六、『失地回復』・4

    4


 サーカム市を出立してから二時間後。

妖精の王オーベロン》はようやく峠を越え、メレナ高地へと入った。

 機体の下部から生えた半透明の八脚が斜面をつかみ、ゆっくりと下っていく。道幅は召喚機一機が通れるくらい。岩肌は滑りやすく、ウィルは神経を尖らせて〈ケット・シー〉と〈クー・シー〉をコントロールしていた。

 バローク召喚院の演習場でも移動には苦労したが、ここに比べたら舗装された道路のように思えた。高地の山道は道と呼ぶにも疑わしく、本隊が通過した真新しい跡がなければどこを通っていいのかすらもわからない。

 しかも、途中から霧が出てきて、稜線を越えた辺りから数メートル先さえ見通せなくなっていた。本隊の姿は一向に見えてこない。とにかく〈エコー〉の反響を頼りに、物音のする方向へと進んでいく。

 もし、今、異影に襲われたら……。

 そうならないよう、とにかく祈るしかない。

 そんなウィルの背後で、リードマンは平然と書類の束に目を通していた。

 狭い操縦席。機体が上下するたびに、がさがさと後頭部に紙片が当たる。催促なのか、嫌がらせなのか、見当もつかず、ウィルはとりあえず謝っておいた。

「すみません……! これでも全力なんです……!」

「ん? ああ、頭に当たっていたか。失敬。なにせ狭いものだから。自分で設計しておいてなんだけど」

 心ここにあらずといいった様子でファイルを少し上げた。

 また、沈黙がやってきた。出立してからはずっとこの調子だった。指示らしい指示もないばかりか、会話すらない。

 なんともいえない緊張感。

 この人とこうやって二人きりになるのは初めてのことだ。ウィルがバローク召喚院にやってきたときにわずかに挨拶をしただけで、その後はずっと放っておかれたまま。

 自分をバローク召喚院に招いた張本人。それなのに、いまだにその理由を知らないままなのだ。

 ウィルは長い躊躇いのあと、とうとう尋ねていた。

「あの、質問があるんですが」

「何?」

「リードマン教授はどうして僕をお呼びになったんですか?」

「どうしてっていうのは?」

「僕みたいな落ちこぼれをどうしてわざわざ聖都から呼び寄せたのか、その理由がわからないんです」

「決まってるじゃないか。君は使えるからだよ」

「でも、僕の魔力では教授のお役に立てるとはとても……」

 後部座席でリードマンは笑った。

「おかしな事を言うんだな。八体同時契約なんて出来る人間なんて君の他にいるわけないだろう? 今だってこうやってオクタ・ドールを操ってるっていうのに、どうして役に立たないなんて考えになるんだ」

「はあ……」

「あ、そうそう」

 リードマンは言いながら体を捻り、鞄から新しいファイルを取り出した。

「君の面接がまだだったのを思い出したよ。君の質問に答えたんだ。ついでにこちらの質問にも答えてもらおう」

「面接、ですか?」

 脈絡なく言うリードマンにウィルは聞き返した。

「ああ。こちらに来てからまだろくに話してないだろう? 新規の召喚士が来たときはいろいろ聞くことにしてるんだ。操縦しながらでいいから答えてくれ」

「はあ……」

 操縦しながら、というのがもう難しいのだが、リードマンは気にする様子もなく質問を始めた。

「『異海』って何だと思う?」

「…………え?」

 唐突な質問だった。

「『異海』って『異海』のことですか?」

「そう。深く考えなくていい。話のとっかかりみたいなものだから。ちなみに他のみんながどう答えたか聞くかい?」

「……いえ、別に」

「ええと……リーズリースは『それが私の採用に関係ありますか?』、双子は『もう一人に同じ質問をして比較したら許さない』だった。で、なんだと思う?」

「それは……」

 ウィルは言い淀んだ。

「僕にはわかりません。わからないから『異海』なのでは?」

「ふむ、それはそうだ。この世ならざるもの、理解できないもの、それが『異海』だ」

 仰々しく頷いて、何か書き込んだ。

「では、どうして『異海』は存在していると思う?」

「……………………え?」

 今度はかなり間をおいてウィルは聞き返した。

 何のために? 頭に浮かんだのは神話の出来事だけだった。

「神様がお創りになったと教わりました。神様が人に罰を与えるためだと……」

「それを信じてる? まさかそんなものを真に受けてるとは……」

 言いながら、リードマンは何か書き込んでいるようだ。

 変な人だ。一体、何が聞きたいのだろう。それに教会の教えに対して、こんな態度を取る人を初めて見た。

「そういえば君は大聖堂の礼拝に参加していたな。どうして?」

「どうしても言われましても……」

「君は納得しているのか? 君は何も悪いことはしてないだろう? なのに『異海』なんてもの創って君を苦しめる非道い奴によく毎日毎日、祈りを捧げられるな。私だったら恨み言の一つや二つ、言ってやりたいと思うが」

「神様の意思なんて、僕にはとても量ることはできません。神様がお創りになったというのなら、僕はただそれを受け入れるだけです」

「ふうん、君はずいぶん従順だな。意外だったよ」

「そうでしょうか?」

「強化手術なんてものを志願したんだ。もっとこの世界に不満があると思っていたがね」

 その一瞬、心臓の鼓動が止まったかのように感じられた。リードマンが何かのページをめくりながら、淡々と言った。

「術式を見たが、これはすごいな。背中を開き、肋と背骨に魔方陣を刻み込む。想像するのも嫌になる苦痛だ。肉体的な痛みもそうだが、魔力の流れを外部から干渉することによる反作用は想像もつかない。術後、まともに動けるようになるのだって数ヶ月は掛かるはずだ。慢性的な痛みは今だって残り続けているんじゃないか?」

 ロッドを持つ手が震えだす。体の奥が発熱し、汗が噴き出す。心臓の鼓動が、際限なく早まっていく。

 どうして? どうして、手術のことを知っている!?

「まあ、それくらいのことをしなければ、わずか半年の間に契約上限を一体から八体に引き上げることなんて出来なかっただろうがね。そこまでして召喚機に乗ることを選んだのか。凄まじい執念だ」

 あれは聖都召喚院の機密事項だったはずじゃないのか? 誰にも話してはならない、誰にも知られてはいけない秘密だったのではないのか?

 この人はどうやってそのことを? リーズリースは? リーズリースはこのことを知っているのか?

「ああ、リーズリースには何も話してないから心配しなくていい。私はそこまでおせっかいではないから」

 心の中を見透かされたような言葉に、体がびくりと震える。

「でも、秘密にしなくてもいいんじゃないか。居留地と引き換えに聖都召喚院に身体を差しだしたんだ。彼女だってそう知れば感謝くらい……」

「やめてください!」

 自分の大声に、自分で驚く。慌てて、ウィルは声を落とし、取り繕った。

「すみません……。で、でも、何も知らせないでください。余計なことで心配させたくないので……!」

「君がそういうならそうしよう。一つ貸しだ」

 リードマンが続けた。

「ついでだから、君が知りたいことにも答えよう。彼女は私が呼び寄せたわけじゃない。彼女は自分の意思でバローク召喚院の試験を受けに来たんだ。彼女には欲しいものがあった。私も彼女にやってほしいことがあった。……おっと、君が心配するような倫理に反することじゃない。試験機の運用のことだ。私は試験召喚機と戦場を提供し、彼女はあの重装試験ドールに無尽蔵の魔力を提供した。取引だよ。お互いに望みのものを手に入れたんだ」

 ウィルはネイオスに展開した眷属の感覚を、操縦席の後部座席へと向けた。どんな人間にだって感情はある。感情が動けば肉体に変化が現れる。

 ……それなのに、リードマンが何を考えているのか、全くわからない。

 こんな人間に出会ったのは初めてだった。

 訓練によって精神活動を隠匿できる者、そういった人間は聖都にもいた。

 だが、リードマンは何も隠そうともしない。自然体のまま、それなのに何も浮かび上がってこない。生まれついての空白。まるで……。

「そうだな。私のことは『悪魔』と思ってもらえばいい。代償の代わりに欲しい物を手に入れてあげられる。まあ、悪魔とは違ってだいぶ良心的なレートだと思う。魂は別にいらないし」

 リードマンが何か話す度、ウィルは声を上げないでいることがやっとだった。

 怖い。

 あまりの恐怖に、振り返ることもできない。

「『欲しいものがあるのなら手に入れろ』。それがうちの家訓なんだ。私にも欲しいものがある。だから、手段は選ばない。君にも協力してもらう。その代わり、君にも何かしてあげられると思う。手始めはこのオクタ・ドールだ。このドールは君の願いを叶える手助けをしてくれるはずだ」

 絶対に聞いては駄目だ。そう直感が告げた。

 僕に何をさせようというのか。それを聞いてしまったら、きっともう、後戻りはできなくなる。

「そうだね。その前に私の望むものが一体どういうものなのかさわりだけでも知っておいたほうが……って! 前前前!」

「え……!?」

 突然、叫んだリードマンの声に驚き、前方に注意を向けた瞬間、霧の中に巨大な影が現れた。

「〈スプリガン〉!」

 とっさにシヴィラに展開した〈スプリガン〉がクッションのように膨む。

 衝撃ののち、機体は仰向けに倒れ、そこで停止した。

「いたたた……」

 我に返り、外の状況を確かめる。道だと思っていた下り坂に、壁のような赤い岩山がそびえ立ち、行く手を塞いでいた。

 後部座席、操縦席の後方壁に押しつけられ、舞い散った書類に埋まったリードマンが呻いた。

「君……しっかりしてくれよ……! こう見えてもこの機体はけっこうな金が掛かってるんだから……!」

「す、すみません……!」

 ウィルは謝りながら、機体を起き上がらせようとした。

 その直後だった。

「[風刃ウィンド・カッター]!」

 付近の地面に立て続けに魔術が撃ち込まれ、砂煙が立ち上った。

『動くな! 今すぐに構成を解除しろ! さもなくば攻撃する!』

 魔術で拡声された怒鳴り声。リードマンが座席の背もたれ越しに叫んできた。

「ちょ! ちょ! 急に撃ってくる奴があるか! 君! 私の声を[拡声]して!」

「は、はい!」

「あーあー! こちらバローク召喚院第十三師団アレフロート・リードマンだ! こちらに武器なんてないんだから攻撃はやめてくれ!」

『リードマン召喚師?』

 霧の中から気の抜けた声が返ってきた。声のした方を見ると、壁の上に召喚士の操るキャリアが現れていた。

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