七、『女帝の栄光』・1

    1


 リードマンは石の上に横たわっていた。

 呼吸ができない。いくら胸を上下させても、液体が泡立つ音がするだけで一向に空気が肺に入っていかない。

 血液が、石床の上を水銀のように流れていった。腹部にあった灼熱の感覚が激痛に変わっていく。それはやがて冷たさに代わり、近いうちに何も感じなくなるだろう。

 それまでにどれくらい時間があるだろうか?

 全ては彼次第だった。

「あなたには、もっと注意を割くべきだった。召喚機の開発、それだけで満足するはずはないと思ってはいたが」

 わずかに顔を上げると、サルトリオは傍らに立っていた。天使の姿は無い。もはや、こちらが危害を与えることはないのを知っているのだ。

「今にして思えば、召喚機ほど私たちの目的に適うものはなかった。現世と『異海』の境界、そこには常に召喚機が存在しているのだから。召喚機を提供し、あるいは各地に試験機を送り込めば、機体に及ぼした影響から『異海』を識るができる」

 本当の無表情とはこういう顔なのだと、リードマンは知った。あの木訥とした面持ちさえ、サルトリオが纏っていた仮面に過ぎなかった。

「あなたと私の目的は同じだった。だからあなたにはまだ生きていてもらわなければならない」

 それからサルトリオは言葉を並べていった。

「異邦人。古王国。大地峡。召喚院。三賢機関。召喚機。ネイオス。巫女。西方聖教会。東方王朝。南方帝国……」

 言葉の羅列は百語近くになった。

 意味が明白であるもの、意味不明であるもの。それらが脈絡なく現れる。

 質問、とは呼べないほど一方的なものだった。おそらくはその言葉たちは媒体であって、それによって引き起こされたリードマンの反応を確かめていたのだろう。

「……なるほど。あなたもそこまで行き着いていたのか。そうでしょう。でなければ、ここに見当をつけることも出来なかったでしょうから」

 一人、得心したようにサルトリオは呟いた。

「そう、あなたの考えている通りです。ここにあるのはモノリス。原初召喚術の中核。人類に万能の力を与えたという、神の御影」

 彼の表情は変わらない。ただ、声に恍惚としたものが混じり始めた。

「私はこれを見つけ、そして、教えられた。この世界が偽りであることを。世界の真の姿を。その意思をを全うすべく、私は存在してきた。主をあるべき姿へと還すために」

 そうだったのか。

 彼は聞いたのだ。

 外からの声を。

 そして、最早それを隠すつもりもない。それはリードマンの命が尽きることを意味する。

 リードマンはかろうじて口を動かした。それが時間稼ぎにもならないとは思いながら。

 ……私は君の味方かもしれないぞ?

「あなたは味方ではない。神に仕えるのは私一人なのだから」

 サルトリオの周囲に星のような光が瞬くと、その傍らに天使が現れた。炎の剣を携えた、白磁のような天使。

 そして……。

「教授! どこですか! リードマン教授!」

 空間に、新たな声が響いた。


    ◆


「教授! お話ししたいことがあるのですが!」

 サルトリオは背後を振り返った。空間に、第十三師団の正召喚士の声が響いていた。地下は入り組んでおり、この空間に至る経路も複数ある。召喚士の声は地下通路のどこかから発せられたものらしかった。

 リードマンを追ってきたのか?

 リードマンがここへ来た理由を考えれば、彼自身の指示ではないはずだ。おそらく上で何かあり、指示を仰ぎに来たのだろう。

 どうする?

 今は一人でも多くの贄が必要だった。

 リードマンを手に掛ける決断をした以上、最早、召喚院との全面対決は避けられない。残された時間でモノリスを完全な形に近づけるためには、どんな存在であろうが贄に捧げなければならない。

 しかし、時間もまた必要なものだった。

 召喚士を一人、生かしておくのはあまりに危険だった。アンティオペーが事態を把握するまで、少しでも時間を稼がねばならない。この数時間、いや、数分の行動が世界の命運を決めるのだ。

 気付かれる前に、消すしかない。

 サルトリオは決断すると、音の反響から洞穴の一つに検討をつけた。気配を消し、壁に体を沿わせる。

「リードマン教授! どこですか!」

 足音と不安げな声が反響してくる。その物音は徐々に地下空間へと近づいてくる。

 淡い光が視界に入った。

「教授!」

「召喚」

 サルトリオは洞穴へと踏み込んだ。天使を呼び出し、曲がり角の先へと向ける。

「ドコデスカ! ドコデスカ!」

 きらきらと粒子を撒き散らしながら跳ね回る小妖精がいた。騒いでいた妖精はこちらに気付くと、にっ、と笑って消えてしまった。辺りは静寂に包まれた。もう何の気配も残されていない。

 サルトリオは踵を返し、晶石安置室へと戻った。

 リードマンが消えていた。

 音も無く。まるで最初から存在していなかったかのように、しかし、床に残された血溜まりが確かにそこにいたことを示していた。手を触れさせると、そこにはまだ温かみがあった。

 あの召喚士はすでに知っていたのだ。

 ここで何が起こっているのか知っていて、最初からリードマンを連れ去るつもりで、あの声を発生させたのだ。

 ここに来て、サルトリオは再び人たる身の限界を思い知らされた。天使たちの強大過ぎる力ゆえに、召喚機なしではその能力を十全にを引き出せないことを。

 薄暗い空間で、サルトリオは天を仰いだ。

「…………」

 どうして?

 主よ、なぜ私を試されるのですか?

 私はあなたの言葉を賜り、私は使命を担ったのではないのですか?

 世界を正しい姿へと導くため、あなたの言葉を賜ったのではないのですか? それなのに何故?

 サルトリオは問うてから、その答えが、すでに自分の中に存在することを知っていた。

 そうだ。主は、私の躊躇いを見抜いておられるのだ。

 情報を引き出すことを理由に決断を先延ばしにした。それが、かつての仲間を手に掛けることへの躊躇いではなかったのか。

 そして、サルトリオは全ての迷いを捨てた。

 今、ここで、召喚院を滅する。

 サルトリオは天使を送還すると、闇の中へと消えた。


    ◆


〈クー・シー〉が音も無く、坑道を疾駆する。暗闇の中、次々と現れる分岐。その度に、石壁のなかから、コツコツ、何かを叩く音が聞こえてきた。

〈ノッカー〉。鉱山に棲む妖精たちが地上への道を教えてくれている。〈クー・シー〉は次から次に現れる分岐を全力で駆け抜けていった。

 やがて、前方に明かりが見えた。

 飛び込むと、そこは砦の外だった。緊急時の脱出孔だったのか、振り返ると霧の中に外壁が佇んでいる。

 ウィルはそのまま霧に紛れ、高地へと逃げだした。

「……っ! ……っ!」

〈クー・シー〉の背に乗り、緑色の被毛に指を食い込ませる。ぐったりと意識のないリードマンが振り落とされないよう必死に押さえこみながら。

 一体、何が起こったのか。何が起ころうとしているのか。ウィルは理解することを放棄した。

 そんなことはどうでもよかった。あなたたちが何を争い、どうして殺し合うのか、そんなことは勝手にやってくれればいい。

 どうかこんなところで死なないでください……!

 こんなことにあの人を巻きこんだままいなくならないで!

 やがて小さな洞穴を見つけ、そこへと入り込んだ。

 もし、あの人が追いかけてきていたら? その疑問をウィルは捨て去った。あの人が自分を殺すつもりなら自分にはどうすることもできない。生きるか死ぬかを決めるのは自分ではなく、神様の意思に他ならない。生きていることを許されているのなら、するべきことは一つしかない。

 ウィルは〈クー・シー〉から降りた。〈クー・シー〉に身を伏せるように指示し、緑色の被毛の上にリードマンを寝かせた。

「召喚!」

 光の妖精を召喚し、リードマンの様子を確かめた。

 意識はない。顔は青ざめ、呼吸も微弱。ウィルは手荷物から裁縫道具を取り出し、裁ち鋏で血で濡れたシャツを切り開いた。

 目眩がした。

 深手だった。

 見たこともない傷だった。異物は内蔵にまで達したあと、焼かれていた。奇妙なまでに致命傷を避けた傷跡。それはただ数分のあいだ命を止めておき、その後、確実に死に至らしめるような処置だった。

 やるしかない。

「コール・〈ブラウニー〉! 〈レプラコーン〉!」

 左右に小妖精が現れる。ウィルは手荷物を広げ、彼らの前に裁縫道具を置いた。

 みんな、力を貸して!

 ウィルは大きく呼吸をし、リードマンの[手術]へと没入していった。


    ◆


 サルトリオの眼前に奈落があった。

 メレナ高地地下に広がる巨大な縦坑。その直径は数キロに及び、膨大な暗闇の中ではわずかな反響だけがその存在を知らせていた。

 サルトリオは奈落に掛けられた橋のような構造体の上に立っていた。構造体は角度を変えながら一定間隔で配置されており、底を覗き込むと。それは多重魔法陣のような模様を形作りながらどこまで続いていた。

 サルトリオは足を踏み出し、奈落へ躍り出た。

 闇の底へ。

 自由落下に身を任せながら、サルトリオは、はじめてここに辿り着いたときのことを思い返した。

 六年前のあの日。

 エミリオ・サルトリオが神託を受けたあの日。


    ◆


 正しいことだと教えられてきた。

『異海』との戦いにこの身を捧げること。自分の力は、そのために神から与えられたのだと。

 戦って、戦って、戦って。

『異海』と戦い、異影と戦い、あるときは同じ召喚士とも戦った。

 やがて自分は認められ、佰候召喚師となり、己の領地を得るまでに至った。

 それなのに、疑念は膨らむ一方だった。

 欲望を焚きつけるような召喚院のあり方に。弱者は弱者のまま、虐げられる世界のあり方に。

 そして、自分という存在のあり方に。

 自分が自分でないような感覚。世界という鋳型は、自分を削り、歪ませ、硬質化させていった。

 だがあの日。

 自分は世界の真の姿を知ったのだった。

 その麗しき姿。完全なる秩序。この世界から欠けているものが、そこにはあったのだ。

 そして、サルトリオは悟ったのだった。

 真の自分の使命を。

 この世界をあるべき姿に戻すために、自分はここに導かれたのだ。

 無益な戦いも、生きる苦しみも、何もかも。

 ここに至るための、神の導きであったのだと。


    ◆


 降下を始めて数分。

 奈落は徐々に狭まり、また、光を感じるようになった。

 断崖に刻まれた螺旋状の階層。そこへ群体生物のように張り付いている建造物。

 サルトリオは構造体の一つに降り立った。

 奈落の底、眼下にそれを見つけた。

 数キロに及ぶ、巨大な結晶体。今はまだ淡い赤い光を放ちながら、胎動のような魔力を湛えている。

 モノリスだった。

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