第1話 ウブゴエ

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 君は異形を見たことがあるか。


『エイリアンなら』


 そう問われた時にモモが答えられる言葉。


 もしその単語を、日本の伝承として残された妖怪や物の怪といった霊的な類いであるというなら、モモの答えはノーだ。妖怪の類いというは、かつて技術階層の低かった時代の産物。人体の機能以外に、人間が頼れる観測手段が乏しかったことが理由である。


 もしも当時の人間に、現代までに蓄積された知識と、それを脳が発揮できるだけの十分な栄養素と、いくらかの機材を与えられたならば、妖怪の類いはたちまち伝承から消え去るであろう。


 妖怪の誕生には、シミュラクラ現象を代表とするパレイドリアに起因するものもあるだろうし、己に降りかかった事象に対し恐怖、猜疑、畏敬、憧憬、崇敬といった心理に基づくものもある。合理的に説明できない事象――怪異と呼んでもよい――に、なんらかの形を与えていたのだ。


 形があれば、誰かが退治してくれると祈った。


 とくに便利な存在は『鬼』だ。並の人間では御しきれない事象に、さしあたって人類に近しい頭部と四肢をあてがったに過ぎない。ただ、その根拠となった畏敬の念は本物であろう。後の時代にも比喩として愛された。『鬼』は千五百年以上前には『オニ』とカタカナでよく使われ、『ヤバ』『エグ』に並ぶ古語多義語である。


 過去の人間にすべきものとして知識、栄養、機材の以外にも必要なものがあった。自然崇拝の排斥だ。だがそこまで手ほどきを加えては、もはや当時の人間とは言えまい。


 時間の逆行が可能なら、三九〇〇年代後半の現代人を過去に送り込んだ方が早い。一〇世紀辺りで産業革命を起こし一二世紀には宇宙進出できるようにしてこい、と命令して。源義経は日本人初の宇宙飛行士として名を残す。


 彼ら妖怪が、日本人の心に根付いていたのもいまはむかし。三二一八年、気体生命体という地球外文明遭遇と、モノとヒトの多大な犠牲の果てに人類の勝利に終わった宇宙戦争以来、ゴーストよりもエイリアンの方が心理的影響に勝っている。


 忘れ去られた理由は他にもある。第五ミレニアムを見据えたいま、地球が主導権を握る時代は遠い過去。三三〇〇年以降に発生したいくつかの凄惨な地殻変動を契機として、地球の観光地化を名目に全人類の地球脱出を実行した。人類はテラフォーミング済みのいくつかの惑星に根を張り、新たな文明発展と研究の地として星系外を睨む。


 我々の血をつないだ地球の歴史も、稚拙故に生み出された地球の伝承も、出来の良い模型やデータセンターの中に封じられた。


 人類は自然が産んだ環境を忘れようとしている。人々は計算され尽くした未来都市、コロニーや基地に住まい、計画された広大な自然公園にすがすがしさを覚える。合理的に説明できない事象など起こるはずもない場所で暮らしている。


 妖怪は消え去った。


 学ぼうとしなければ知り得ない、記録の奥底に眠る。


 異形とは、人間の形をしていないエイリアンである。


 そのはずだ。



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「カルティベート・セクション、コンプリート。成功です、培養人体の完成度は一〇〇パーセント」


 声が聞こえる。


「肉体の有無は関係ない。記憶がはっきりしていればそれでよいであろうが」


 まるで水に沈んでいるかのように、声はくぐもって聞こえている。

 モモの耳は振動を脳に伝えていく。


「神経系の再稼働は三週間前に確認済みです。活動停止前の脳波データがありませんので、以前と同じかは保証できません。それに肉体再生を進めたのはアカオニ殿では」


 目を開けたいが、コールドスリープ後のように筋肉が思うように動かない。


「ヤツめ。デジタイズされた記憶の再生で十分であったろうに。今さら人間など」


 周りの者は、いったい何の話をしている?


「アオオニ殿、培養人体が目を開けようとしています」

「眠らせろ。死人に地獄を見せるにはまだ早い」


 死人。誰が。地獄。どこが。


 なにを。言っている。



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 朝、覚醒する瞬間、最初にするのは深い鼻呼吸。

 吸った空気が肺を見たし、匂いを感じることで覚醒に近付く。

 洗い立てのシーツ、清澄さを感じさせる冷気、ほんの少し混じる薬品……薬品?


 粘ついた唾液が口内に溜まる。呻きにも似た声が漏れた。


「ゆっくり」


 声だ。女の声。


「ゆっくりでいい」


 低音でハスキー、包み込んでくれるような優しさがある。聞きやすさばかり優先する人工知能が決して自ら生成するはずがない、肉声と信じられる声音。


 声の主の姿を知りたい。


「私の声は聞こえているな。目はまだ開けない方がいい」


 その言葉に疑問を返そうとしたが、やはり呻き声しか漏れない。胸の奥が熱を帯びて、すこし痛んだ。

 まぶたも同様、うまく筋肉が動かない。


 気付かない内に超長期のコールドスリープに身を投じていたのか。いつ低代謝状態を救難艇に指示した?


 頭が痛い。


 そうだ、救難艇、私はそこにいた。


 時間遅延装置付きの救難艇だ。北フェルミバブル探査船団デカヤマト防衛隊の生体中枢命令官オーダーマンとして赴任した。フェルミバブルに漂うわずかな恒星のひとつ……その付近にジャンプアウトした後。何か――何かが起こり、船団を構築していた半数以上の艦船が主機停止、電源喪失……瞬く間に混乱に陥った。


 コールドスリープポッドを満載にしたディー・エス・コンテナーの全てから通信が――独自の電源を持つはずの人工知能たちも含めて――途絶えた時には、身の毛立つ思いだった。デジタイズしていた一〇万人分の意識群から応答が無くなり、彼らが管理していた三〇億人分のコールドスリープポッドが一〇秒の内に機能停止した。緊急時に作動する二次以降の蓄電気すら、コンテナーは失っていた。


 そうだった。どうしようもなかった。


 生き残った数万人は断腸の思いで船団放棄を決めた。


 時間遅延式救難艇に乗り込み、太陽系の予測軌道へ向けて出立した。災禍に遭わなかった一人乗りの防護艦や無人艦に救難艇を吸着させた状態で、可能な限り地球の近くへ届くよう最大距離でのジャンプを実施した。倍以上の大きさに膨れた艦の時空跳躍では、それほど遠くへは行けない。ジャンプ中に脱落した救難艇も多かった。


 そしてジャンプアウトした後には、救難艇外時間で一万年をかけても辿り付けるか不明の旅路が、私たちの前に広がっていた。絶望、願望、それぞれを口にして、やがて互いに通信することをやめた。


 救難艇は漂った。


 人類が更なる発展を遂げ、予定よりも早く見つけてくれることを祈って。人類文明圏へと続く、あまりにも長大な川の流れにあると信じて。


 そうなのだ。


 ぼくは辿り付けたのか? 最後に聞いた通告ファイルの経過時間は、四三八万日! 約一万二千年の時が過ぎた! もしその後にコールドスリープに入ったとすれば、更に長い時間が過ぎているだろう……。


「こ、こ、は」


 ここは、人類の居場所か?


「急にすべてを思い出そうとするな」


 聞きたいことが山ほどある!


「あ、あな、たは?」


 声の主は黙る。


 だが、頭蓋と咽喉に埋め込んだ翻訳機が機能しているということは、既知の言語を話している証拠。それに、この柔らかなベッドの感覚を知っている種族は、薄くか弱い肌を持つ人類に他ならない。


 勇気を出し、眉間とこめかみに力を込め、まぶたを開ける。

 無指向性ライトのはずだが、それでも目が焼けるようだ。光芒に数人の影が映る。


 人間だ。


「ぁあ……良か、った。ぼくのきゅう、救難艇は、一〇二六五。フ、ルミバブル、探査において、問題がは、発生。二万八千、人の生存者が、太陽系へ、向け脱出。ほかに生存者は?」


 喋っている内に、だんだんと喉が慣れてくる。

 冷めた空気を吸っているはずなのに、少し燃えるような感覚が肺にあったが、次第に呼吸が落ち着いてきた。

 目も同様だ。周りに立つ彼らの表情が見えてくる。


 おかしい。


 老人ばかりだ。

 女性の声と思われる人物はいない。いや見た目通りとは限らない。老人の容姿を選んだ女性や、肉体を持たないデジタイズ意識体のアバターの可能性も――。


「やい!」


 別の女の声だ。野太く、覇気がある。


「来るなと言ったはずだ」


 先の女の声が咎める。


「ほざけ。人間が目覚めたそうだな。まったく、人体再生など施すから時間がかかる。……ん? これはなんであるか?」

「待て、アオオニ!」


「まだるっこしい!」


 老人の影が裂ける。その後ろに現れたのは。


「う」

 人間のそれより遙かに大きな。

「うあああああ!」


 赤と青の異形だった。



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