九、『妖精の王』・3

    3


世界樹ユグドラシル〉の葉が散った。

 ガラスが砕けたように、緑色の破片が周囲に撒き散らされ、風に乗り上空へと舞い上がる。

 風は徐々に規模を、勢いを増していく。風は〈世界樹〉のを中心として、やがて嵐となり、やがて竜巻となって、モノリスの大穴へと迫った。

 その中心に巨人の姿が浮かび上がった。鷲の頭を持つ体躯は大穴を埋め尽くすほど。筋肉と翼が融け合ったような腕は数キロに及んでいる。

 終末の巨鷲、〈フレスベルグ〉。

 空気に青白い氷の屑が混じり始めた。嵐はさらに強さを増し、巨人の体躯を天へと押し上げていく。たちまちのうちに巨人は大穴の中へと突き入っていた。

 巨大な体躯が構造体へと衝突するたび、破片が空間へと撒き散らかされる。巨人は苦痛にもがくかように大穴を昇っていき、緑青の風を纏いながら三機の召喚機の眼前へと迫った。


    ◆


 ここまでかアレフロート・リードマン。

神託オラクル]によって全てを把握したエミリオ・サルトリオは機体を反転させ、〈フレスベルグ〉に背を向けた。

 空間に、氷の欠片が舞い散る。氷の巨人は《神聖不可侵サンクトゥリオ》に追いすがり、腕を振るった。それだけで召喚機の数十倍の体積を持つ拳。それを《神聖不可侵》は回避すらしなかった。巨人の腕は《神聖不可侵》に触れることなく、寸前で砕け散った。《神聖不可侵》の魔力場に干渉されただけで、顕在化が維持出来なくなったのだ。

 リードマンは〈フレスベルグ〉の存在の規模だけを純化したのだ。世界に力を及ぼすことが出来ないほどに。構造体と接触するたび、その身を削りながら。魔力を撒き散らし、少しでも攻撃を覆い隠しながら。わずかな干渉で淡雪のごとく消え去るだけの存在を顕在化したのだ。

 自ら囮となるために。


    ◆


 天使の姿が遠ざかる。

 そのとき、リードマンを支えていた最後の何かが砕けた。

 晶石にもたれかかった。晶石の熱さは感じなかった。もう、感覚さえ無くなっていたのだろう。ただ、自分の中から命というものが流れ落ちていく、そんな感覚だった。

 意識が薄れる中、最後にこの世界に思いを馳せた。

 やはり無念だ。世界の真理を自分の手で解き明かせなかったのは。

 せめてもの慰めは、この意思を託せたことだった。

 あとは君たち次第だ。どうか、君たちの中から真理に辿り着ける者が現れますよう……。


    ◆


 リーズリースは風の大渦に巻きこまれた。

 緑の葉、氷の欠片。視界は光の乱反射に覆われ、何も見えなくなった。

 気がつくと、《闇騎士ダーク・ナイト》は凪の中を漂っていた。

 そして、それが見えた。

 大穴の最奥。構造体の檻に囲まれた、巨大な結晶体。

 嵐はまだ吹き荒れていた。爆発音の残響はまだ残っていた。

 それなのに、周囲だけはやけに静かだった。自分とモノリスの間に阻むものは何もなかった。世界の全てがリーズリースを無視し、生と死の闘争に熱中しているようだった。

 リーズリースはそのときやっと、リードマンの真意に気付いた。

『察しがいいな』

 リードマンの皮肉。それにも、もう怒りは湧いてこなかった。

 課せられた使命が心を動かした。

「行け! オスカー!」

 モノリスに向け、《闇騎士》が駆けだした。氷片を、構造体を、空気を蹴り、極限まで純化された機動力で機体は結晶体に向け上昇していく。

『駄目です! リーズリース! 行っては駄目です!』

 背後からウィルの声が聞こえたような気がした。

 その声が機体を加速させた。

 より速く、より強く。純化された機体は最早、形を止めず、力そのものとなって結晶体に突き進んでいく。

 世界が純化されていく。あるのはこの機体と結晶体だけ。

 ウィルがどうしてここにいるのか。どうしてメイヤンと一緒にいるのか。些細な疑問は心から消え去っていく。

『逃げて! 逃げてください!』

 私は逃げない。

 私は騎士だ。私は召喚士だ。

 命など惜しくは無い。戦って死ぬことが私の使命だ。

『お願いです! リーズリース!』

 あのときも、逃げるべきじゃなかった。あの騎士たちと一緒に戦って、一緒に行くべきだった。

 それならひとりぼっちになることもなかったのに。

『リーズリース!』

 本当はわかっていた。

 グレンクラスを取り戻すことなんて、私には不可能だということを。

 私に召喚士の才能なんてない。佰候召喚師になることなんてできっこない。

 居留地にも居場所はなかった。グレンクラスの人々は旧領での新しい生活に馴染んでいった。かつての領主の記憶は薄れ、消え去っていった。故郷を取り戻す、そんな夢物語は日々の暮らしの中で、ただの重荷でしかなかった。

 残されたものは戦いしかなかった。それでも構わなかった。

 私は騎士だ。私は召喚士だ。

 私は逃げない。私は恐れない。

 命など惜しくはない。この身がどうなっても構わない。

 最後の最後まで、戦って戦って戦い抜く。だって……。


 私の帰る場所は、もう、あの約束の中にしかなかったんだから。


「貫けええええええ!」

 感情のまま、リーズリースはロッドに魔力を注ぎ込んだ。《闇騎士》がさらに跳躍し、右手に宿った光が一層、輝きを増す。

 その瞬間、空気が一変した。

 空気が糖蜜のように粘り気を増し、機体に纏わり付く。視界を流れていく周囲の光景がぴたりと止まり、かつてないほどの力で動いているはずの《闇騎士》はその場に留まったままのように感じた。

 背後から迫る、《神聖不可侵》の凄まじい機動のためにそう見えたのだ。

 ゆっくりと流れる時間の中を、六翼の天使が飛翔する。

 純化された〈大鴉〉の視力、研ぎ澄まされたリーズリースの集中力が、遙か後方に現れた《神聖不可侵》の姿を捉えていた。視界の中で、その姿は瞬く間に大きくなっていく。それなのに《闇騎士》は沼に捕まった老馬のように一向に進んでいかない。

 やがて、《神聖不可侵》は《闇騎士》の頭上を取った。

 周囲に現れるいくつもの流星。それは一つに重なり合って……。

 リーズリースの世界を真っ白に染め上げた。


    ◆


 それは陽光の中で、黒い埃が散ったように見えた。

 光の球が膨らんでいく。白い光が《黒騎士》を覆い尽くそうとしたとき、小さな、乾いた音がして、《黒騎士》の装甲が、ぱっ、と弾けた。

 直後、轟音と爆風が大穴を覆った。

 空間が震え、召喚機が破壊されそうなほどの振動が襲ってくる。《鵺》は回避行動をとっているのか、それともただ吹き飛ばされているのか、ウィルにはわからなかった。視界が揺れ、光が満ち、何も見えなくなった。

「リーズリース……?」

 視界が戻ったとき、そこにあったのは相変わらずの地獄と、地獄を悠然と舞う六翼の天使の姿だった。

 ウィルはリーズリースの姿を探した。

 リーズリースはどこにいなかった。

「リーズリース!」

 ウィルの声は〈エコー〉の[やまびこ]に乗って大穴に響いた。

「リーズリース! どこです!」

 返事が聞こえない。血流が鼓膜を打つ音が邪魔だった。ウィルは〈エコー〉に全神経を集中し、再び呼びかけた。

「どこにいるんですか! 返事をしてください!」

〈スプライト〉の力で眼下を凝視した。どこまでも続いていく、無機質な構造体。空間は冷たく、沈黙だけを返してきた。

「すぐに助けに行きますから! お願いです! 返事を! 返事をしてください!」

 感情が心の檻を壊し、言葉が止まらなくなった。後ろでメイヤンが何かを言っているような気がしたが、もう、言葉が入ってこなかった。

「リーズリース! リーズリース!」

 視界が涙でぼやけていく。叫びながら、心のどこかが、返事などありはしないのだと、冷静に告げてくる。

 あの瞬間、自分は見てしまったのだ。

 重装試験ドールの装甲が弾け飛び、少女の体が光の中に投げ出されるのを。

「そんな……! 神様……神様……!」

 そんな、そんなはずはない。

 だって、神様!

 僕は諦めたじゃないですか!

 召喚士になることも!

 騎士になることも!

 あの人にふさわしくなることも!

 どれだけ肉体を痛めつけても、どれだけ力を追い求めても、召喚術のために改造手術を受けても、どうしたら『異海』と戦えるか、考えて考えて考えて考えて考えて、それでも、僕の望むものは手に入らないと知ったとき、僕は何もかも諦めて、残った全てをあなたに捧げたじゃないですか。あなたの教えを守り、一生懸命働いて、そしてあなたに祈ったじゃないですか。

 どうか、あの人に平穏を与えてくださいって。

 もう、あの人から何も奪わないでって。

 毎日、毎日、僕は祈り続けたじゃないですか。

 それなのに……。

 それなのに……!

 どうして! どうしてあなたは僕を裏切ったんですか!

「神様……!」

 自分は呼吸をしているのだろうか?

 体が支えられない。気がつけば、ウィルは祈りの姿勢をとっていた。ロッドを握る手を組み合わせ、前部パネルに頭を押しつけていた。

 そのとき、その声が聞こえた。


 運命に抗わなければ苦しむこともなかった。

 己が何者かわからないまま、何をすべきかを知らないまま、それ故に。


 声に反応するように、頭の奥に燃えるような熱が発した。

 熱情に囚われてはいけない。それはもう捨てたはずだ。僕は何も考えてはいけないし、何も望んではいけなかった。

 でも、その衝動を止めることは出来なかった。

 ウィルはもう、聞いてしまったから。


   ◆


 大穴が異影の雲に覆われていく。

《鵺》からは、モノリスも《神聖不可侵》の姿も、異影の群れに隠れ、見えなくなっていた。

「〈玄武〉!」

 左腕ネイオスを介して、黒い盾が展開される。そこへ異影の無数の槍が突き刺さった。

「あああああああ!」

 攻撃を受け止めきれず、魂に衝撃が走った。

 機動により、意識が飛びそうになる。

 無理矢理な機動に体が振られるだけではない。強く魔力を放出する度に、眷属の純化を切り替える度に、メイヤンの消耗は大きくなる。

 どこを見ても異影がいた。『異海』から溢れ出した異影の壁が眼前に迫っていた。攻撃を打ち込むも、もはや手応えなど感じられない。黒が全てを埋め尽くそうとしていた。

 敵は無数。四聖獣も疲弊している。残る味方は……。

「神様……神様……!」

「しっかりしろ!」

 メイヤンは前部座席に怒鳴った。だが、ウィルにまともな反応はなかった。俯き、震えながら、組み合わせた両手に額を押しつけ、嗚咽の中に神の名を呟くだけだ。

「祈って何になる! 祈る暇があったら最後まで戦え!」

 メイヤンの怒号もむなしく、返ってくるのは啜り泣く声だけ

 戦えるのはもはや自分のみ。その孤独にも、時間は残されていなかった。術を展開するたびに意識に白い痛みが走り、視界が黒く明滅する。魔力の限界がすぐそこまで迫っていた。あとはただ、こちらが力尽き、異影たちの贄になるのを待つだけでいい。


 ここが終わりの場所。

 もう、どこへも行くことはできない。

 抗えば、ただ苦しむだけなのに。

 どうして悪魔の言葉に耳を傾けたのだ。

 偽りを信じることは、より苦しみを長引かせるだけだったのに。


 神経にへばりつく真っ暗な思念。

 ロッドを握る手から力が抜けていく。戦意を支えていた怒りが消え、かわりに諦念が満たしていく。最初からわかっていたじゃないか。私は戦う前から負けていた。あの佰候召喚師の力を目の当たりにして……。

「何がおかしいんです!」

 突然、絶叫が操縦席に響いた。

「あなたに何がわかるんです! あなたに僕たちの何がわかるっていうんですか!」

 その表情を窺うことはできない。俯き、肩を震わせながら、ウィルは今までにないような大声を絞り出していた。

「誰もが望む力を手に入れておきながら、あなたを信じてきた人たちを裏切ったあなたが! 一体、何がわかるっていうんですか!」

「応えるんじゃない! それが奴の手だとわからないのか!」

 メイヤンの制止も、ウィルを止めることはできなかった。

 ウィルの意識はサルトリオの思念から何を受け取ったのか。ウィルは何かに向け、叫び続けた。

「どれだけ考えても! どれだけ苦痛に耐えても! 何も得られなかった者の気持ちがあなたにわかるんですか! 守りたかったものを守れなかった気持ちを! 戦うことさえ許されなかった気持ちを! あなたにわかるっていうんですか!」

「ウィル!」

 刹那、導霊系の内部に、すさまじい熱量の魔力が巡った。それを感じ取った瞬間、ぱしん! と、目の眩むような衝撃を受けた。

「あなたは全知なんかじゃない! あなたは弱さを知らない! 『異海』に怯えて眠れなかった夜も! 木陰に異影の幻を見た昼も! 逃げられない弱さも! 弱さから逃げ続ける弱さも!」

 メイヤンは操縦席にただ座っていた。

 いつの間にか、メイヤンの意識は導霊系から弾き出されていた。

 導霊系から伝わる、こちらを押し潰すような魔力の圧力。操縦桿から逆流する熱い魔力。

 呆然とするメイヤンは操縦席の異変に気付いた。

 ウィルの背中が赤く発光していた。前のめりとなった小さな背中に、光で描かれた入れ墨のように、小さな背中に紋様が浮かび上がっている。

「でも、もうそんなの関係ない! これ以上、あなたが誰かを犠牲にするというのなら、僕が絶対に止めてみせる! あなたがどれだけ強かろうが、僕がどれだけ弱かろうが関係ない! この世界は僕が……僕たちが守るんだ!」

 奴は自分自身の異変に気付いているのか?

 操縦席に、かつて感じたことのない魔力が渦巻く。晶石と導霊系の共鳴が、悲鳴のように全方位から迫り、少年の絶叫と重なった。

構成召喚コール・コンポジション!」

 そして、彼は、彼の召喚機を構成した。

「《妖精の王オーベロン》!」

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