12. 一番うれしい贈り物


 暖炉に掛けられた鍋からは、スパイスが効いた赤ワインの甘い香りがする。それはあの日、粉雪の降るマーケットで二人で飲んだグリューワインを思い出させた。彼の温かい手の温もりも。


「お兄様がそんなことを? 私のおかげで……」


「はい。お伝えするのが遅くなってしまって、本当に申し訳ありません」


 私の話を聞き終わった王妃様は、椅子から立ち上がるとグリューワインの鍋をそっとかき混ぜた。後ろ姿なので顔は見えない。けれど、泣くのをこらえているように、声が少し震えていた。


「これはゾフィー様のお国のワインでしょう? よかったら飲んでいって。お兄様もお好きだったわ」


「ありがとうございます。このお香も私の国のものですね」


 暖炉の上の大理石の飾り棚で、口からほんのりと香を漂わせているのは、私の国の伝統木工細工。中に火をつけた三角のお香をセットすると、本当にパイプを吸っているように、丸い口から煙を吐き出す。私が選んだ、あのパイプ人形だった。


「そうよ。お兄様のお気に入りの『はちみつのお香』。これが一番いい香りなんですって。毎年、この時期に送ってくださっていたの。聖誕祭のプレゼントね。今年はなかったけれど」


「気が付きませんでしたわ。申し訳ありません、すぐに国から取り寄せて……」


 私がそういうと、王妃様は優しく小さく微笑んだ。その顔があまりに悲しくて、私は涙が出そうになった。血がつながっていないはずなのに、なぜかその仕草はニコライ様を思い出させた。


 王妃様はブーツ型のマグカップに入れたグリューワインを私に手渡し、それを持つ私の手を両手でそのままそっと包んだ。


「ありがとう。でも大丈夫よ。お香は去年いただいた分がまだまだあるし、お兄様からのプレゼントなら、もう届いているから」


「そうなのですか?」


「ええ。お兄様はね、いつも私が一番ほしいものをくださるの。今年のプレゼントはゾフィー様よ。あなたを連れてきてくれた」


 そう言うと、耐えきれなくなったように、王妃様は両手で顔を覆った。そして、嗚咽を漏らしながら、小さな声でこう言った。


「お兄様は幸せだったのね。教えてくれてありがとう。今までで一番うれしい贈り物だわ。お兄様がくれた……」


 その姿を見て、私は何もかもを理解した。そうだったのか。そうだったんだ。


 ニコライ様は、最愛の人への最後のプレゼントを私に託した。彼が誰よりも愛した、優しい彼女の心を救う言葉。それを伝えてほしいと。


「ニコライ様は、照れ屋で不器用な方でしたわ。きっと、王妃様に面と向かって感謝の気持ちを言うのが、恥ずかしかったんでしょうね」


 震える王妃様の小さな肩をさすりながら、私はニコライ様のことを考えていた。


 そう、あの人は素直じゃなくて、いつも微妙に誤魔化した言い方をした。決して我儘を口にはしなかった。たぶん王妃様にも、そして私にも……。そうだったろうか。本当に?


 王妃様が落ち着いて泣き止んだ後、私たちはグリューワインを飲みながら、ゆっくりとした時間を過ごした。それは心がぽかぽかと温まる、とても幸せな時間だった。


「ゾフィー様は、これからどうなさるの? 今までと変わらずに、アレクセイの後見として後宮に留まってくださる?」


「いいえ、アレクセイ陛下には皇后ナタリア様がおられますし、私は宮殿を去ろうと思っております」


 南に位置する半島から、枢機卿の公女が皇后として輿入れした。アレクセイ様とは相思相愛でとても仲のいい夫婦だった。きっとすぐに家族が増え、後宮は賑やかになることだろう。


「そう、残念だわ。でも、まだお若いのだし、お国に戻ればいいご縁も……」


「いえ、国に帰るつもりはありません。帝国に留まりますわ。春にはニコライ様の墓所がある土地の修道院に入って、そのご冥福を祈って暮らそうと思っています」


 ニコライ様は首都にある皇室の墓所には入らず、義父やアリシア様のご母堂様が眠る領地の墓所を希望した。自分には皇家の血は流れていないので、その身にふさわしい場所に葬られたいと。


 アレクセイ様は反対したけれど、結局はその願いは聞き入れられた。ずっと無理をして皇帝の役目を果たしたニコライ様に、もう頑張らなくてもいい場所でゆっくり休ませてあげたい。私がそう言うと、アレクセイ様は長いこと泣いていた。


「お兄様は、あなたには幸せになってもらいたかったはずよ」


「ええ。ですから、そうしようと思うんです」


「ゾフィー様……」


 心配そうに私を見る王妃様の耳には、ニコライ様が形見に遺したピアスが光っていた。王妃様の目の色の魔除け。ニコライ様が肌身離さずに身に付けていた宝物。


 ニコライ様は、このピアスを共には持っていかなかった。アリシア様への気持ちは、ここに置いていった。


 彼があのピアスを外したのは、私が知る限り一度だけ。私に生涯をかけて自分を信じてほしいと言ってくれた、あのときだけだった。

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