六、『失地回復』・1
あの夜。
ウィルが居留地で過ごした、最後の夜。
◆
ウィルは音もなく部屋に入った。
ベッドの中、リーズリースは寝息を立てていた。この頃はよく眠れているようだ。〈デュラハン〉の護符を握りしめながら、毛布の中で穏やかな寝顔を浮かべている。
この居留地に入って、ようやくリーズリースは一人で眠れるようになった。それでもなお彼女は夜を怖がり、ときおり悪夢を見ては泣き叫んで目覚め、そして現実にある悪夢と向き合わなくてはならなかった。その度にウィルは彼女を抱きしめ、朝が来るのを二人で待った。
明日、この居留地を離れる。
そう告げたら、どうなるだろうか。泣きながら自分を呼ぶ彼女の姿を想像するだけで、罪悪感に押しつぶされそうになる。彼女はどう思うだろう。自分が裏切ったと思うだろうか。逃げ出したと思うだろうか。
だが、後に引くことはできない。
この身を売り渡すこと。それがこの居留地に入るための条件だったのだから。
そっと、手を伸ばす。彼女の手に触れるかというところで、リーズリースの身体から黒い霧のような魔力が湧き上がった。そのまま魔力は形を為し、傍らに亡霊の騎士を浮かび上がらせた。
〈デュラハン〉はリーズリースを守るように、ウィルの前に立ちはだかった。
「そうだ。それでいい、オスカー」
〈デュラハン〉にウィルは呼びかけた。
「リーズリースを頼む。オレの代わりにこの子を護ってくれ。この世界から、あらゆるものから」
〈デュラハン〉の姿がぼやけて見えた。リーズリースの未熟な魔力のせいか、それとも涙でにじんだせいなのか。
亡霊の騎士の表情はわからない。聞いているかいないのか、体をわずかに傾けた。
1
ぺしぺし、頭を叩かれウィルは、はっと目を覚ました。
焚き火の灯り。妖精たちはその周りをぐるぐる周り、ざわざわわめきながら、こちらを見上げている。ウィルの頭をノックしていたのは〈ブラウニー〉で、みんなを代表して居眠りをしていたウィルを叱責していた。
「ああ、みんなごめん……!」
だんだんと記憶が蘇ってきた。
天涯回廊、サーカム市郊外の宿営地。夜警をしながら妖精たちの踊りに付き合っているうちに、いつの間にか眠ってしまったらしい。
今、何時だろう?
暗闇の中、宿営地の丘はあちこちに焚かれた篝火で暖色に浮かび上がっている。寄り添う様に立てられた天幕はまだ静まりかえっていた。
ウィルは大きく欠伸をした。じっとりとした疲労が体の芯に残っている。この二週間、いろいろなことが起き過ぎた。
それでも、妖精たちは容赦なく抗議してくる。ウィルは諦めの笑顔を見せ、太鼓代わりの桶に手を伸ばし、演奏を再開した。
と、足元に寝転んでいた〈クー・シー〉が音も無く起き上がった。同時に、小妖精たちはあちこちの茂みへと消え去っていく。ざわめきが消え、残ったのは火の光だけになった。
丘の上から足音が近づいてきた。振り返らなくても誰かわかった。
「まだ、起きていたのですか?」
闇の中からダークブルーのコートとリーズリースの柔らかな金色の髪が浮かび上がった。ウィルはにっこり笑顔を作り、リーズリースにたずねた。
「どうしました、リーズリース? あ、お腹が空きましたか? 何かお作りしましょうか?」
「…………」
リーズリースは黙ったまま、間合いを計るようにウィルを見下ろした。
ウィルにははっきりとわかった。
とうとう、このときがやって来たのだ。バローク召喚院にやったきたその日から、ウィルが恐れ、避けてきたそのときがついに訪れたのだ。
◆
「少し、いいですか?」
リーズリースはウィルの隣に座り、同じように焚き火を眺めた。
このときになってリーズリースは、この瞬間を避けていたのは自分の方だったのだ、と気付いた。
ウィルと話す機会はずっとあったはずだ。訓練の間にだっていくらでも時間を見つけることはできたはずだ。……いや、ウィルと再会したあの日、男子宿舎に押しかけて、はっきりさせることだってできたはずだ。
それなのに、できなかった。
「これを」
リーズリースはコートの内ポケットから封筒を取り出した。
「居留地の叔母様からこの前、手紙が届いたんです。あなたも読みたいだろうと思って」
差し出した手紙に手を伸ばしかけ、ウィルは顔を曇らせた。ウィルは手を引き、膝の上に置き、固く、ぎゅっと組み合わせた。
それはリーズリースの予想していた通りの反応だった。ウィルの態度に気付かないふりをして、リーズリースは手紙の内容を伝えた。
「皆、元気に暮らしているそうです。旧領では異影も現れず、平穏そのものだと」
「…………」
「いい機会ですし、この任務が終わったら、休暇を取って居留地へ行ってみませんか? 私も任務ばかりで、しばらく顔を見せていなかったので」
重い沈黙が辺りを包んだ。焚き火の爆ぜる音だけが聞こえる。ウィルは何かを答えなければならないのにそれができないように、うつむいて両手を握り込んでいた。
「……どうして、何も話してくれないのですか?」
リーズリースはやっと、想いの欠片を吐き出した。
「居留地を旅立ってからのこと。どこにいたのか、何をしていたのか。聖都での出来事。どうして話してくれないのですか?」
「……何も出来なかったんです。姫様にお話しできるようなことは何も」
ようやく、ウィルは絞り出すようにこたえた。
「立派な召喚士になろうと旅に出て、やっと召喚院に入って、それなのにすぐに落ちこぼれてしまって、新しい眷属とも契約できなくて……。恥ずかしくて、申し訳なくて、居留地にはとても帰ることができなくて……」
ウィルの震える声を聞きながら、リーズリースは自分自身を酷薄に見つめるもう一人の自分に気付いた。
本当はとっくにわかっていたはずだ。
どうしてウィルが帰ってこないのか。どうして何年ものあいだ音信不通だったのか。
答えは最初から見えていたはずだった。それなのに見えないふりをした。
空白が空白である限り、私は一人ではなかった。あの神童はどこかできっと、あの頃と同じように、飄々と同じ道を歩んでいる。そう思っていられた。
ウィルが帰ってくる。そう知らされたときの動揺は、その幻想が崩れ去ろうとしているのに気付いたからではないのか。
私はずっと恐れていたのだ。
ウィルが再び現れることを。
ウィルがもう、諦めてしまった。それを確かめるのを。
「そんなとき妖精たちと出会ったんです。それからは少しでも皆様のお役に立てるよう、この子たちとお手伝いをしようと思ったんです。僕の力でも、こんな召喚術でも、誰かの何かの役に立てるのなら、僕はそれだけで……」
嗚咽混じりの声。ぽつり、ぽつり、水滴が落ちるようにウィルの独白が続く。
リーズリースの胸を罪悪感が押し潰した。
整備班の人たちに囲まれ、笑顔を浮かべるウィル。彼はちゃんと新しい生活を見つけていた。他の居留地の人たちと同じように、新しい場で、新しい生を受け入れ、また笑えるようになっていた。
繕い続けていた幻想に限界が訪れていた。
ウィルにあの山を越えさせるわけにはいかない。ウィルがレコンキスタに参加すればどうなるか、パディントンに言われなくたってわかる。
違う。もう、手遅れだったのだ。ウィルが操縦席で苦悶の表情を浮かべる前に、メイヤンとの衝突事故に遭う前に、私は終わらせていなくてはならなかったのだ。それなのに、リードマンの命令を理由にして、幻想に囚われ続けた。
それも、もう終わりにしなくては。でも……。
最後の問いがリーズリースの口から滑り落ちた。
「あなたが……」
最後にこれだけは教えて欲しかった。
あなたが私を見放したのはいつだったのですか?
それはあのとき、居留地を去ったそのときだったのではないのですか?
◆
「あなたが……あなたが恥じることなど何一つありません」
それまで話を聞いていたリーズリースが口を開いた。
「いままで生きながらえて、こうやって再会できたんです。これ以上、喜ばしいことなどありません」
そう言って、ウィルへと微笑みかけた。
「よく、話してくれましたね。ありがとう」
「姫様……」
月が傾きはじめていた。リーズリースは立ち上がり、ウィルに告げた。
「明朝、試験機部隊はメレナ高地に進攻することになっています。ですが、あなたはここに残ってください」
「……え?」
「第三師団にはあなたを後方支援に回してもらえるよう頼んでみます。『召喚機の整備不良で長距離移動は無理だ』と。あなたにはここで支援部隊のお手伝いをお願いします」
「で、ですが……」
「命令違反など気にしなくてかまいません。リードマンの目もここまでは届かないでしょうし。それにあんな欠陥ドールを送り出す教授がいけないんですから」
リーズリースは笑った。
「そろそろ戻ります。交代が来たらきちんと休んでください」
「おやすみなさいませ、姫様」
「おやすみなさい、ウィル」
ウィルは丘を上がっていくリーズリースを笑顔で見送った。
景色が滲んだ。ぽたり、ぽたり、温かい水滴がこぼれ落ちていくのを感じた。
リーズリースの笑顔を見たとき、ウィルは心が切り刻まれたような気がした。
あの瞬間、リーズリースは諦めたのだ。
ウィルに重ねていた、騎士の幻影を捨てたのだ。淡いまま抱かれていた期待は完全に消え去り、はっきりと失望に変わったのだ。
これで良かったんだ。
それはウィルが望んだことだった。
グレンクラスのことなど諦めて、生涯を平穏のうちに生きて欲しかった。彼女は強い召喚士になった。召喚院にいさえすれば、その巨大な戦力の中にいさえすれば、彼女は『異海』の脅威からきっと守られるだろう。そして、故郷のことなど何もかも忘れて、相応な幸せを見つけて欲しかった。それを祈ることだけが今のウィルにできることだった。
それなのに、たまらなく苦しい。
煮えた糖蜜が肺に満ちたように、熱い苦しみが溢れ出し、涙が止めどなく流れてくる。再び彼女を裏切ったことが、失望させたことが、たまらなく悲しい。それは自分でも予想していなかったほどの痛みだった。
ウィルは嗚咽を噛み殺しながら、両手を組み合わせ、その上に額を重ねた。
神様。これは罰なのですか? わずかに彼女の傍らにいることが、それほどの罪なのですか。それは僕の望んだことではありません。僕はただ、導きのままにここへ流れ着いただけなのです。それがいけないというのなら、僕はすぐにでも彼女の傍から消え去ります。
だから、お願いします。
どうか、あの人をお守りください。
これまでのように、ご加護をお与えください。
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