二、『召喚機』・1

 早朝、大聖堂にはまだ誰もいなかった。

 ウィルは聖都にいたときのように、信者席の後ろ、すみっこの床に跪くと、両手を組んで祈りを捧げた。

 神様、いつも見守ってくださり感謝いたします。今日もどうか、ご加護をお授けください。

 ぱっ、と足元に淡い光が散った。

 ウィルはそちらに笑顔を向け、囁いた。

「みんなおはよう。今日も一日、一生懸命働きましょう」


    1


 雪が降っていたのだと思う。

 記憶の中の彼は、真っ白な粉雪に紛れていた。

「やだ! いっちゃやだ!」

 リーズリースは彼を引き留めようとするが、誰かに抱き留められて振りほどくことができなかった。それは居留地の誰か、おそらく、叔母だったのだろう。

 彼は旅装だった。

 向こうには馬車が停まっていた。御者と、小綺麗な格好の大人がこちらを見つめていた。それは憶えている。彼らがどんな顔をしていたのか、思い出せない。

「やだ! やだ! 置いていかないで!」

 喉が灼けるほど叫ぶリーズリースに、彼は言った。

「オレは行かなくちゃならない。もっと強くなるために。佰候召喚師ロード・クラスになってグレンクラスを取り戻すために」

「じゃあ、あたしも一緒に行く! 一緒に連れてって!」

 旅姿のウィルは膝を着き、こちらの顔を覗き込んできた。それから持っていた麻布の包みを開く。その中には〈光剣〉があった。

「これを預ける。お前はここでみんなを守るんだ。オレが戻るまで、みんなを頼む」

「こんなものいらない! グレンクラスなんかどうだっていい! 一緒にいて!」

「リーズリース、そんなこと言うなよ。お前はグレンクラスの次の王様だろ?」

 彼の顔が滲んでよく見えない。でもきっと、あのときと同じ寂しげな笑みを浮かべていたのだろう。

「約束したじゃないか。オレたちが、騎士団の生き残りが、みんなを守っていくんだって。もっと強くなって、もう誰も『異海』の犠牲になんかさせないって」

「だって……! だって……!」

「泣かないでくれ。ほんの少し、旅に出るだけじゃないか」

 ウィルの硬い手が、リーズリースの濡れた頬に触れた。涙を拭うと、冷たくなったリーズリースの右手を両手で包み込んだ。

「オレはお前の一番の騎士だ。離れていたって、魂はいつも一緒にいる。だから待っていてくれ。必ず、世界一の召喚士になって帰ってくるから」

 雪を溶かすような、ウィルの熱い手。

 滲んだ白い世界で、リーズリースはただ、頷くことしかできなかった。


    ◆


 リーズリースは浅い眠りから醒め、一瞬、自分がどこにいるのかわからず、恐慌を起こしかけた。

 汗ばんだシャツから伝わる冷たさ。身を強ばらせ、周囲を凝視する。暖かな朝日に照らし出された質素な室内。正召喚士に与えられる個室。バローク召喚院、女子宿舎。

 そうだ。ここは戦場ではない。バロークへ帰ってきたのだ。

 ゆっくり、記憶を呼び覚ましていく。

 遠征先での任務。異影との戦闘。召喚院への帰還。そして……。

 ウィル。彼がここにいる。

 そこに行き着いた瞬間、体中に血が巡り、一気に覚醒した。

 昨夜は結局、門限までにあいつを見つけることはできなかった。ベッドに入っても眠れず、朝一番で男子宿舎に押しかけようと考えているうちに、いつものように浅い眠りと悪夢に落ち込んでしまっていた。

 リーズリースはベッドから抜け出し、身支度を始めた。

 この七年間のこと。今日こそ、はっきりと確かめなくては。


    ◆


 朝の宿舎。

 廊下には始業前の正・準召喚士が行き交っている。が、その誰も声を掛けてはこない。リーズリースに奇異の目を向けてくるだけだ。

 いつものことだった。

 リーズリースたちは一年の半分以上を遠征先で過ごすため、召喚院にいることのほうが珍しい。

 試験機部隊。使い捨ての傭兵部隊。失地から流れ着いた召喚士たちの部隊。世俗勢力の後ろ盾もない。ただ、異影との戦いに送り出される存在。召喚院の顔となる正規師団とは扱いが全く違う。

 どこからか、くすくす、と笑い声が聞こえてきた。

 顔を向けると、二人連れの準召喚士は慌てて目を伏せ、通り過ぎていった。

 リーズリースは毅然と、前を見つめて歩いた。

 笑いたければ笑えばいい。亡国の姫。傭兵部隊の狂戦士。何と呼ばれようが、私が騎士団の誇りを失うことはない……。

「姫さまー!」

 大食堂の前を通りかかったところで、リーズリースは硬直した。

 食堂の入り口近く、そこで昨日の『少女』、ウィルが満面の笑みを浮かべ、手を振っていた。スカート姿ではなかった。かわりにエプロン姿でフライパンを手にしており、長テーブルの一席には清潔なクロスが敷いてあり、その上の皿には山盛りのパンケーキが乗っていた。

「姫様、おはようございます! 朝食の用意ができております!」

 ウィルが大声を出すたびに、くすくす、含み笑いの波が食堂に広がっていった。

 リーズリースは顔を強ばらせ、早足でテーブルへと向かった。

「ここで何をしているんですか……!」

「姫様の朝食の用意です」

「ここは女子宿舎でしょう!?」

「そこを無理を言って特別に中に入れて頂きました!」

「余計なことをしないでください……!」

 リーズリースはなるべく声を潜めようと思ったが、無理だった。大食堂に自分たちの声が響き渡り、笑い声がさざ波のように広がっていく。

(え、あの子、姫様って呼ばれてなかった?)

(お姫様だっていう噂の本当だったの?)

(あのワガママな感じ、本物って感じだわ)

(あー、あの子、困ってるじゃない。かわいそー)

(せっかく朝一番から待ってたのに……)

 震える拳から黒い霧のような魔力が立ち上っているのに気づき、リーズリースは気持ちを落ち着けようとした。これ以上、興奮すると勝手に〈デュラハン〉が出てきそうだ。

 ここは穏便に済ませ、さっさとここから出て行かなくては。

「さ、どうぞ。……あ!」

 椅子を引いたウィルが、リーズリースのコートに目を留めた。

「姫様。お召し物にほつれがあるようなので、お食事の間にお繕いさせていただきますね」

 ウィルは手荷物から裁縫道具を取り出すと、にっこりと両手を差し伸べてきた。ウィルは渋面になって答えた。

「……結構です。それからその『姫様』というのもやめてください」

「……え?」

「ここでは私は一召喚士です。姫でもなんでもありません」

 ウィルが目を瞬かせる。

「では、何とお呼びすれば……?」

「普通に呼べばいいでしょう?」

「グレンクラス王ヴィクター様御息女、リーズリース・ディ・グレンクラス様に恐れながら不肖ウィル・O・レイリーが拝謁いたします!」

「それのどこが普通なんですか!?」

 声を荒らげたリーズリースに、再び食堂中の視線が刺さる。リーズリースは咳払いした。

「以前のように『リーズリース』と呼んでください!」

「で、でも、そんな僕みたいなものがそんな畏れ多いことを……」

「…………!」

 リーズリースが睨みつけると、ウィルはもじもじしてから、おそるおそる言った。

「……あの、リーズリース?」

「何でしょうか、O・レイリー正召喚士」

「あ、あの! 僕はけっして呼び捨てにしたいわけではなくて、省略されている敬称に込められた行間をですね……!」

「うるさい!」

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