一、『黒騎士』・4

    4


 ウィリアム・ファレル。

 それは本当の名前じゃない。本当の名前はもっと変な名前だ。

 ウィルは、まだリーズリースが小さかったころ、父がどこからか連れてきた子だ。

 父は副団長のキーン・ファレルに命じて、ウィルをファレル家の養子にした。召喚士の素質があるからと言って。

 実際、術は自分よりずっと上手だった。リーズリースがまだ召喚術を使えないうちから、ウィルは眷属との契約を済ませ、父の騎士団に参加するまでになっていた。


    ◆


 あいつなんか!

 リーズリースは泣きながら、森を歩いていた。

 入ってはいけない森。『異海』の近くの森。

 泣きながらリーズリースは進む。みんな大嫌いだった。ウィルも、ウィルばかり熱心に稽古をつける父親も、言うことを聞かない眷属も。

 みんなが噂してるのも知っている。

 ウィルをファレル家の養子にしたのも、いずれ、グレンクラスの王家に迎えるための準備なのだと。

 父はウィルを騎士団の後継者にするつもりなのだ。私に術の素質がないから、ウィルを連れてきたのだ。

 好きにすればいい。こんなところ、どうなってもいい。

 あたしかあいつか、どちらかが消えてしまえばいい。ただそれだけしか考えられなかった。

 あの異影が現れるまでは。


    ◆


 突如現れた黒い塊。リーズリースを丸呑みにできそうな巨大な体。

 形さえ曖昧。知られている眷属で例えるなら〈ケルベロス〉のように見えた。ただ、首が無数にあった。まるで触手のように、首が蠢いていた。

 恐怖は、自暴自棄だった気持ちを一瞬で吹き飛ばした。

『異海』とそれが生み出す異影がどれほど恐ろしいか、父から繰り返し聞かされていた。国境を覆う黒い空間から生み出される怪物たち。異影は領民を襲い、グレンクラス騎士団にも犠牲者が出ている。けっして『異海』には近づくな。

 繰り返し、繰り返し、何度も聞かされた。異影を見たこともないリーズリースが知ったつもりになれるくらいに。

 でも、自分が想像していた異影は、本物の異影じゃなかった。

 目の前に現れたの本物の異影は、本物の死だった。


    ◆


 立ちすくむリーズリースに、異影は焦らすように近づいてくる。リーズリースは震える手で、父から渡された護符を握りしめた。

 魔力を集中し、門を開く。

召喚コール……!」

 オスカーは来てくれなかった。訓練の調子が悪いときのように、魔力はあちこちに散らばってしまう。

「コール・〈デュラハン〉……!」

 呪文の絶叫が森に響く。それでも〈デュラハン〉は現れない。静かに、異影は一歩ずつ、距離を詰めてくる。

 リーズリースは踵を返し、駆けだした。

 落ち葉を踏みしめる音。森の出口を目がけ、まっすぐ走る。

 異影は? 足音は聞こえない。もしかしたら、追いかけてこない?

 そう思った瞬間、リーズリースはバランスを崩して地面に転がった。喘ぐように手を振り回し、顔を上げる。

 異影は目の前にいた。

 足に、細い首が絡みついていた。

 触手の網が、リーズリースの視界を覆っていた。暗い、影の塊。その奥にさらに暗い空間があった。異影が伸び上がり、こちらに迫り……。

「〈光剣〉召喚コール・クラウソラス

 強い光。熱い空気が顔に押し寄せ、リーズリースは目をつむった。

「こんなところにいたのか、リーズリース」

 その声に、リーズリースは薄く目を開ける。

 最初に目に入ったのは光の剣だった。

 異影の体よりも長大な剣が、リーズリースと異影の間を遮っていた。

 そして、少年の背中が見えた。

 右手に〈光剣クラウソラス〉を携え、巨大な異影と対峙していた。小さな背中のはずが、化物よりも、一回り大きく見えた。

「そこを動くなよ。火傷しても知らないぞ」

 異影の体を、光が削った。

 薄暗い森の中、〈光剣〉が乱舞する。光の檻が異影を閉じ込め、反撃も逃走も許さない。異影は徐々に小さくなっていく。

 異影が最後の攻撃に出た。断末魔を上げながら、少年の上に覆い被さる。

「貫け」

 異影の頭上から、光の帯が降り注ぐ。

 異影は二つに切り裂かれた。肉体が溶け出す。泥水のように地面に垂れ落ち、空気に溶けてなくなっていった。

「大丈夫だったか? リーズリース」

 ウィルは自信に満ちた笑みを浮かべ、リーズリースの体を抱き上げた。


    ◆


「いい加減、泣き止めよ。異影のことは陛下には黙っておいてやるから」

「うるさい……!」

 ウィルの背中におぶさりながら、リーズリースは泣きじゃくっていた。

 異影が怖かったからじゃない。嫌いな奴に助けられてしまったことにむかついて泣いていたのだ。

「ったく、助けてやったのにこの態度だもんな」

「あたしはまだ負けてなかった! 助けなんかいらなかった!」

「あのなあ。異影はお前と遊んでるわけじゃないんだぞ。オレが見つけなかったら今頃、死んでたかもしれないのに」

 ウィルは大人びた口調で言った。

 ウィルは天才と呼ばれていた。

 リーズリースは九歳、ウィルは十歳。年上なのは少しだけなのに、ウィルはすでにグレンクラス騎士団の一員だった。大人たちに交じりながら、大人を凌駕する召喚術を体得していた。この歳で〈光剣〉を自在に操り、多くの異影を退治していた。

「臆病者のオスカーが来てくれなかったのがいけないんだもん!」

「お前が召喚に失敗したから顕在化できなかったんだろ? グレンクラス最強の騎士霊に対して失礼だぞ」

「だったらこれもあげる!」

 涙はいっこうに収まらなかった。リーズリースは胸元から〈デュラハン〉の護符を引き出し、ウィルに見えるように差しだした。

「あたしはどうせ召喚士にはなれない! どうせオスカーも王国も騎士団もみんな、お父様はウィルにあげちゃうつもりなんだから……!」

「そんなこと考えて家出したのか」

 ウィルが嘆息したのが背中越しにわかった。

「……心配しなくてもいい。成人の儀式が終わったらオレはここを出て行く」

「……え?」

 思わず顔を覗き込んだ。

 夕陽に照らされたウィルの横顔。彼は海のほうを見ながら、寂しげな笑みを浮かべていた。

「何で? どこに行くの?」

「団長の許しが出たら、オレは大陸に渡って召喚院の試験を受ける」

 リーズリースも召喚院のことは知っていた。

 グレンクラス騎士団と同じように、大陸の人々を守っている組織。そこには最先端? の召喚術があり、召喚機? とかいうグレンクラスにはない武器があるらしい。

 そして、召喚院はとても遠い場所にある。島を出て、海峡を渡り、さらに何百キロも内地に入った場所にある。

 急に冷たい風が吹いた。

「騎士団はどうするの?」

「オレは世界一の召喚士になる」

 そう言った。気負いも、恥じらいもない。自分であれば「それ」になることが自然なことのように。リーズリースも心のどこかでそう思った。

「オレは世界一の召喚士になりたいんだ。誰にも負けない。どんな異影にも負けない。その力が欲しいんだ」

 ウィルの顔は自分よりずっと大人びているように見えた。

「俺が知らない召喚術がある。ここにいたら最新の召喚術には触れることもできない。聖都、東方王朝、帝国領。あらゆる場所の召喚院であらゆる術を修める。そして世界一の召喚士になったらここに、騎士団に帰ってくる」

「……どれくらい? いつまでかかるの?」

「さあな、世界は広いから」

 ウィルは何を見ているのだろうか。世界。あまりに広すぎて、リーズリースは思考が追いつかない。

 彼の横顔を見ていると、不意にいつもの生意気な笑顔に戻った。

「まあ、そのときになってもお前が落ちこぼれのままだったら騎士団をもらってやってもいいけどな」

「だからなんでそう偉そうなの!?」

 ウィルが笑い、リーズリースはそっぽを向いた。


    ◆


 数年後。

 彼は約束通りに旅立っていった。

『異海』が故郷を飲み込んだあと。リーズリースを居留地へ残して。

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