五、『白鳥の騎士』・4

    4


「まさか……そんな!」

 エルザは声を上げていた。

 作戦の全容を知らされていなかった驚き、そのためではなかった。

 とても耐えられなかったのだ。自分がサルトリオの地位を剥奪するためにやってきた、そうかつての恩師に思われることが。

 しかし、サルトリオはエルザに注意さえ向けていなかった。

 アンティオペーとサルトリオの視線が交錯していた。感情は体の奥に消え去り、二人からは何の表情も読み取れなくなっていた。

「事態が落ち着いたあと、正式な決定が為される予定だ。お前が地位を剥奪された後、ここはバローク召喚院の管理下に置かれることになり、我々が代理人として運営を行う。そして、天涯回廊を掌握した者が新たな佰候召喚師を指名することになっている」

「……とうとうバローク召喚院は野心を隠そうともしなくなったのですね。そして、あなたもその走狗に成り果てた」

「……私がここに来たのはお前に引導を渡すためだ」

 サルトリオが言い、アンティオペーが応えた。

「帝国領から異影が現れた時点で、お前は向こうに異変が起こった可能性に気付いていたはずだ。これだけの異影顕在率の上昇をもたらすのは『異海』の活性化以外に考えられない。そして、異影がこちらへ溢れているということはエディ・ジャマールが制圧に失敗したことを意味する。にもかかわらず、お前はそれを放置した」

「協定を破り、帝国領へ侵入しろと?」

「そうだ」 

「なんのために召喚院協定が存在すると思っているのです? もはや召喚士は『異海』以上の脅威に他ならないからです。もし佰候召喚師が法を軽んじれば、どれだけの危機をもたらすか、あなたにわからないはずがないでしょう」

「では協定を盾にジャマール領の人間どもを見捨てたのだな?」

「詭弁です。もしジャマール領に何かあったというのなら我々よりも先に帝国召喚院が動くはず。必要があればこちらに救援要請を出すこともできた。それがない以上、バローク召喚院の行動は、ただ領土欲を剥き出しにしてるに過ぎない」

「だからお前に佰候召喚師の資格はないというのだ」

 アンティオペーの声に、より一層の冷たさが加わった。

「貴様には力が足りない。権力が、財力が、掌握力がない。領地を安堵し、領民を養い、新たな戦いを始めるだけの覚悟がない。我々は慈善で異影と戦っているんじゃない。独立した領主だ。戦力を出すにも金はかかる。召喚士を整えるのにも、召喚機を調達するのにもそれだけ金がかかる。それを賄うのは領地の経営だ。お前はそこから逃げた」

「それは人々の犠牲の上に成り立っていると知っているはずです。異影に怯えながら農地を開拓する者、命を危険に晒しながら地底で晶石を採掘する者。戦力の増強は彼らへの搾取をさらに進めることになる」

「必要な戦力が揃えられないのなら民草が異影に殺されるだけだ」

「人々が生み出したものが異影との戦いに当てられるのならいい。ですが今、行われているのは王侯や佰候召喚師を富ませるための営みではありませんか。召喚院は各勢力の欲望を駆り立て、競わせている」

「それが召喚院のやり方だ。強き者にはそれに応じた責務があり、それを支える特権がある。それのどこが悪い」

 エルザは動けないままだった。二人の間に静かな魔力の渦が巻き、エルザを阻んでいるようだった。

「この事態を招いたのは全てお前の責任だ。お前が他人任せなどせず、この地を支配し、異影どもが湧く余地を残さなければ良かったのだ。お前が調停戦から逃げなければ……いや、帝国召喚院に付け入る隙を与えなければ良かったのだ。五年前のこともそうだ。第十二師団の正召喚士が死んだのもお前の甘さが招いたことではないのか?」

「それは違います!」

 反射的にエルザは叫んでいた。

「マルコが行方不明になったのは師団長ロードのせいでは……! ……いえ、マルコ・ストラーリ正召喚士はサルトリオ師団長の指示を無視し、独断でレコンキスタを遂行しようとしたのです。その最中、異影に……」

「私や奴にとって、そんなものは言い訳にもならん」

 顎をしゃくり、アンティオペーは吐き捨てるように言った。

「佰候召喚師に求められるものは結果だ。結果が全てだ。それはサルトリオ自身がよくわかっていることなのだからな」

 二人の視線がサルトリオへ向けられた。

 そのときの彼の表情を何と表現していいのか、エルザは知らなかった。カンテラの揺らめきの中、その視線は自分たちを見ているのではなく、かつて配下だった召喚士たちに向けられているようだった。

 やがて、

「……正式な決定が下されるまで、あなたの指示には従えません。私は私の為すべきことをするまでです」

「好きにしろ」

 サルトリオは卓の脇を抜け、天幕の出口に向かった。そこでようやくエルザに目を留め、言った。

「あなたが罪の意識を持つことはありません。あなたはあなたの現在の役目を全うすればよいのです」

「ロード……」

 苦い微笑を浮かべ、天幕を出て行くサルトリオ。出口から目を離せないでいるエルザにアンティオペーが言った。

「よく覚えておけ。召喚士は選ばれた存在だ。そしてその力に応じた責務を負う。それが果たせぬ者を召喚士とは呼ばない」

「…………」

「お前にも目指すものがあるのなら、それを忘れるな」

「…………」

 エルザは黙ったまま頷いた。天幕の中、カンテラの光が力なく揺れていた


    ◆


 その当時。

 エルザは正召喚士に昇格したばかりで、この天涯回廊が初任地だった。昇格の喜びと実戦の緊張。自分のことで手一杯で、他人に注意を払う余裕はなかった。

 それから一年間のレコンキスタ。

 任務に慣れるにつれ、第十二師団を覆っていた不協和音をはっきり感じ取るようになっていた。サルトリオと正召喚士たちの間にある不穏な空気。それはあの調停戦を境に爆発的に膨らんでいったのだ。


    ◆


「どうして手をこまねいているのです! このままでは帝国領に先を越されます!」

「今、高地に踏み込むのは危険だからです。側面の精霊塔は設置したばかり。いま突出すれば何が起こるかわかりません」

「ですが、今、高地を押さえなければ回廊先端への進入路が断たれてしまいます!」

「それならばそれで構わないではありませんか。私たちの目的は異影の脅威から人々を守ることです」

「バロークでの我々の立場はどうなるんです! 帝国召喚院に遅れをとったとなれば、ただでさえ調停戦から逃げたと蔑まれている第十二師団がどれだけ冷遇されるか……!」

「マルコ。召喚士の役目を忘れてはなりません。人々の安寧を守ること。それ以外のことは瑣末なものでしかない」

「…………!」


    ◆


 マルコ・ストラーリはサルトリオの右腕であり、同時に反サルトリオの筆頭だった。レコンキスタの強行を訴えていたのも彼だった。噂では、執行部と個人的な繋がりがあり、彼の行動はその指示に従ったものであったと囁かれていた。

 そして、あの事件が起こった。

 マルコは准召喚士たちを連れメレナ高地へと向かい、行方不明となった。三日間の捜索ののち、見つかったのは彼の乗っていた召喚機の残骸だけだった。

 数日後、サーカムでマルコたちの葬儀が行われた。

 赤い石作りの教会、窓から差し込む赤い光。遺体のない葬儀を取り仕切ったサルトリオの姿が、今でもエルザの記憶に焼き付いている。


    ◆


 以後、エミリオ・サルトリオは完全なる隠遁者となった。

 彼は突如として、天涯回廊以外のあらゆる領地を聖皇庁へ寄進した。新たなレコンキスタを行うことはなくなった。『異海』に追われた難民たちをこれまで以上に受け入れた。税も最低限の戦力維持に必要なだけと決め、配下の召喚士たちを解雇した。

 第十二師団がたった一人の軍隊となったのはそのときだった。

 領地に現れる異影と戦うのはサルトリオただ一人。一時期、『異海』の活動が活発になったときは、一週間、不眠不休で戦い続けたこともあったという。

 全ては、自らの理想をこの地上に築きあげるために。


    ◆


 市庁舎の回廊を通りかかると、中庭に鎮座した召喚機の操縦席にゆりかごのように体を預けているサルトリオが見えた。

 眠りともいえない眠りののち、再び領内の哨戒へと飛び立つのだろう。

 エルザは密かに祈りを捧げた。

 どうかこの楽園に、あの人の理想郷に平穏を与えてくださいますように。


    ◆


 陽が暮れ、サーカムの街に明かりが灯り始めた。

 リーズリースは郊外の丘陵から街を見下ろしていた。

 煙の上がる建物。その狭間、あちこちに天幕が設置されていた。あれが南方からからの難民なのだろう。

 その光景に見覚えがあった。

 グレンクラスから脱出し、西大陸へたどり着いたばかりのあの頃。あてもなく各地を彷徨った日々。リーズリースは失われた故郷と、いま生存者たちの暮らす居留地を思い出した。皆、元気に暮らしているだろうか。

「はーい! ただいま参ります!」

 水場からウィルの声が聞こえてきた。

 丘陵では野営の用意が進められていた。ウィルはまた、余計な仕事を引き受けたのだろうか。あちこちに焚かれた篝火の間を、小妖精たちと一緒に立ち働いている。

「おら、ぼーっとしてんじゃねーわよ」

 振り返ると、アイシャが天幕を手に目を吊り上げていた。

「あたしはあんたの従者じゃないんだからね。手伝わないんだったら外で寝てもらうから」

「……わかってます」

 リーズリースはもう一度だけ、西の空を見やった。

 月明かりと星空を背に、浮かび上がる高地のシルエット。

 そして、闇よりも暗い『異海』の黒。

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