八、『神聖不可侵』・3
3
全ての指示を出し終えると、精霊塔の晶石室は一段暗くなった。召喚士たちの話し声は消え、荒い呼吸音だけが空間に残った。
リードマンは晶石に手を当てたまま、台座にもたれかかった。露出している肌は赤く焼け、ひりひりと痛む。晶石で増幅された魔力の放射にあてられたのだ。
シャツの濡れた感触。それが汗なのか、血なのか、確かめるまでもなかった。
〈世界樹〉の半透明の根に覆われた壁を一瞥する。と、壁が蠢き、その中から少年の小柄な体が転がり出てきた。
「……っ!」
「大丈夫だったかね? 少し手荒に扱ってしまったが」
床に伏した少年がこちらを見上げていた。そこに元の柔和さはなかった。凍り付いたその表情から、責めるような視線が向けられていた。
「……本当なんですか?」
「何が?」
「本当に、この半島が、バローク召喚院が壊滅するというんですか?」
「可能性はある、と言っただろう。本当のことは誰にもわからないとも」
「本当に、逃げる方法はなかったんですか?」
「どうだろうね。全くない、とは私も言い切れない」
「こうなるとわかってて言ったんですか? リーズリースを焚きつければ、必ず彼女が手を挙げるとわかっていて……!」
「それに対してはっきりと答えられる。その通りだ」
「あの人がどうなるかわかっていてですか……!」
「正確に言いたまえ。死ぬとわかっていて、だろう? それに対しても同様だ。それ以外、私が生き延びる術がないのだから」
「だったら僕が囮になります!」
「君では不十分だと分かっているはずだ。モノリスの破壊に成功したとしよう。サルトリオがそのまま、我々を逃がすと思うかね? ここから逃げるためには、彼の生涯を賭けた大計を水疱に帰せしめた憎悪を受け、時間を稼ぐ存在が必要なんだ。彼女の膨大な持久力と防御能力はそれにうってつけなんだ」
少年は憎悪に満ちた双眸をこちらへと向けた。はじめて見る表情だった。これが彼の本来の顔貌の一つなのだろう。
「あなたなんか助けるんじゃなかった……!」
睨みつける少年に、リードマンは微笑みかけた。
「ひどいな。君だって計算があって私を助けたはずだ。サルトリオに対抗できるのは佰候召喚師だけ、そう考えたから君は私を助けたんだ。もし、私を見捨てることが最善だったら君はそうしたさ。もし敵であれば、殺すことだってしただろう。君にはそういう判断が出来る力がある。だから私は君を招いたんだ。私の目に狂いはなかったな」
褒めたつもりだったが、相手はそう思っていないのは確かだった。その無言の抗議に、リードマンはこたえた。
「だから言ったじゃないか。私は悪魔みたいなものだって。それにこれは悪い取引じゃない。君の望みを叶えるときが来たんだ。彼女を救い、彼女の英雄になるときが」
「そんな話は聞きたくありません!」
「隠したって駄目だ。この歳になるまでいろんな召喚士を見てきた。そうすると召喚士の年輪が見えるようになる。その召喚士と眷属がどんな道を歩いてきたのか。何を考えてきたのか。何を為そうとしてきたのか」
リードマンは血で濡れた腹部を撫でた。
「この治療痕を見て確信した。君の本質は『野心』だ。自分の限界を知りながら、それでも天まで掴みとろうとする欲望だ。自分自身を焼き尽くしかねない野望だ。考えて考えて考えて考えて、考え抜かなければここまでの術は身につかなかっただろう。その野心を解き放つのは今おいて他にない」
「僕にどうしろって言うんですか!」
少年は絶叫した。それは彼の、最後の心の枷が壊れた瞬間に思えた。
「手術のことを知っているのなら、その結果も知っているはずでしょう!? 失敗したんです! 強化手術を受けても! 痛みに耐えても! 僕が欲しかったものは何一つ手に入らなかった! 僕に残ったのは痛みと、こんな妖精たちしか受け入れられない魔力だけなんです! こんな力で何をしろって言うんです! 僕に出来ることはただ、誰かに祈りを捧げることくらいなのに!」
気がつけば、彼の周囲にいくつもの妖精たちが現れていた。彼の八体の眷属だけではない。灰髪の泣き妖精、洞窟に棲まう妖精、この付近に潜んでいたであろう妖精たちが不安げに激昂する少年を見守っていた。
これが彼の魔力なのか。数多の妖精を引き寄せる力。想像を絶する苦難の末に手に入れた、望まない力。
「お願いします! 僕に出来ることなら何でもします! だから、あの人だけはどうか……!」
「仮に、彼女だけ逃げることが出来たとして、彼女がそれを望むと思うかね? それにどこに逃げたところで同じことなんだ。仮に、ここから逃げ出せたとしても根本的な問題は解決しない。これはこの世界の問題だからだ」
少年はびくり、耳を塞ぎかけた。それは彼特有の感覚がもたらした防御反応だったのかもしれない。
知ってしまったらもう引き返せない。
だが知らなければ、より大きな危険から目を背けることになる。
それを本能でわかっているのだ。
「私が召喚機を専門にしていたのは『異海』について知りたかったからだ。『異海』とは何か? 『異海』の向こう側には何があるのか? 常に『異海』に相対しているのが召喚機だからだね。召喚機に及ぼす魔力場の影響から多くのことを知ることが可能だと思った。長い期間を掛け、私は情報を集めた。並行して各地の伝承をあさり、地層を掘り返し、『異海』の影響を観測してきた。そして、一つ結論に辿り着いた。
『異海』は無為じゃない。
『異海』は意図をもって、この世界に侵攻してきている。
この百年間、召喚院は『異海』との戦いに勝利を収めつつあった。
だが、変化はすでに現れていた。戦いの様相が変わり始めているんだ。各地で精霊塔の機能不全を起こし、また、召喚機に対抗するかのように巨大な異影が増え続けている。
彼らの侵攻はそれだけに留まらない。
エミリオ・サルトリオの離反もその一部だ。彼は『異海』の意思に触れたんだ。『異海』の干渉は彼だけに留まらないだろう。
私たちには知らないことが多すぎるんだ。自分たちが何と戦っているのか。誰と戦うべきなのか。モノリスとは一体、何なのか。そして、原初召喚術はどうして失われてしまったのか」
「世界のことなんて、僕たちには関係ない! あなたたちだけでやっていればいいじゃありませんか!」
「関係はあるさ。世界が壊れ、いつ彼女を飲み込んでしまうか、それは誰にもわからないんだ。君がそれを見つけ、彼女を守るしかない。今のところ、真実に行き着く可能性が一番高いのが君だ。誰も知らない感覚を持っている君なら、私が辿り着けなかったものを見つけ出せるかもしれない」
リードマンは指を動かした。再び壁が蠢きだし、それから現れた根がウィルの体に巻き付いた。
「ようやく、話の続きに辿り着いたね。私が君に求めるものはただ一つ、世界の真理に辿り着くことだ」
「待ってください!」
「最終的に我々の目的は一致しているんだ。私はこの世界の真理を知りたい。君が彼女を救うためにはこの世界の真理を知るしかない。この世界の外に何があるのか。この世界に干渉しているのが何なのか知らなくてはならない」
壁の中へ消えていく少年にリードマンは最後の言葉を投げかけた。
「それにね、君。神様に祈ったって仕方ないじゃないか。これから先、彼女を守ってあげられるのは君しかいない。力があろうがなかろうが、その意思を持っているのは君だけなんだから」
◆
再び緑色の蔦に包まれ、水中へと沈み込んでいくような感覚から解放されると、ウィルは新しい空間へと放り出されていた。
「教授! 教授!」
壁を叩き続けたが、もう何も反応はなかった。
周囲の光景は一変していた。
リードマンを運び込んだ精霊塔の近くだったはずだ。その景色はもう、数十分前の原型を留めていなかった。世界を断ち切るように流れ落ちる『異海』。大地はバラバラにされ、奈落のあちこちを漂っている。かろうじて〈世界樹〉の姿が浮かび上がり、伸ばした枝や根が無数の浮島を繋ぎ止めている。それもいつまで保つかわからない。いまもなお、無数の異影が虫のように〈世界樹〉へと群がっていた。
ウィルの前で〈世界樹〉の壁が歪んだ。壁に影が浮かび、そこからゆっくりと召喚機が吐き出される。
オクタ・ドール。
リードマンの意思なのだろう。砦へと残してきたはずの異形の機体はゆっくりとウィルの目の前に現れた。
神様。
神様、僕はどうしたらいいのですか。
僕に何が出来るというのですか。あなたは知っているはずでしょう? 僕に出来ることは、ただ祈ることだけだということを。
「お前か。ちょうどよかった。勝手に持っていくわけにもいかないと思っていたところだ」
オクタ・ドールのハッチが開き、ファン・メイヤンが姿を見せた。泥に汚れた白い道袍。荒い息、白い肌は朱に染まり、汗が滲んでいる。
「お前の機体を貸せ。このままでは終われん。私に戦わせろ」
選択の時。
それが恐ろしくやってきた。
◆
サルトリオは祈りの忘我から、現世へと戻った。
操縦席はゆりかごのようだった。座席に赤子のように収まり、体の上で手を組み合わせ、操縦桿を握っている。
大穴の中は静寂に包まれていた。
《
天を仰ぎ見る。
眼前に、墜ちてきた月のように、モノリスが空を覆っていた。象牙で出来た卵のようなそれは、変わらず、世界を生み出すための胎動を続けている。世界の狭間から溢れる『異海』は滝のように地上に流れ落ちていた。
下界を見下ろす。
二つの世界は混ざりつつあった。大地の残骸が浮島のように地上までの空間を漂っている。
その中に、かつて見たことのない巨大樹が存在していた。
リードマンの眷属だ。根を空中に張り巡らし、残った大地を繋ぎ合わせていた。
異影の軍勢は巨大樹に侵攻しようと、蟻の群れのように張り付いている。だが、障壁に阻まれたまま、一向に進めないでいた。
まさか、あのリードマンがこれほどまでの力を隠していたとは。
彼らは同志であり、そして潜在的な敵であった。その緊張は召喚院のシステムに内包されていたものだ。それぞれが利益を追求していけば、必ずそれが相反するときがやってくる。だからこそ、将来的な闘争に備え、お互いの手の内を晒すことはなかった。
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そして、アレフロート・リードマン。
リードマンはこの世界の真実にどこまで辿り着いていただろうか?
モノリス。それが神話の中ではなく、この世界に実在することは知っていたはずだ。そしてここを訪れる以前から、召喚院に離反者がいると気付いていただろう。
だからこそ、彼に仲間はいない。召喚院と情報は共有していない。そう断言できる。
一人でやるしかなかった。どこに敵がいるかわからなかったから。召喚機の開発という偽装に隠れ、注意深く、周囲に目的を伏せ、欺き、ゆっくりと事を進めてきた。
自分と同じように。
しかしながら、自分の離反は召喚院の知るところとなっただろう。
味方は一人。敵はあまりにも多い。
東方王朝。南方帝国。西方聖皇領。そして、バローク召喚院。
彼らを相手に、どれだけの時間と贄を稼げるかどうか。召喚院との戦いにどれだけの戦力を用意することができるのか。
もう、後戻りは出来ない。
モノリスを賭けた、召喚院との全面対決のときが近づいていた。
「…………」
動き出したか。
サルトリオは下界のざわめきを感じ取った。
五基もの高出力・高純化型ネイオス。そのどれもが眷属の高精度純化によって性能を発揮させるよう、深く、繊細な調整がなされている。リードマンは素晴らしいものを残してくれた。それは素晴らしい魂の成せる業だ。可能であれば、その魂も贄に捧げたかったのだが。
大容量の導霊系に魔力が満ち、魔力場が展開する。
フレームの軋みも、ネイオスの振動もなかった。静かで深い魔力が、異界への門を創り出した。
「〈ミカエル〉よ、来たれ」
右手に宿りし天使、邪なる者を打ち払いたまえ。
「〈ラファエル〉よ、来たれ」
左手に宿りし天使、善き者を癒やしたまえ。
「〈ガブリエル〉よ、来たれ」
前に宿りし天使、神の威光を知らしめたまえ。
「〈ウリエル〉よ、来たれ」
後方に宿りし天使、天道を導きたまえ。
「〈ラジエル〉よ、来たれ」
頭上に宿りし天使、その全てを見届けたまえ。
再構成が完了した瞬間、世界が一変した。
もはや光も音も必要なかった。
この機体を満たすのは神の言葉だった。天使が伝えるその言葉が、サルトリオに全てを教えてくれた。
それこそが《神聖不可侵》の統合システム[神託]だった。
五体の天使は神性言語によって繋がれこの機体を制御する。世界を構成する原子の一つ一つさえ把握し、時間の概念を無視し行動に映す。それは未来予知などではなく、必然をなぞるに過ぎなかった。
機体が動き出す。
サルトリオには逡巡も決断も必要なかった。為すべきことは、ただ、神の意志を現世に顕すことだけだった。
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