……」
私は松下カナコの手を強く握った。
松下カナコは私の言葉を理解したのか、頭を上下に激しく揺さぶりながら頷いた。
私の言葉が理解できるなら、やはりきちんと謝らなければいけない。そう思った。
「ごめんなさい松下カナコさん。ずっとずっとユズハなんて呼んで。ちゃんと名前があったのに。自分勝手な思いをあなたに押し付けてしまって……」
松下カナコは首を横に何度も振った。
「優しいんですね」
私のその言葉を聞いて松下カナコは微笑んだ。そして私の頭を撫でた。
また松下カナコが大きく口を開く。喉の奥から空気が漏れ出してくる。そして必死に絞り出すように声を発した。
「ユズハ、ワタシユズハ」
暖かい、穏やかな春の日差しのような声だった。
私は両手で顔を覆ってうつむき、涙を必死に堪えた。
明日、実行しよう。
私は決意した。
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