カレーを食べよう五木さん

 日が傾き始めた夏の夕暮れ、窓の外では蝉の声がシャワシャワと鳴り響いている。オサムはシャツで汗ばんだ顔を拭いて、コップを手に取った。

 氷の浮かんだ水道水を持ち上げると、水面が夕日に染められオレンジ色にきらめく。

 コップの表面も、まるでオサムの額みたいに玉のような汗がにじんでいた。

 彼はコップのふちに口をつけると、喉を鳴らして水を飲み干す。そして一言、ぷはぁと口にした。それを見て母親がくすくすと笑う。

「ぷはぁ、ですって。パパ見た?」

「あぁ。見た見た。おっさんみたいだったなあ」

「絶対今のはパパのマネよ?」

「え? 僕っていつもこんな感じかい?」

「えぇ、ビールの一口目はいつもこんな感じ。本当にそっくりだわ」

「そうかそうか、僕にそっくりだったかぁ」

 父親はまんざらでもなさそうに頭をかいた。その姿を横目に、オサムはスプーンを手に取る。今日の夕食は、彼の大好物であるカレーライスだ。

「いただきます!」

 オサムが手を合わせると、両親もにこやかに同じ仕草をした。

「はい、いただきます」

 ご飯を食べるときはいただきますをする。学校で教わるよりもずっと前から、両親に教わった大切なことだ。

 オサムはスプーンにカレーを乗せて、そのまま一口口に含ませた。甘口のカレーが口の中一杯に広がって、鼻孔をスパイスの香りが駆け抜ける。

「おいしい!」

 オサムは目を輝かせて母親に告げた。

「本当? よかったわ。おかわりもあるから、たくさん食べてね」

「うん!」

 オサムは元気よく返事をすると、カレーとライスをぐやぐちゃにかき混ぜる。カレーライスはぐちゃぐちゃにした方がおいしい。そうに決まっているのだ。

 パパもママも、カレーとライスを混ぜずに食べているが、きっと二人は真のカレーライスにまだ出会っていないのだろう。絶対に混ぜて食べた方が、美味しいのだというのに。味が均一に混ざり、常に柔らかな触感が口の中を覆う。咀嚼のたびに新鮮なスパイスの風味がはじけ、咀嚼を続ければカレーが染みた白米が甘みを分泌させる。

 こんなおいしい食べ方を、どうして大人はしないのだろう、とオサムは思った。

 もちろん、そんな野暮なことを言ったりなんかしない。

 オサムはカレーライスにポリシーを持っているのだ。きっと全人類、いずれ到達するこの最高級な食べ方には、自分の力でたどり着くべきなのだ。オサムがわざわざ口をはさんでいい代物じゃない。

 一方で、父親は卓上調味料の入った棚からガラムマサラとチリペッパーを取り出した。ガラムマサラには、シナモンやクローブ、クミンといった様々なスパイスが入っているらしい。これをかけるだけでカレーの味が一段と際立つのだとか。もちろん、オサムは使ったことがないのでよく分からない。しかし、邪魔なものを混ぜ込んでしまってはカレーのおいしさが損なわれてしまうはずだ。どうしてわざわざ訳の分からない調味料を追加するのだろう。

 そして、チリペッパーはカレーを辛くするためのスパイスなんだとか。ママはいつもオサムのために甘口のカレーを用意してくれているが、パパはどうもその甘さが好きじゃないらしい。だから、こうして卓上調味料には一味唐辛子や七味唐辛子、七味ゆず胡椒にチリペッパー、ワサビやからしやタバスコなどなど、辛くするための調味料が鎮座している。

「なんだそんなにマジマジとパパのカレーを見て。ちょっと食べてみるか?」

「いらない」

 オサムはぶっきらぼうに言い放つと、カレーを口の中に詰め込んだ。

「まぁ、これは大人の味だからなぁ。まだ子供のオサムには早いだろう」

 父はちょっと意地悪そうな顔を見せて笑う。その表情から目を逸らして、オサムはカレーを平らげた。

「おかわり!」

「自分で入れられる?」

「うん!」

 母の心配をよそに、オサムはカレー皿を抱えてキッチンへと向かった。そして、ライス、カレーを皿の上に乗せる。それから大声を張り上げた。

「僕の部屋で勉強しながら食べてくる!」

「あら、宿題汚しちゃだめよ!」

「はーい!」

 元気よく返事をしたオサムは、カレーの入った皿を抱えて階段を駆け上った。目指す場所は自分の部屋。その理由は、扉を開けたその先にある。

「お待たせ、五木さん」

 オサムが自室のドアを閉めてそう口にするのと同時に、押し入れの戸がそっと開いた。

「遅いよオサム君、お姉さんお腹ペコペコなんだけどぉ?」

 中から出てきたのは、銀髪の女性だ。彼女は白く艶めく素肌を露出させたダボダボな格好で押し入れから這い出すと、ヨレヨレのシャツを両手で伸ばしながら大きくあくびをした。大きい釣り目が潰れ、涙がちょびっと滲んで長い舌まつげを湿らせている。

 彼女の名前は五木さん。いつの間にかオサム君の部屋に居ついて、居候をしているお姉さんだ。

「ねぇ、オサム君、もしかして今日の夕飯って、カレー?」

 目を輝かせて問う五木さんに、オサムは笑顔を向けた。

「正解! ママの手作りカレーだよ!」

「わぁ、嬉しい! 私カレー大好きなんだァ」

 五木さんが目を細めて笑う。八重歯がちょこんと見えて、年甲斐にもなく大げさに喜ぶ五木さんは子供のように見える。そんな姿がなんとなく恥ずかしいもののように思えたオサムは、そっと目を逸らした。

「オサム君オサム君、あーん」

「……え?」

 ふと、目線を五木さんに戻すと、彼女は前のめりの姿勢で口を大きく開けていた。

「お腹すいたんだよぉ、ほら、オサム君、あーんして?」

 目を細めていたずらっぽく笑う彼女の表情に、思わずドキッとしたオサムは声を張り上げる。

「じ、自分で食べたらいいだろ!」

「えーん、私食べられないの」

「た、食べられないってどうして」

「んーと、んーとねぇ」

 厚い下唇にそっと人差し指を添えて、五木さんは考える素振りを見せる。

「さっき押し入れの戸を開け閉めするときに腱鞘炎になっちゃってぇ」

「ケンショーエン?」

 言葉の意味を理解できず首を傾げたオサムを見て、五木さんは嬉しそうに笑った。

「そっかそっか、分からないよね。腱鞘炎。えっとねぇ、手とか指とかを使いすぎると、関節のあたりが居たくなるんだ」

「そ、そうなの? え、五木さん今腱鞘炎? ってやつなの?」

「そうなの、私今腱鞘炎なの。押し入れの戸を開け閉めするのに関節が居たくなっちゃって腱鞘炎なの」

「痛い?」

「うん、とぉっても痛い。どうしようオサム君。とっても痛いなぁ」

「えっと、えっと……」

 わざとらしく痛い痛いと繰り返す五木さんを見て、オサムはどうしたものかと眉尻を下げた。

「だから、私今スプーン持てないんだぁ。あーん、して?」

 そういって再び笑った五木さん。彼女の頼みだ、しかも彼女は今負傷中なのだという。ここで断るわけにもいかないだろう。オサムはそう決心すると、スプーンに手を付けた。

「じゃあ、五木さん。零さないようにね?」

「わーい! やったやったぁ。あーん」

「は、はい。あーん」

 オサムがそう言いつつスプーンを彼女の口元に近づけると、突然彼女は口を閉じて姿勢を正した。

「五木さん? どうしたの?」

「熱そう」

「……え?」

「このカレー、なんか熱そう」

「えっと、まぁ。そりゃアツアツだけど……」

 オサムがスプーンの先に目を移すと、確かにカレーからは白い湯気が昇っていた。そりゃ先ほどまで大きな鍋に入っていたカレーだ。ついさっきまで弱火でじっくりコトコト煮込まれていたカレーだ。熱くない方がおかしい。熱くて当然なのだ。

「えっと……?」

 オサムは五木さんが何を言いたいのか理解できず首をひねった。

 そんな彼を見て、彼女は頬を膨らませる。

「もー、なんでわからないかなぁ。ほぉらぁ、ふーふーして、冷ましてよ!」

「え、僕が? え、なんで?」

「なんでって、そりゃ、だってぇ。私さっき押し入れを開けるときにお口も腱鞘炎になっちゃったから」

「お口も!?」

 驚きのあまり声が大きくなってしまったオサム君を見て、五木さんはしめしめと笑う。

「そうそう、お口も腱鞘炎なの。だから私、フーフーできないのぉ」

「うぅ……そっか」

 オサムは納得すると、スプーンに向かってフーフーと息を吹きかける。そのたびに湯気がゆらゆらと揺らめき、スプーンに籠った熱が分散されていく。

「えへへ、オサム君ありがと」

 五木さんはそう言って笑うと、再び口を大きく開けた。

「は、はい。あーん」

 オサム君も彼女の口に、カレーを乗せたスプーンを運ぶ。もうこれで熱くはないはずだ。

「あ、待ってオサム君」

 再び彼女はそう言うと、スプーンから距離を置いてジッとカレーを見つめた。

「ねぇ、オサム君、これ甘口カレーじゃない?」

「え? そりゃ、甘口カレーだけど……」

「やだ」

「え?」

「やーだー」

 彼女はまるで子供みたいに拗ねたかと思うと、どさっと床に腰を据えた。

「辛口がいい」

「えぇ……」

 オサムは少し困った表情を浮かべる。なにせ、辛口カレーを作るためには再びリビングまで下りて、父親が愛用しているチリペッパーの入った瓶を取ってくる必要があるのだ。つい先ほど夕食時に父からの誘いを断って甘口カレーを選んだ手前、辛口スパイスを取りに行く勇気はなかった。

 仕方がない、オサムは心に決める。

「これ、辛口だよ?」

 そう、嘘をつくことにしたのだ。

「ぼ、僕辛口大好きだから」

「そ、そなの?」

 つい先ほどオサムの口から甘口カレーだと説明を受けていたはずなのに、五木さんはきょとんとした顔を見せた。そう、オサムの言葉を信じたのである。つい先ほどまで腱鞘炎だのなんだのと嘘をついていたくせに、他人から疲れた嘘には一切気づかない。そんな五木さんは、嬉しそうに再び口を開けた。

「じゃ、あーん」

 顎が二つに割れ、人間の顔に擬態していた部分が捲れていく。触角が生え、昆虫質な口があらわになる。いつの間にか釣り目は複眼になっており、そのシルエットはゴキブリそのものだった。

 そう、彼女はゴキブリ娘。普段は人に擬態しているが、その真の姿は人に化けたゴキブリである。

「あーん」

 五木さんは嬉しそうに口を大きく開けた。そこに向けて、オサムはスプーンを突っ込む。昆虫特有の横に開く口を見て、オサムはなぜかドキドキと胸を躍らせていた。

「ど、どうぞ」

「あーっむ。もぐもぐ……」

 数度咀嚼を繰り返した五木さんは、ピタリと咀嚼を止めてオサムの顔を見た。

「ど、どうしようオサム君」

「……?」

 首をひねって疑問を浮かべるオサムに対し、五木さんはハッキリと言い放った。

「このカレー、辛すぎてむしろ甘く感じる……私の舌、極度に使いすぎて腱鞘炎になっちゃったかも!」

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