第2話 イギョウ

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 モモは鼻血を拭いた。


 複数の鎮静薬が投与され、言葉が支離滅裂になるまで言語活動が低下し、虹色の地平線を何度か眺めたものの、回復措置によりなんとか立ち直る。


 亢進が薬物により抑えられた結果、視覚からの情報がいやに鮮明に映る。目の前の人物……と呼ぶべきかわからないが、現状をどう受け止めるべきか、戸惑いは消えない。


「ハッハハ、元気はいいようだな」


 ハスキーな低音が、混乱から回復したばかりの脳に染み渡る。


 声に導かれ、視線が女へと向いてしまう。


 束ねて腰ほどまである長髪、アンダーリムの眼鏡、白衣とタイトスカートのスーツ、ストッキングにパンプスという姿容。トラ柄のタイが目立っている。


 女の格好だけで言えば、第三ミレニアム初頭に見られた研究員に近い。地球回帰主義者という、地球軌道上を離れられない者たちが好む格好。機能性に乏しく燃えやすい素材でできた旧時代の衣服は、博物館において適切に管理されるべきだ。


「いや、まずは謝るべきか。すまなかった。覚醒後のショックを和らげるために虚像を用意したのだが、あの粗忽者はそれを理解しなくてな」


 病室、というものをモモはあまり見る機会が無かった。


 強化された遺伝子構造と、細胞に混じるメディカル・マイクローブにより、大抵の疾病は発病前に対処された。万が一発病したとしても、状態を察知した体内チップから情報がデータセンターに共有、瞬く間に適切な医薬品が印刷もしくは送り込まれ、その時初めて自分が患っていると気付く。たいていは長くても八時間以内に回復に向かえる体制だった。


 時間がかかるものといえば、精神的なものや――バックアップデータの移植手術で済むデジタイズ意識体を除いて――肉体欠損といったものだ。少なくとも、宇宙船という限られた空間で働くまでは、病室を見る機会は無かった。


 それでもここが病室だと気付けたのは、特徴的な消毒剤の匂い、抗菌性を重視した滑らかな内装、千年以上姿が変わらない床頭台、高い天井には感覚器を刺激しない無指向性ライト、何よりモモ自身の眠るベッドが、ストレッチャー代わりになる浮揚ホバーベッドであるからだ。


 白一色。

 穢れを寄せ付けない部屋。


「お前が混乱している間に追いやったから、ヤツに関してはひとまず無視して構わない」


 だがそれら全てが、人間が医療のために考え抜いた空間であると認識すると同時に、どうしても信じられない事実に再び頭痛が蘇る。


 赤くて。


 生えていて。


 大きかった。


 そう、女の肌は真っ赤だった。


 低温の恒星系から高速で離脱するとき、主星から放たれる可視光線の中で波長の長い光を受容するために、見かけの赤色が更に深みを増す。単純なキネマティカル・レッドシフトにより変化したスペクトルは、褪せることのないスペクタクルとして記憶に刻まれた。


 それは宇宙機の窓に丁寧に施されたフィルターによる姿。赤い恒星は現実には宇宙において低温といえども、強烈なエネルギーを蓄えた塊である。銀河に覇を唱える人類にとって、なくてはならない無情の灼熱。


 事実と虚構の入り交じった赤。

 真っ白な空間でいやに目立つくせに、奇妙にも整った服を着てみせる赤。


 だが、それだけではない。


 膝上で組まれていた赤い手がほどかれる。鋭い爪の手がどこに向かうかと思えば、眼鏡のフレームに触れ位置を正した。レンズの奥に歪みは見られない。恐らく度なしか、モニターになっているデバイスだ。もちろん、度の入った眼鏡など博物館収蔵品に違いない。


 手はさらに上へと伸びていく。


「そう怯えるな。食人の趣味はない」


 冷ややかに笑む女が角を撫でた。


 切り揃えられた前髪を分けて、額の中心から生身の人間には存在しないはずの、ぬらりとした角が生えていた。砂まみれの被甲目のようなくすんだ黄色で、赤い肌と並んで目立つ異形の証。


 ふたつの色に意識を集中させていると、目がちかちかしてくる。

 関わってはいけないなにか。そんな気がしてくる。


 いいや、それだけでもない。


「ふむ。なにを考えている?」


 女が脚を組み替える。


 薄手のストッキングに包まれた赤黒い脚は筋肉質。盛り上がった大腿筋がスカートをぴちりと伸ばし、パンプスに収まる大きな足と下腿も大きく、それでいて長い膝下のおかげで太すぎるように見えない。


 背筋はぴんっと伸ばされていて、足を組んでいても体勢を維持できるだけの筋肉が胴体にあることがわかる。大胸筋も豊かで肩幅も広い。


 女は巨躯だった。


 モモは見下ろされていた。女はベッドから離れた位置で足を組んで座しているのに。浮揚ベッドは床から五〇センチ程度と低くない高さを維持しているが、女の座面はそれよりも遙かに高い位置にあった。


 仰向けに寝そべるモモが、ぐいとあごを引いてみた時、目ん玉は自然にしたままでも女と目が合う。


 目算、人間の倍ほどの背丈。


「思考を巡らせているのはわかっているぞ。モニターしているからな」


 人間のものよりも太い喉――しかし女の全身から比べれば細い――が唸る度に、びくりと身をひくつかせる。


 そんな状況でも亢進はかなり治まり落ち着きを取り戻しつつあった。久しぶりに呼吸を意識する。細く吸って、肺の空気を入れ換える。できるだけ新鮮な空気を巡らせ続け、この状況を理解するのだ。


 理解できるか?

 理解すべきだ。


〈ここは実は地球ではなく、異星文明の餌食となっている〉説は取り消しだ。


 床頭台には見間違えようのない日本語が記載されている。この偏屈な言語は、どんな地球外文明にも理解することは不可能だ。故に淘汰されず、旧弊な人々によって残されてきた。モモ自身の名前もその流れにある。


〈一万二千年以上もの時をかけて得た人類の新たな姿〉説も取り消しだ。


 なるほど、強烈な太陽風から耐えるために、施設に閉じこもる以外に皮膚を変質させることで対処したのかもしれない。あの角も何かしら機能のあるデバイスであるかもしれない。しかし、体長をここまで大きくする意味はない。人類は意識デジタイズによって肉体を捨てられる技術階層まで到達したというのに、あえて巨体にする必要が?


〈娯楽の枯渇に苦しむ西暦一六〇〇〇年代の人々が用意した偶像〉説。


 モモとしてはこれを推したい。恐らくは全て――当然ながら女も含め、ナノマシンまたはそれに連なる技術で構成された、仮想を高度に現実世界にもたらす感覚的体験。病室という空間に異質な存在をひとつ投げ入れることで、長い年月を渡ってきたモモの感性を探ろうというのだ。


 あまり面白くない。この件の担当者には、救難艇に収められた精神的緊張緩和装置の一部に触れてもらおう。


「喋らないな」


 女が組んでいた脚を解き……立ち上がった。


 恵まれた筋肉量とバランス感覚で、巨体を思わせずすっと身を起こす。頭頂が天井に当たりそうだ。光源に近付き、顔にはコーカソイドの特徴があるように見え、似て非なるものだと気付いた。赤い肌はのっぺりしていて、端正な美しさは優れた工業デザインを感じる。


 まったく意図せずモモは見とれた。


 人の手によって形作られたという意味では、彫刻的な美しささえ感じた。人類が壁画に想いを込めた頃から連綿と続く、奥深い芸術の歴史に加えて遜色ない。芸術家たちの心に、そして自然にもしばしば見られる、黄金と呼ばれた美しさの比例が細部に至るまで宿っている。


 釣合の中に静けさのある容貌。


 雄々しく力強い量感のある肢体。


 引き込まれていた。


 女はモモを見下ろす。似たような光景を古い古い映画で見たことがある。白い部屋と大きなベッド、仰向けの主人公の前に、無機質な何かが無情に立つ。


 そう。そうに違いない、こいつは作り物……きっとそうだ。


「混乱は収まっているはずだ。人間は疑問を口にするものなのだろう? 聞かせてくれ」


 一歩、また一歩と、遂にベッドの縁までやってきてしまった。穴でも空いているかのような黒目に射貫かれ、体が動かせない。筋骨隆々の巨人からは、生身の人間一人が逃げ切る手段など無いと脳が告げている。


「ん? どうした」


 この女はもしや、現代人との窓口として用意されたアンドロイドか。


 現代人たちが愛する何らかの作品のキャラクター、もしくは時代を代表するアイコンで、あらゆる場面で人間をサポートする役割があるのでは。起床から就寝、日々の雑務、街角の道案内、宇宙港の受付まで。外で看板をする分には衆目を集められそうだが、一家に一人とするには不便が勝ちそうだぞ。


 現代人たちは、一万二千年以上前と同じ言語を話すことはできないのだろう。だから旧時代の病室を再現しつつ、時代を代表するアイコンであるこの女を加えることで、長大な年月の差によるショックを少しでも抑えようというのではないか。


 真っ赤な角ありの巨女に勝る驚愕が、あの壁の向こうにあるというのか?


 人類は皆デジタイズしてしまって、兆や京を越える意識を管理するだけのコンピュータが一台、ぽつねんと置かれているだけなのでは。


 いや、どんな形であれ人類がいてくれるのであればそれでいい!


 尋ねて、答えてくれるのか、この女は。


 唾を飲む。


「ここはどこなんだ? 君はなんなんだ。人間がいるはずだ、会わせてくれ」


 喉から一生懸命問いを絞り出した。女に問いを投げかけることが、まるで大仕事だった。

 どんな答えが返ってくるのか。人類文化圏であればいい。目の前の巨人はデバイスの一種であればいい。


「ふむ」


 女はつまらなそうに目をくるりと回す。


「凡庸だな。まあいい」


 言って、白衣のポケットに手を入れた。取り出してこちらに見せるのは、女の指にはあまりにも小さな球体。茶色がかった乳白色で、眼球よりも小さい。


「それは、KIBIキビか!」


 見知った球体だった。

 宇宙機管制知能搭載文運統制支援コンピュータ、KIBI。


 リリースされたのは三八世紀後半である。


 オリオン渦状腕を越えた銀河探査の始動に合わせて、大型宇宙艦操作を行う自律稼働型コンピュータが発売された。これのおかげで、それまで全長一〇〇〇キロを越える大型艦艇の運用に二〇〇〇人要していたのが、三時間労働制を踏まえた上で十分の一まで減らせた。


 オリオン渦状腕周辺の探査は数人で構成された班が散らばる。サジタリウス・エー・スターから更に向こうの領域や、南北フェルミバブルといった天の川銀河全体への探査には、一〇億人を載せたディー・エス・コンテナー数隻と数万人の船員、そして一〇〇〇人の生体中枢命令官オーダーマンで長期的な探査を行う。文明まるごと移動するような計画だった。


 だがKIBIの本分は宇宙機管制ではない。それだけではいくつかの人工知能があれば事足りる。


 探査先で居住可能な惑星を発見した際のテラフォーミング、そこで構築される新たな文明、新文明から出立する次代の調査船団……その全てを管理するために作られたのだ。


 小さな球体ひとつで星系の開拓発展を導く、人類の叡智と努力の賜物。


 北フェルミバブル探査は失敗に終わってしまったが……。


「その通りだ。これは――」


 やはりだ。


 KIBIは自身に与えられた役目――プロトコルに忠実に沿って稼働しているに違いない。ここは太陽系ではないとしても、人類文化圏であることが証明された。銀河のどこか、人間がKIBIを伴い存続する領域なのだ。


 初めて、落ち着いた吐息を漏らした。


 心配ない。


 ぼくをきっと受け入れてくれる。

 一万二千年という長い時を経ていたとしても。


「人類が残した技術のひとつだ」


 そうだろう?


「人類は鬼が滅ぼした。もういない」



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