キャンディー泥棒の五木さん!

 じりじりと照り付ける太陽が、アスファルトを溶かさんばかりの真夏日。オサムは学校帰りに汗をだらだら流しながら、だらけた姿勢で歩いていた。

 背負った黒のランドセルが、灼熱の光を吸収し、時季外れのホッカイロと成り果てている。中に詰め込んだ教科書も、太陽光を吸ってブクブクと太ってしまったのだろうか。あまりの重さにひぃひぃと声が漏れた。

「暑い、重い、しんどいよぉ」

 オサムは誰にでもなくそう口にすると、灼熱地獄から一刻も早く解放されたいと帰路を最短ルートで進む。家に帰れば水が飲める。たくさん水を飲んで、扇風機に当たって、それから何をしようか。

 一応、学校からは宿題を出されている。もちろんしたくはない。だが、先日も宿題をし忘れて怒られたばかりだ。今日こそは、帰宅してすぐに宿題に取り掛かった方がいいだろう。それからどうしよう。最近親に勝ってもらったばかりのゲームもしたい気がする。コントローラーを傾けることで視点が移動し、好きなところにインクを塗ることができるゲームだ。まだちょっとしか遊んでいないが、色んなブキでインクを塗ることができ、インターネットを通せば世界中の人と対戦できるらしい。

 とはいえ、オサムのゲーム機はまだインターネットが開通していなかった。父に以前相談し、有線接続を考えてあげると言われていたから、しばらくはそれ待ちになることだろう。オフラインでも楽しめるモードが用意されていたから、オサムは帰宅次第ストーリー攻略に勤しむと決めた。

 そんなことを考えているうちに、愛しの我が家が見えてくる。このまま家に帰れず道路を歩かされ続ければ、きっと靴底のゴムが熱で溶けて身動きが取れなくなっていたことだろう。水やりを忘れたチューリップみたいに、通学路のど真ん中で干からびてしまったかもしれない。

「やっと帰れたああああ」

 オサムは大声を発しながらドアを開き、灼熱から逃げるように室内へと滑り込んだ。

「暑いぃぃぃぃ」

 気温は大差なかった。

 誰も居ない家の中で、気温を調整する機器が機能しているはずもなかった。クーラーも扇風機もお休み中。誰もオサムの帰りを待ってはいない様子だ。

 オサムの両親は共働きで、いつも家に真っ先に帰宅するのはオサムだった。そして、エアコンのスイッチを入れ、お風呂のお湯を沸かし、テレビのリモコンを付けて両親の帰りを待つのもオサムの仕事だ。

 彼は今日も、いつもと同じルーティンを過ごした。いや、ほんの少しだけずるもしたが。

 クーラーのリモコンを手早く操作し、いつもの設定温度より十度も気温を下げる。ついでとばかりに扇風機を引っ張り出しては、強風を吹かせた。

 水道の蛇口を勢いよく捻り、コップも使わず直接口をつけて飲む。汗ばんだ喉が水を運んでうねる度、ゴクッゴクッと音が鳴る。体は干からびる寸前だ。オサムは際限なく水を飲み続け、自分のシャツが水道水で濡れてしまったことに気が付いてようやく蛇口を閉めた。

 それから冷凍庫を開き、氷を取り出して口の中に放り込む。奥歯で勢いよく噛み締めた途端、割れた氷の破片が口いっぱいに広がった。オアシスはここにある。彼は幸せを感じながらリビングの床に寝そべった。

 木製のフローリングが、汗ばんだシャツ越しにひんやりとした感触を伝えてくる。

「きもちぃぃぃ」

 思わずそう口にしたオサムの耳元で、突然声がした。

「だらしない姿だねぇ、オサム君」

「五木さん!? いつの間に!?」

 そこには、ダボダボのシャツにホットパンツを身に着けた色白の女性が寝そべっていた。彼女はかまぼこ型の釣り目をニヤリと笑わせ、白い歯を見せる。

「さっきからここに居たよぉ? 気が付かなかったのはオサム君の方でしょ?」

 彼女はいつの間にかオサムの部屋にある押し入れで居候を始めた五木さん。いつも視線に困る格好をしている。今日も、うつ伏せで寝そべる彼女の襟元からは、まるで陶器のように艶やかな巨峰がチラリと覗いている。

 オサムはサッと目線を逸らしつつ尋ねた。

「こ、こんな暑い部屋によく居られたね」

「そりゃまぁ、私は居候の身ですから。私が勝手に電気や水道を使うわけにもいかないでしょお?」

 頬杖をついてオサムの顔を覗き込む五木さん。彼女の魔性な眼に引き込まれないよう、オサムは目を合わせないよう気を付けた。

「ねー、オサム君。どうしてこっち見ないの?」

「別に、熱いから天井のシミ数えてるだけだもん」

「そっかぁ。じゃあ、お姉さんもやろっかな?」

 彼女はそう言うと、ゴロゴロとオサムの横まで転がってきて仰向けの姿勢になる。ぴとっと肩に彼女の腕がぶつかって、思わずオサムは目線を向けてしまった。

 低く小さな鼻、柔らかそうな下唇、汗ばんだうなじと、襟元から見える鎖骨のライン。思わず見とれてると、また五木さんの声がした。

「オサム君のエッチ」

「へ?」

 慌てて顔を上げると、意地悪な笑顔をこちらに向けた五木さんがそこには居た。彼女はニマニマと口角を上げ、擬態していた下顎を外して虫らしい口を開く。粘着質な糸を引いた口の中に、コロッと紫色のビー玉が見えた。

「オサム君、今私のどこを見てたのかなぁ?」

 口の中で紫色の玉を転がしながら、五木さんは意地悪に笑う。

「ど、どこも見てないもん」

「本当かなぁ? 今の目つき、とってもいやらしかったぞお?」

「本当だってば。もう! 五木さんしつこい!」

「えー? だってオサム君が嘘ついてるんだもぉん」

「嘘ついてないもん」

「本当にぃ?」

「本当だもん!」

 ムキになって言い返すオサムが面白いのだろう、五木さんは隣で寝そべるオサムの頬にそっと手を当てて目線を合わせる。

「じゃあ、オサム君。今から私の言うことには、正直に、素直に、嘘偽りなく答えてね。目を逸らしちゃダメだよ? ちゃあんと、私の目を見て。ほら、今また目を逸らそうとしてた。それじゃダメ。ちゃんと私のことを見て。目を見て、じっと見て」

「うぅ……」

 オサムは自分の顔が赤くなるのを肌で感じた。頭の先まで真っ赤だろう。だって、顔が熱くて仕方がないのだから。この熱さは、先ほどまで感じていた真夏の太陽によるものじゃない。熱中症に似た。内側から湧いて出る熱さだ。

「いい子。ちゃんと私の顔を見て、しっかり質問に答えてね。それじゃあ一つ目から聞くね」

 オサムは五木さんのきれいな瞳をじっと見つめたまま小さく頷いた。なぜだろう。ここまで密着されると、なにも抵抗ができない。体に力が入らない気分だ。

「オサム君、私の隣で寝そべりながら、ちょっとエッチなこと考えてたでしょ?」

「か、考えてないもん」

「あ、今嘘ついた」

「ついてないもん!」

「嘘だー。お姉さんの目はごまかせないぞ? 今答えるとき、目が泳いでたよ。オサム君分かりやすいなぁ」

「分かりやすくないもん!」

 オサムは強く言い返すと、五木さんの体を両手でトンと押した。慌てふためき目を瞑りながら押したもんで、彼自身どこを強く推したのかよく分からない。でも、とても柔らかくてふわふわしたところを押してしまった感触だけが両手に伝わったことだけは確かだ。

「いやーん、オサム君、大胆!」

 わざとらしく色っぽい声を出した五木さんから必死に目を逸らして、オサムは起き上がる。

「あれ、オサム君どこ行くの?」

「トイレ!」

「トイレ? あ、ふーん?」

 なぜかニヤニヤとした顔をさらに綻ばせた五木さんは、オサムの両足をガシッと掴んだ。

「ちょ、五木さん!?」

「トイレだーめ」

「え、なんで!?」

「ダメなものは、だーめ」

 そういってまた笑う。彼女の擬態はもはや意味を成しておらず、割れた口角から虫由来のパーツが見え隠れしている。

 彼女は蟲娘と呼ばれる種族の一員らしく、ゴキブリ娘なのだという。本来はゴキブリを先祖に持っており、人間の姿へ擬態し人社会に紛れて生きているのだとか。それにしては、小学生の部屋に居候として上がり込んでいる時点で社会に紛れることは失敗しているような気もするが。

「話してよ五木さん。漏れちゃう」

 懇願するオサム君を下から見上げつつ、五木さんはべっと舌を出した。

「だーめ」

 その口の隙間から、またしても紫色の何かが見える。

「……あれ、五木さん、それって」

「ん?」

「それって僕のブドウキャンディーじゃ?」

 オサムは五木さんの手を振りほどくことをやめ、慌てて目線をリビングのテーブルに移した。そこには、オサムが帰ったら食べようと思っていたキャンディの袋が。もちろん、中身は空っぽの袋が。

「それ……僕のブドウキャンディー……」

「あー、だって、お腹すいちゃったんだもん」

 てへっと笑う五木さんだったが、オサムはもうその手は通用しなかった。

「かーえーしーてー!」

 オサムはそう言うと、五木さんに馬乗りになって手を口へ伸ばす。

「ちょ、オサム君!? ストップストップ。私が、私が悪かったから!」

「かーえーしーてー!」

「分かった、わかったわかった、返すからぁ!」

 五木さんはオサムの豹変っぷりに驚いた様子で口からキャンディーを取り出すと、彼の口に無理やり突っ込んだ。

「ふぁ!? もぐっ。もごもご……」

「こ、これでいいでしょ?」

 恐る恐る尋ねる五木さんだったが、オサムはどうやら満足したらしい。甘いブドウ味のキャンディーを舐めながら、彼は幸せそうな表情を浮かべていた。

「一応これ……間接キスなんだけどなぁ」

 そう五木さんが呟くも、彼は心ここにあらずというった様子だ。

「ま、いいか」

 五木さんがそう言って立ち上がった瞬間だった。

「ただいまー!」

 母が帰宅する声がして、五木さんが慌てる。もちろんオサムも慌てる。

「どうしよう、帰ってきちゃった!」

「五木さん、早く僕の部屋に隠れて!」

 五木さんはオサムの部屋の押し入れに向かって目にも止まらぬスピードで走っていき、オサムは慌てた拍子にキャンディーを噛み、そして小便を漏らした。

「あ……」

 オサムは思い出す。そういえば先ほど、トイレに行きたかったんだよなぁ、と。

 フローリングを尿で汚された実情を目の当たりにした母親の絶叫が響き、その後クーラーの設定温度がバレてしまいクドクド怒られたことは言うまでもない。

 結局この日も、オサムは宿題を出来ないまま終えた。

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