八、『神聖不可侵』・1


 最後に見えたのは、地上に現れた太陽だった。

 大きく、丸い、光の塊。そこから二重、三重の雲の輪が空を広がっていく。光の足元に現れた煙が立ち上り、やがて柱となって球体を覆い尽くした。

 直後、音が聞こえなくなるほどの轟音。

 周囲に砂煙が立ち上ったと見えた刹那、殴りつけるような熱風にエルザは吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。


    1


 そして、最初に見えたのは立ち上る巨大な雲だった。

 どれほど意識を失っていたかわからないまま、エルザは体を起こした。全身を覆う気怠い痛み。肌には熱が残っているのに、吹き付ける風は凍えるほど冷たい。

「師団長……?」

 空気の唸りが高地を包んでいた。雲だけがゆっくりと膨らみ、空へと溶けていく。高地に穿たれた破壊の跡。赤い崖、赤い岩山、高地中央にあったはずの凹凸は薙ぎ倒され、崩れ落ち、均されていた。

 一変した景色を呆然と見つめていたエルザの前に、銀色の破片が墜ちた。

 その輝きに見覚えがあった。優美な装飾の一部、ディアドラ・アンティオペーの召喚機、アーゲン・ドールの装甲。

 エルザは破片に手を伸ばした。熱が掌を焼くが、かまわず銀色の破片を拾い上げる。火傷の痛みがなければ、このまま意識を失いそうだった。

 信じられなかった。押し寄せる現実を拒もうとした。

「嘘ですよね……?」

 それはどちらへの問いかけだったのだろう。

 バローク召喚院最強と謳われた《女帝の栄光ヘーラークレース》。我らがディアドラ・アンティオペー、彼女がこの地上から消えてしまったことなのか。

 あるいは、自らの持てる全てを投げ打ち民衆を救済しようしたあの《神聖不可侵サンクトゥリオ》、エミリオ・サルトリオが我々を裏切ったことなのか。

 答えが欲しくて、エルザは空を見上げた。

 いつの間にか、霧は消え去っていた。

 代わりにあったのは地獄だった。

 赤い大地を埋め尽くす異影の群れ。その彼方、高地を取り囲む外輪山から『異海』が無尽蔵に流れ落ちてくる。どの方角を見ても同じく、杯に黒い水を満たすように。

 そして、地獄の中に悠然と佇む、六翼の天使。

「あああ! あああ! あああ!」

 いつから叫んでいたのだろうか、掠れた悲鳴が喉を灼いていた。自分が泣いているのか、それとももう涙も涸れ果ててしまったのか、それさえわからない。

 怖くて、怖くて、怖くてたまらないのだ。

 恐怖が全方位から押し寄せてくる。恐怖が心を押し潰してくる。恐怖の色は乳白色だった。生暖かく、糖蜜のように粘り気があり、神経に張り付いて剥がれようとしない。

 誘われるように黒に目が行った。

 あの黒を受け入れてしまえばいい。あの向こう側には、きっと何もない、何も感じない空白が、喜びも苦しみも何もない世界が……。

 もう、何も考えたくない。何も感じたくない。エルザは迫り来る黒いうねりに向かって歩き始め……。


    ◆


「呆けてるんじゃない!」

 戦場の真ん中、ふらふらと彷徨うエルザに〈青龍〉の腕が絡みつき、召喚機とは思えない繊細さで後方へと引き上げた。

 エルザはぐったりと動かない。まだ生きているようだったが、顔中を体液で濡らしたまま茫然自失となっていた。

 だから弱い奴は嫌なんだ! 壊れるなら私の目の届かないところでやれ!

 メイヤンは舌打ちし、地面を這うように回避行動へと移った。

 再び、異影の圧力が増していた。ありとあらゆる所から黒い影が現れ、こちらへ攻撃を飛ばしてくる。

 一体、何が起こっているというのか。

 何故、『異海』がこんなところに?

 何故、こんな大量の異影が?

 何故、佰候召喚師同士が殺し合いを?

 思考が途切れる。四聖獣の目が、上空で小さな星が瞬くのを捉えた。その光は流星のごとき速度で《キマイラ》の右腕に飛来した。

「[玄甲盾]!」

 とっさに放った術が流星を受け止める。着弾の瞬間、巻き起こった爆発がメイヤンの魂に衝撃を与えた。

「この……!」

 メイヤンは上空の天使に意識を向けた。

《神聖不可侵》は周囲にいくつもの星を纏い、地上を睥睨していた。

 先ほどの戦闘で魔力が尽きたのか? 今の攻撃は《女帝の栄光》を屠った攻撃に比べてあまりにも小さく、弱かった。

 それがあまりにも楽観的な考えなのを自分でも認めざるを得なかった。あれほどの力があれば正召喚士などは赤子も同然だ。生殺与奪など単に意思の問題でしかない。

 脳裏に、砦で見た召喚機の残骸の姿が浮かんだ。

 奴は我々を贄にするつもりなのだ。

 子に獲物を与える肉食獣のように。奴は憑霊器ネイオスを砕き、導霊系を断ち、無防備となった召喚士を異影どもに与えたのだ。棺桶となった召喚機の中で食われていく、帝国領の召喚士たちの最後が手に取るようにわかった。

 違う。理解わからされたのだ。

《神聖不可侵》の[告知]。この精神にへばりつくような意思。列車の中で味わったこの乳白色の不快感。絶えず流れ込んでくる意思を言葉にするのなら、それは『絶望』だった。

 もはや逃げ場はない。お前たちは運命からは逃れられない。

 奴は恐怖によって召喚士たちを支配しようとしている。絶望を与え、速やかにあの異影どもの贄とするために。あの召喚機の残骸もまた、奴のメッセージに他ならなかった。

 ふざけるな!

 お前の思い通りになどさせるか! 大宗伯黄氏の一族が、こんな異国の地で終わるわけにはいかないんだ!

「四神招来!」

 機体を再構成。異影へ反撃しながら、圧力の低い方へと逃れる。

 とにかく今は他の召喚士たちと合流しなくては。このまま単独で相手をしていたらやがて魔力は尽き、奴らの餌食に……。

 がくん。

 突如、地面が揺れた。赤い岩山が、谷が、歪んでいるかのように波打つ。びしり、びしり、大地が軋む轟音が響き、亀裂が縦横に走った。

「[朱雀翼]!」

 攻撃の的になるとわかっていながらも、反射的に赤い翼を広げ宙へと逃れるしかなかった。

 攻撃を避けるため、速く、高く。

 吐き気のような違和感に襲われたのはそのときだった。最初、その原因が全くわからなかった。わからないまま上へ上へと闇雲に飛んでいく最中、やがて、違和感の正体に気付いた。

《鵺》は飛んでいるのではなかった。

 空へと墜ちているのだ。

 視覚がもたらす地面との相対速度と、神経が感じ取る加速度の差がメイヤンに情報の混乱を与えていた。

「……っ!」

 機体を反転させ、重量に抗する。

 砕けた地面が《鵺》を巻きこむように頭上から降り注ぐ。メイヤンは何とか隙間を掻い潜り、岩石の崩落を回避した。

 そして、目の当たりにした光景に言葉を失った。

 天と地が、ひっくり返っていた。

 高地の赤い大地は砕け散り、小さな島のようになって宙に漂っている。外輪山から溢れていた『異海』もまた、滝のように空へと流れ落ちていく。世界を隔てる黒いカーテンはどこまでも続いていき、空の果て、見通せない闇へと消えていった。

 その『異海』に覆われた円柱状の空間を、赤い光が照らしていた。

 夕陽ではなかった。光源は頭上、天の大地にぽっかりと開いた巨大な奈落。そこから何か禍々しい赤い光が漏れ出していたのだ。

 赤と黒の地獄。わずか数分のうちに、世界は異界へと変貌していた。

 くらり、目眩がした。

 張り詰めていた魔力が、一瞬、凪へと落ち込んだ。

 我に返ったときにはもう遅かった。空から降る二筋の流星が《鵺》の両腕を貫いた。

「っあああああああ!」

 魂への衝撃にメイヤンは絶叫していた。両腕のネイオスだけが正確に砕かれ、消失していた。

 直後、右方の浮島からいくつもの槍が伸びた。

 召喚機に刺さった槍がフレームへと食い込む。身動きが取れないまま、新たな槍が腰部を貫いく。右腕ネイオス破損、魔力場消失寸前。機体はそのまま浮島へと引きずり込まれていく。

 判断は一瞬だった。

 エルザを空中へ放り投げる。眷属送還。操縦席から抜け出し、ハッチを押し開ける。

「〈朱雀〉招来!」

〈朱雀〉とともに空中に躍り出るメイヤン。エルザの体を空中で拾い上げ、そのまま浮島へと着地した。

 メイヤンの召喚機はがらくたの塊となって浮島へ墜落した。そこへ群がっていた異影たちはあっという間に召喚機を飲み込んでいった。

 逃げる場所を求め、奈落を見渡した。だが、そこに漂う浮島には黴の胞子に蝕まれるように次々と黒く染まっていく。

 心が絶望に覆われていく。異影の群れがこちらへと気付いた。異影たちは足を踏みならし、こちらへと迫り、そして……。

 白い光が異影の群れに突き刺さった。

 熱が地上を浚い、メイヤンは腕で顔を覆った。

 再び視界が戻ったとき、眼前に黒い鎧の巨人が立ちはだかっていた。

黒騎士ブラック・ナイト》。

 あいつの召喚機が異影たちの襲撃を遮っていた。


    ◆


 リーズリースにとって、全てが理解を超えていた。

 異影の群れも、地獄のように変貌したこの地も、佰候召喚師同士の戦いも、全て。

 だが、ただ一つ、怒りが全てを消し飛ばしていた。この地獄のような光景が故郷の最後の姿と重なったとき、内から込み上げてきた怒りがリーズリースに為すべきことを教えてくれた。目を覆いたくなるような恐怖の底から、破壊の意志が噴き上がっていた。

「薙ぎ払え!」

《黒騎士》の右腕から放たれる熱閃が異影たちの中に炸裂した。そのまま、強靱な四肢で異影たちを踏み砕きながら《黒騎士》は浮島へと着地した。

「撃て! 撃て! 撃てぇ!」

 操縦席の中、リーズリースは叫びながらロッドに魔力を送り続ける。 

 倒せ。一匹でも多く。戦え。一秒でも長く。

 今の私には、召喚術がある。この召喚機がある。

 お前たちを打ち倒す力がある。

 ここがどこだろうが、お前たちが何万いようが関係ない。

 最後の最後まで、異影を滅するのみ。

 私は騎士だ。私は召喚士だ。

「私はまだ負けてない!」

 その時、再び上空で星が瞬いた。《黒騎士》が腕を振るい流星の爆発を払いのけたのはほぼ同時だった。

〈大鴉〉の目が奈落の闇に佇む六翼の天使を捉えた。

《神聖不可侵》エミリオ・サルトリオ。

 お前の目的は知らない。どうして同じ佰候召喚師を殺したのかも知らない。

 だが、そうやって異影の側に立つ限り、お前は私の敵だ!

 浮島の異影をあらかた片付けると、今度は別の浮島に目標を定める。『異海』のカーテンからは黴の胞子ように次々と赤い浮島を黒く染めていく。

「オスカー!」

《黒騎士》がリーズリースの意思に応えるよう、四肢で地面を踏みしめた。突撃に備え、〈光剣〉が輝きを増していく。

『あーあー、勇敢なのはいいが、それは少し待って貰えるか?』

 どこからか声が聞こえてきた。

『諸君、取り込み中のところ悪いがもうちょっと『異海』から離れてくれ。枝を伸ばすのは案外面倒だから』

「リードマン教授……?」

 直後、空間が揺れた。

 今度は何だ!?

 視界が揺らぎ、緑に包まれた。

 落ちているのか。浮かんでいるのか。体を包み込むような無重力感。

 そして、静けさが訪れた。

 武具を振るう音も、魔術が爆ぜる音も聞こえてこない。

「…………?」

 おそるおそる、周囲を観察する。

 機体が浮いている。

 一瞬、恐慌状態に陥る。《黒騎士》は飛ぶことはできない。〈大鴉〉には飛行能力はあるが、機体の重量を支えるほどの純化が、リーズリースの使役力では引き出せない。

 やがて、機体は半透明の何かに包まれているのだとわかった。

 巨大な樹だった。

 緑色のガラスで出来たような樹。高地の北側だった場所を中心にして根を張り、赤と黒の世界の中、悠然とそびえ立っていた。

《黒騎士》はその透明な枝の中をゆっくりと幹の方へと移動していた。見ると、離れた枝の中には《錬金術師・熱風アルケミスト・シロッコ》が、さらに離れたところには《錬金術師・瀑布アルケミスト・イグアス》がいた。二機ともリーズリースと同じようにゆっくりと幹へと移動しており、徐々に近づいているのがわかった。

 やがて《黒騎士》は幹の中の、広々とした空間へと出た。

 そこには合同部隊の人間たちが集められていて、砦にいたはずの準召喚士たちが呆気にとられたような表情で《黒騎士》を見上げていた。

 再び、リードマンの声がどこからか聞こえてきた。

「ようこそ、〈世界樹ユグドラシル〉へ。ゆっくりとしていってくれ」

 彼はそう言った。

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