10. はちみつの香り
それから十年、私たちは本当の親子のように、一緒に多くの時を過ごした。嬉しくて楽しくて幸せな時間をたくさん共有していった。
いくつもの季節が廻り、アレクセイ様は立派に成長して、成人を迎えるまであと少しとなった。しかし、ジルベルト先生の努力も虚しく、ニコライ様の病気の治療法はいつまでも見つからないままだった。
病魔は確実に彼を蝕み、残された時間がそう長くないことは分かっていた。だんだんと体調が優れない時間が増え、夜中にうなされることも出てきていた。
「陛下? 苦しいのですか?」
「ああ。すまないが、薬を飲ませてくれないか」
ジルベルト先生から送られてくる薬はよく効いて、すぐに痛みの発作は収まる。それでも、病が治ったわけではなく、薬で痛みを感じないようにしているだけ。その薬の量も使用する頻度も徐々に増え、病状が進んでいるのは明らかだった。
「陛下、お医者様を呼びましょう。私だけでは、いざと言うときに不安です」
医学の心得がない私では、応急処置しかできない。私が眠っているときに何かあったらと思うと、とても怖かった。もしも、ニコライ様が……。
「まだ、大丈夫だ。春にはアレクセイが成人する。戴冠式が終わったら、きちんと治療に専念するよ」
「でも……」
「頼むよ。監視付きの病棟なんかに入れられたら、君を好きなだけ抱けないだろう。恋しくて死んでしまう」
「死ぬなんて! 言っていいことと、悪いことがあります。本気で怒りますよっ」
私が涙目でそう言うと、ニコライ様は優しく小さく微笑んだ。その顔があまりに儚くて美しくて、私は悲しくて涙が溢れ出しそうになった。
「ごめんごめん。冗談だよ。だが、君がそばにいてくれないと、寂しいのは本当だ。家族以外は面会謝絶なんて、そんなことになったら困るよ。それとも皇后に、本当の家族になってくれる?」
「それとこれとは、話が違います。皇后にならなくても、私がきちんと看病しますから!」
以前にも増して、ニコライ様は私に皇后になるように頼むようになった。たぶん、自分の亡き後、残される私の身を案じてのことだろう。
その気持ちが分かるだけに、余計に彼の願いを聞き届けることはできなかった。そんなことで安心なんてしてほしくない。私のことが心配ならば、生きるしかないと思ってほしかった。
「とにかく、近いうちにジルベルト先生に診てもらいますからね!」
「ゾフィーは、言い出したら聞かないからな」
「分かればいいんです。すぐに手配しますわ」
この十年、私は毎日のようにニコライ様の症状を記録し、それを定期的にジルベルト先生に送っていた。目立たないよう宛名の筆跡を変え、ラブレターのように愛の文句をあちこちにちりばめて。
「ジルベルトに会うのは、君の故郷でいいかな? もうずいぶん帰っていないだろう。ちょうど聖誕祭の時期だ。マーケットで甥や姪たちのプレゼントを選ぶことにしよう」
私の実家は既に断絶し、故郷は遠戚の手に渡っていた。私たちはお忍びで街の宿に泊まり、ジルベルト先生に会うことになった。先生にプレゼントを持ち帰ってもらうために、日中は二人でマーケットを見て回った。
「これは昔、アリシアにあげたパイプ人形だね。君が選んでくれた」
ずいぶんと昔のことなのに、ニコライ様はちゃんと覚えていてくれた。それが嬉しくて、私はその人形を手に取って、過ぎし日の思い出を懐かしむ。
「そうでしたわね。今も使ってくださっているのかしら」
「そう思うよ。いつも聖誕祭のプレゼントには、この香がほしいって言うからね」
ニコライ様は小さな紙袋に入った、円錐型の香を嬉しそうの眺めている。彼が選んだのは、私が好きで焚いている『はちみつの香り』だった。
「このお香?」
「うん。毎年、店から送ってもらっていたんだが、今年は自分で買えるな。ちょうど良かった」
この時期しか使わない香なのに、ニコライ様はずいぶんたくさん買い込んだ。アリシア様もこの香を一年中愛用されているのかと思うくらいに。
「そんなにいっぱい? 先生に持って帰ってもらうのに、かさばらないかしら」
「大丈夫だろう。もう、こんな機会は二度とないし、なんだかんだで、あいつは優しいから。会えてよかったよ」
ニコライ様のその言葉に、私はなんとなく不吉な予感を覚えた。まるで、ニコライ様がこのまま消えてしまうような錯覚に囚われて、私は繋いでいた彼の手をぎゅっと握りしめた。ニコライ様はそんな私の手を、強く握り返してくれた。
「私は幸せだな。こんなどうしようもない人間なのに、優しい人たちに囲まれて。本当にいい人生だった」
ニコライ様は優しく小さく笑った。その笑顔は雪明りに透けて、空気に溶けていきそうに清らかだった。
「みなには感謝しかない。君にもだ。本当にありがとう」
私は涙が溢れて止まらなかった。ニコライ様は逝こうとしている。私たちを置いて。たった一人で。
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