七、『女帝の栄光』・3

    3


「アントニウス! ディアナ! 応答を!」

 操縦席でエルザは必死に呼びかけていた。

 返答はない。聞こえてくるのは周囲の戦闘音だけ。二人とも戦闘のために通信に割く余力がない、そう信じて呼び続ける。

「一度、北砦まで後退する! お互いに掩護が出来る距離を保って!」

 自分でそう言いながらも、とてもそのようなことが出来る状況ではなかった。

 高地は迷路のようになっていた。見えるのは赤い渓谷と白い霧、そして……。

 前触れは一瞬だった。霧が揺らめいた瞬間、無数の黒い槍が突き出てきた。

「!」

 盾で受け止めると同時に、エルザは右腕ネイオスに顕在化した〈聖槍〉を撃ち込む。

 確かに異影の核を打ち砕く手応えがあった。だが、こちらの隙に乗じて、異影たちはさらに押し寄せてくる。圧力に屈し、《白鳥の騎士ローエングリン》は後退し続けていた。

 エルザが経験したことのない戦いだった。

 エルザにとって、召喚院の正召喚士たちにとって、レコンキスタとは狩りと同義だった。『異海』から溢れた異影を、数的有利をもって叩く。この世界を侵蝕させる時間を与えぬよう、確実に、速やかに、効率よく、顕在化を絶つ。それがレコンキスタというものだった。

 これは違う。

 かつて、これほどの数の異影を相手にしたことなどなかった。一体、何体いるのか? 数百、あるいは数千。異影はあらゆる隘路から噴き出し、大地を埋め尽くしているように思えた。

 問題は数の多さだけではなかった。

 異影たちはつかず離れず、容易にこちらの射程には入ってこない。だが、少しでも隙があれば召喚機たちの間に押し寄せ、犠牲をものともせず楔を打ち、こちらを分断してくる。

 あたかも、一つの軍隊レギオンのように。

 信じがたいその疑念はもはや確信と変わっていた。異影たちは整然とした意思の下、統率をもってこちらに攻めかかっていた。

 全てが逆転していた。狩りの時間は終わり、こちらが獲物となっていた。

「誰か! 聞こえているか……!」

 次の攻撃は左後方からやってきた。

 何とか盾で弾き飛ばすと、霧に黒い影が走ったのが見えた。異影は直接こちらには向かって来ず、退路を断とうとしている……!

「〈大白鳥シグナス〉!」

 無意識の反応だった。機体から伸びた翼を羽ばたかせ、上へと逃れる。

 赤い岩山の狭間を抜け、空へ。上空に意識を向けた瞬間、いくつもの黒い球体が霧の中に漂っているのに気付いた。

 飛行型異影。反転は間に合わなかった。エルザを待ち受けていたかのように周囲から槍が襲いかかり、機体に突き刺さった。

「あああああ!」

 眷属の受けた衝撃が魂を貫く。蒸留された激痛が全身を襲った。

 操縦席を守るので精一杯だった。フレームを庇った〈大白鳥〉の翼に複数の槍が突き刺さり、顕在化が破壊された。

 霧の向こうから突如、赤い地面が現れた。翼を失った機体は岩山に衝突し、そのまま滑落した。

 意識喪失からエルザを守ったのは、異影に対する恐怖だった。もし、この状況で機体の構成を失えば、待ち受けているのは死だけだ。

 涙を浮かべながらロッドを握り絞める。必死に魔力を送り込みながら、防御態勢を維持する。

「…………!?」

 違和感を覚え、右腕ネイオスに感覚を向けた。

 黒い槍が機体の右腕フレームを貫き、釣り針のように絡みついていた。

「ひっ……!」

 悲鳴にならなかった。

 地面を掴もうとするが、抵抗を物ともしない力によって機体は地面を引きずられ、霧の中へと吸い込まれていく。

 気がつくと地面にひれ伏していた。

 そして、眼前に異影がいた。蜘蛛型の異影は槍のような一対の顎をもたげ、《白鳥の騎士》の背中に突き立てた。

「あああああああああ!」

 魔力が、魂が、体が食いちぎられたかのような激痛。

 操縦席がブラックアウトした。

 構成が失われ、感覚共有が途絶えた。召喚機はただの構造物と化し、操縦席は暗闇に閉ざされた。

 ぎし、ぎし、と耳障りな音が狭い空間に響いた。それは背中側、ハッチの方から聞こえてくる。

 そのとき、何故か、砦に置き去りにされた召喚機が頭に思い浮かんだ。

 直感が告げていた。

 こんなふうに喰われたのだ。この異影たちに。

 嫌! 嫌! 嫌!

 恐慌を起こしながらロッドに手を伸ばす。操縦席の暗闇を必死になって手探りする。なのにどこにも銀のグリップの感触はない。

 ばん! 何かが弾け飛ぶ音。

 振り返ると、ハッチは吹き飛び、灰色の空間が見えた。

 ぎり、ぎり、ぎり。何かが機体をよじ登り、そして、操縦席を覗き込んできた。異影はただの黒のはずなのに、エルザは異影の表情がはっきりと見えた。

 こちらを捉える、眼。

 もう恐怖に耐えられなかった。エルザは目を閉じ、体を丸め、何かに祈った。

 ……………………。

 その時はいつになってもやってこなかった。

 気がつくと、辺りは静まりかえっていた。おそるおそる目を開き、ハッチを振り返る。外は霧の世界で、異影の姿は消えていた。

 ここが死後の世界なのか?

 呆けていたエルザを現実に引き戻したのは雷鳴のような怒号だった。

『まぁぁぁぁったく! 情けない!』

「!」

 びくっ、とエルザは体を強ばらせた。機体をびりびりと振動させるほどの[拡声]はさらに続く。

『ぼけっとするな! さっさと出てこい!』

「はいっ!」

 異影の恐怖とは別軸の恐怖。経験が、感覚が、それは絶対に避けなければならないと知っていた。

 外へ這い出すと、あれだけいた異影の姿はどこにもなかった。

 声の主を探して、エルザは上空を見上げた。

 そこにあの機体があった。

 獅子の頭部を持つ、一体の屈強な戦士。

 アンティオペーが従える伝説級の魔獣たち。その暴虐と自然美が一つの機体の中で絡み合い、彫像のような美しさを作り上げていた。

女帝の栄光ヘーラークレース》。

 第三師団長、ディアドラ・アンティオペーの召喚機。バローク召喚院最強と謳われる対異影戦闘機が空に佇んでいた。

『エルザ・ノイシュ!』

 アンティオペーの怒鳴り声が、再びエルザの肩を震わせた。その音声は魔獣たちの声を合成したものでありながら、アンティオペー自身の声と全く同じだった。

『貴様らだけで何とかできるかと思っていれば……。異影なんぞに追い込まれた挙げ句、機体まで壊しおって!』

「も、申し訳ありません!」

『貴様は降格だ! 帰ったらもう一度、鍛え直してやる! 覚悟しておけ!』

師団長ロード……」

 その叱責はエルザの経歴にとっては絶望的なものだった。だが、生死の狭間に置かれたこのとき、その言葉から感じ取れるのは絶対的な安堵だけだった。

「エルザ、無事か! 乗れ!」

 霧の向こうから僚機《王友騎兵ヘタイロイ》が現れた。エルザは差し出された左腕に乗り込む。

『総員、砦まで下がれ! 私の失地回復戦レコンキスタだ! 一人も落伍者を出すなよ!』

 天から降る力強い指示。

 砦へ向けて走り出した機体の上から、エルザはアンティオペーの姿を目に焼き付けた。


    ◆


「〈不睡の竜ラドン〉、全てを捉えよ」

 機体のあらゆる箇所に存在する百眼が一斉に動き出す。[感覚共有]によってアンティオペーは地上を睥睨した。

 帝国領から流れ出る『異海』。そこから泡のように吹き出てくる異影。

 一体、どうなってる? これはどっから湧いてきた?

 これだけの奔流が起こった以上、帝国領への侵蝕は相当進んでいたことになる。

 だとすれば、帝国領の召喚士たちは何をしていたのだ?

 そして、バローク召喚院の誰も気付かなかったのはどういうことなのだ?

 地上から無数の槍が伸び、アンティオペーの思考は遮られた。

《女帝の栄光》の腕がわずかに動く。異影の槍は〈不刃の獅子ネメアー〉の前肢によって、毟られた草のように束ねられ、次の瞬間には霧散していた。

 ……まあいい。考えるのは、ここにいる異影どもを片付けてからだ。

「駆けろ! 〈不羈の鹿ケリュネイア〉!」

 腰部シヴィラに宿った〈不羈の鹿〉が空気を蹴る。機体は金色の軌跡を残し跳躍した。高地中央の上空へ。地面を覆い尽くす異影たちは槍を放つ間も与えられなかった。

「〈不撓の水蛇ヒュドラ〉!」

《女帝の栄光》の右腕が膨張した。

 膨大な体積が右腕シヴィラから溢れ、そこからいくつもの巨大な蛇の頭が噴き出した。

「[ノウェム・フラゲイル]!」

 右腕を振りかぶり、地面に叩きつける。九つの軌跡は地面に突き刺さった途端、霧を吹き飛ばし、赤い砂煙を巻き上げた。

「喰らい尽くせ!」

 九の巨蛇の頭が、九の方角へ向かって進撃を始める。迷路のような赤い大地を洪水のように蛇が浚っていく。岩山を縫い、あるいはなぎ倒し、その間にひしめく異影たちを喰らい、砕き、引き、潰していく。

 逃れられるものはなかった。巨蛇の体躯に張り付いた百の目が、異影の一つ一つを捉え、確実に葬っていく。

 まったく情けない。

 数がいるとはいえ、単体はただの第二級異影ではないか。それをあのひよっこどもは慌てふためきおって。


    ◆


 高地は混乱の極みに達していた。

「獣ども! 攻撃から目を離すなよ!」

 ファン・メイヤンは《キマイラ》を駆り、後退を続けていた。

 もはや疑いようがない。異影たちは軍隊のように、統率をもってこちらを追い込んでいる。すでに僚機との連携は分断され、異影たちの包囲に晒されていた。

「[青龍棍]!」

 霧の向こうから伸びてくる黒い槍。それを捌きながら、青い棍を突き入れる。手応えはある。だが、異影は尽きること無くこちらへと迫ってくる。上へ逃れようとすれば、それを待ち受けていたかのように無数の槍が襲いかかってくる。

 メイヤンにとってこの状況は避けねばならないものだった。絶え間ない物量相手ではメイヤンの得意とする刹那の集中は活かせず、持続力という欠点が露呈してしまう。

 一体、どうすれば……?

『どうした? 息が上がってるぞ』

 突如、頭上から声が聞こえた。

 そして、雨の如く、破壊が降り注いだ。

 身動きが取れなかった。あらゆる方向から起こる爆音、吹き上げる砂煙。霧を突き破ってきた何かが地上を舐め尽くす。

 そして、それと目があった。

 一匹の巨大な蛇が、異影も地形も構わず押し潰しながらこちらに迫ってくる。

 反応できない速度。

 思わず身構えたメイヤンの目の前を、大樹のような蛇が横切った。蛇は《鵺》の周囲を一巡りすると、鎌首をもたげた。

 鱗のあちこちにある眼が一斉に《鵺》を捉えると、会釈するように頭を下げ、体をうねらせ、上空に舞い上がった。

 目で追った先に、黄金の線が瞬いた。九つの尾を纏った帚星のように。

 空を駆ける黄金の機体を地上からの無数の槍が襲う。一筋の線にしか見えないあの蛇がぱっと散ると、竜巻のように地上へ降り注ぎ、槍を放ったであろう異影もろとも破壊の餌食にした。巻き上がる砂煙。地面を振るわず轟音。

 黄金の機体は上空を縦横無尽に駆け回りながら、繰り返し繰り返し、地上へ破壊を振りまいた。

 それはあたかも箱庭を与えられた子供が、好き勝手に世界を弄ぶかのように。

 メイヤンは寒気とともに脱力に見舞われた。

 信じられない。これが同じ人間の為しうる破壊なのか?

 これまで何人もの召喚士たちを見てきた。生まれ故郷である東大陸・東方王朝で、西大陸へ渡りバローク召喚院で。自分と並ぶ力量の者など数えるほどだった。確かに、自分には欠点がある。しかし、それさえ克服できれば、佰候召喚師への道は開かれる。そう思っていた。

 佰候召喚師との間に、ここまで差があったなんて。

 獣の力を合成し戦う点では《女帝の栄光》と《鵺》は似ている。だからこそ、その力量の差がはっきりとわかった。

 なんという魔力の密度。なんという術の精度。

 高地に振りまかれる破壊を目の当たりにして、次に湧いてきた感情は怒りだった。

 平然と人間の形をしながら、これだけの力を秘めた佰候召喚師という存在。第五師団長、ワン・グゥオフ。あの男もまた、その力の十分の一も見せてこなかったであろうことに。

『第五師団、ぼうっとしてるんじゃないぞ!』

 再び、雷のような怒声。

『北砦へ撤退! 准召喚士を護衛くらい出来るだろう!?』

 言い残して、《女帝の栄光》は南の空へと消えていく。

「……っ!」

 メイヤンは舌打ちをすると北へと機体を返した。


    ◆


《女帝の栄光》は異影の攻勢を押し返しながら外輪山南壁へと近づいていた。

 外輪山を雪崩れ落ちる『異海』。そこから溢れ出る異影の群れ。それは赤い大地を黒く染めていた。

 帝国側で何が起こっている?

 事前の情報によれば、帝国側の『異海』からここまで数十キロの距離があるはずだ。そこまで『異海』が侵蝕するまで、帝国召喚院が何もできなかったというのか。

 霧の中、〈不睡の竜〉の眼が新たな敵影を捉えた。

 これまでの蜘蛛型、球体型とは違う。それよりも大きい、第一級の飛行型個体だ。

「まったく、次から次へと……」

『ディアドラ・アンティオペー』

 どこからか声が聞こえてきた。佰候召喚師特有の、こちらの都合も考えない、どこからともかく聞こえてくる声。

 声の主を探すと《女帝の栄光》の右肩、巨蛇の根元に一匹の小動物が張り付いていた。複数の尾を持つ栗鼠。その栗鼠はアレフロート・リードマンの声を発していた。

「リードマン? どこにいる!? こっちは忙しいんだ、近くにいるのなら配下どもの面倒でも見てろ!」

『サルトリオはモノリスを見つけた』

 栗鼠はそう言った。

「……何?」

『この事態はサルトリオが引き起こしたことだ。彼から目を離すな……』

 直後、爆風とともにラタトスクが消えた。

 同時に、高地のあちこちから火柱が噴き上がった。高地全域に展開していた[鞭]が攻撃を受け、火のついた導火線のように爆風が吹き荒れる。

 魂への衝撃にも微動だにせず、アンティオペーは被害を確認した。

 右腕損傷。炎と煙が消えた跡には、ドールの導霊系が剥き出しとなっていた。

「…………」

 アンティオペーは上空の一点に集中した。

 一体の天使がいた。

 六枚の翼。白磁のような装甲。手には陽炎の立ち上る剣。

神聖不可侵サンクトゥリオ》。

 バローク召喚院第十二師団長エミリオ・サルトリオの機体だった。


    ◆


「…………!」

 精霊塔の薄闇の中、リードマンは苦痛に顔を歪めた。〈ラタトスク〉が受けた衝撃が魂の深奥を貫く。

『間に合わなかったか……』

「教授!」

 リードマンの傍らに控えていたウィルが顔を覗きこんできた。

「大丈夫ですか? 無理をしては……!」

『君、手伝ってくれ。どうやら最悪に備えなくてはならないらしい』

 リードマンは告げ、精霊塔の上階を見やった。

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