九、『妖精の王』・4
4
その機体の背中から一対の翅が伸びていった。
一面に広がる透き通った翅。顕在化された肢体は半透明で輪郭も定かではなく、召喚機の構造体が透けて見える。
周囲に魔力の粒子が煌めく。その姿は月光に照らし出される、羽化したての蝶を思わせた。
サルトリオがその召喚機に意識を向けようとした瞬間、無数の虫が体を這うような不快感に襲われ、[
何が起こった?
[神託]を阻害した不快感、その原因が流れ込んでくる膨大な情報のためだと気付くまで時間は必要なかった。
情報の一つを注視する。
そこにいたのは一体の小妖精だった。その小妖精が何かをしたわけではない。それはただ存在しているだけだ。
それが世界のあらゆる場所に無数に現れていたのだ。
あるものは歌い、あるものは踊り、あるものは笑い、あるものは泣き。無数の妖精たちが引き起こす無数の混沌。
その全てを[座天使の書]は記述している。その混沌のために[神託]は機能不全に陥ったのだ。
あり得ないことが起こっている。一人の人間がこれだけの門を宿せるはずはない。佰候召喚師が有する五個の門の時点で、まともな魂なら壊れるには十分な負荷が生まれるのだ。それなのに……。
[神託]を遮断したサルトリオの目が《妖精の王》に吸い込まれた。
《妖精の王》のネイオスが形成する正六面体。
それがリードマンが残した最後の呪いだった。
あれは八基のネイオスではない。
一つの巨大な晶石。モノリスと同じ性質を、人工的に生み出したものではないのか。
彼が呼び出しているのは無数の『眷属』ではなく、一柱の『神』ではないのか。
《神聖不可侵》は《妖精の王》へと突撃した。
消さなくてはならない。今すぐ、ここで。
《妖精の王》に向け、[熾天使の剣]が振り下ろされた。
◆
エミリオ・サルトリオ。
僕はあなたには勝てないだろう。
一万回戦ったら、一万回負けるだろう。
でも、もしかしたら、その戦いの中で一瞬だけあなたを出し抜けるかもしれない。
あなたは全知ではないから。あなたは弱さを知らないから。その目は強き者に注がれているから、弱きものはそこからこぼれ落ちていく。
みんな、力を貸して。ウィルは呼びかけた。
かつて忌み嫌った力。力を手に入れるために受けた手術で自分が手に入れたものは、痛みと、小妖精たちを引きつけるだけの、か弱い魔力だけ。
僕は弱さに耐えられなかったんだ。弱いまま、あの人に傍に居続けることができなかった。
だから、ずっと逃げ続けたんだ。そして、痛みを求めたんだ。逃げ続けることの言い訳に。
いま、全てを曝け出そう。僕の弱さの全てを。
妖精たちの感覚が体に流れ込んでくる。強大な力の前に、あまりにも脆弱な存在。妖精たちは顕在化するなり、強大な力を受け、消えていく。その繊細な感覚は激痛となってウィルへと襲いかかる。剥き出しとなった神経。空気の流れさえ骨を抉るような痛み。発生と消失。繰り返される擬似的な死が、無限にウィルの魂に衝撃を与え続ける。
ウィルは痛みに向かって手を伸ばした。
蝶のような羽ばたき。無数の混沌が一つのうねりとなって《妖精の王》の翅を押した。
◆
《妖精の王》の手が《神聖不可侵》の腕に触れた。
ウィルの手が、[座天使の書]を、[熾天使の剣]を、佰候召喚師がもたらす死をすり抜けた。
それはささいな奇跡だった。
日常なら、意識にも上らないほどの。無数に起きていながら、見過ごされてしまうような奇跡。次の瞬間には、その痕跡は消え去り、引き剥がされ、蹂躙されてしまうような弱々しい奇跡。
ほんの一瞬の凪。
だが、その一瞬が一つの神話を終わりに導いたのだ。
◆
「捕らえたぞ! 《神聖不可侵》!」
その瞬間、《妖精の王》の腕を、螺旋を描きながら赤い爪・白い爪が這い上がる。それは《神聖不可侵》の機体に食らいついた。
同時に、《神聖不可侵》の剣から炎が噴き上がる。
「『玄甲盾』!」
中空に現れた黒い壁面が爆風をかろうじて受け流し、そのまま《神聖不可侵》を覆い尽くした。
メイヤンは操縦桿を握りしめ、印を結んだ。
「[四神八卦陣]!」
《神聖不可侵》の四肢に青い鎖が巻き付く。なおも翼を叩き逃れようとする天使に、全方位から黒い障壁が殺到した。
「逃すか!」
八面体の黒い柩が《神聖不可侵》を抑え込んだ。同時に赤い翼が翻り、二機の召喚機は縺れあいながら大穴を墜ちていく。
メイヤンは操縦桿にありったけの魔力を注ぎ込み結界を締め上げる。
柩の中でフレームが歪む。ネイオスが軋む。白磁のような装甲の上から、召喚機そのものを締め上げる。
「おおおおおおお!」
構造体の一つへ柩が叩きつけられた。
何かが壊れる感触。
〈青龍〉の楔が《神聖不可侵》のネイオスへと食い込んだ。
これで終わりだ!
佰候召喚師といえど、ネイオスが砕けてしまえばその力を発揮することはできない。こちらの魔力が尽きる前に、このまま叩き潰してやる。
高揚する戦意。
それなのに、四聖獣から伝わってくるのは深い絶望だった。
猛獣を檻に捕らえているはずなのに、まるでこちらが囚われているかのような感覚。
術は完璧だった。その完璧な結界から、抑えきれないほどの圧力が漏れ出していた。
再生している。
ネイオスに撃ち込まれたはずの〈青龍〉の爪が、徐々に押し戻されている。
一体、どうなっている?
防御が弱いからこそ、《神聖不可侵》は回避に特化しているはずではないのか。
《神聖不可侵》は神の威光。穢れに触れさせないために[神託]はある。
白い翼が黒い柩を突き破った。
白磁器のような天使の面がこちらを覗き込んできた。
◆
《神聖不可侵》が、御使いの機体が、たった一機の召喚機に囚われた。
体に、四肢に、翼に鎖が食い込む。周囲に展開する構造体が、柩となって天使を拘束する。
魂に伝わる負荷。
サルトリオは戒めとして、その苦痛を受け入れた。
世界に潜む無数の妖精たちの乱舞が無数の混沌を生み出した。あらゆる
もっと注意を払うべきだった。あの召喚士の、あの弱々しい魔力の奥に隠されていたものに気付いておくべきだった。
苦痛が冷静さを取り戻してくれた。
神は全知全能である。私は全知全能ではない。それだけだった。人の手には及ばぬ情報量を処理しきれなくなったのはサルトリオ自身の弱さ故であった。
サルトリオは[神託]を修正した。知るべきことを知り、知るべきでないことを排除した。
事態は何も変わっていなかった。
モノリスは健在である。リードマンはもういない。残る機体も脅威にはならない。
機体の軋む音が聞こえなくなっていた。《
『時間切れだ』
その言葉はあまりに自然で、自分が発したのだと思うほどだった。
続けて、ファン・メイヤンは操縦席の中で声を上げていた。
『誰が勝つにしろ、次の一撃で全てが決まる』
言葉の意味を知るのに時間が掛かった。[神託]を修正したがゆえに、把握するのが遅れたのだ。
遙か下、構造体の一つから黒い霧が立ち上っていた。
大破した召喚機の残骸が残されていた。《神聖不可侵》の一撃によってフレームの大半が消失していた。頭部・胸部・右腕部、そこにあったはずのネイオスは存在していなかった。操縦席は剥き出しになり、導霊系の金属線が垂れ下がっていた。
そこに一人の少女がいた。
灰まみれた黒衣、乱れた髪、血が滲む額。千切れかけた操縦桿を手に、それでも燃えるような双眸でこちらを睨め付けていた。
彼女はこう言っていた。
私は、まだ、負けてない。
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