8. 婚約破棄


 やがて帝国の情勢が徐々に不安定になり、ニコライ様は私の国に避難してきた。実質的な亡命。それでも、皇室と遠縁にあたるということで、彼の元には多くの人間が訪ねてきた。


『現皇室ではもう抑えが効かない。生き残るために新しい力が必要なんだ』


 そんな風に皇帝の座を狙うよう焚きつける人たちを、ニコライ様はうまくあしらっていた。権力に興味はない。自分はその器でもないと。


『では、代わりにお従妹の大聖女をお迎えしよう。その血筋も並外れた神力も、大いに利用価値がある』


 ニコライ様が血眼になって、政治活動に乗り出したのは、そんな話が密かに進行していると耳にしてからだった。

 皇帝となるための人脈とコネを得るために、ニコライ様はありとあらゆる手を尽くした。それこそ、その身を汚し、その心を悪魔に売り渡して。


 ただ、愛しい女性を守るためだけに。大聖女となった従妹アリシア様が、危険に巻き込まれることがないように。


 どうして私が、それに気が付かないと思ったのだろう。幼い頃からニコライ様だけを見ていた私には、彼が喜んで血を吐くような思いをする理由が簡単に分かってしまった。


 婚約破棄は、不本意な政略結婚から彼を解放するための手段。本当に愛する人と結ばれてほしい。幸せになってほしい。そのために、私には他にできることはなかった。


 あのとき、ニコライ様は皇帝即位が決定し、ようやく愛する女性を守れるだけの身分を得た。大国の第一王子の婚約者となった血が繋がらない従妹。そのアリシア様を迎えに行ける力を持てた。


 その心に長いこと隠していた悲願。それをようやく達成できる機会が来たというのに、婚約者がいては邪魔になる。私はそう思ったのだ。まさか、ニコライ様の求婚が断られるとは思わなかったから。


 アリシア様が国を出るときに、泣きながらニコライ様と抱き合っていた光景は、どう見てもそこに愛があると思った。たとえそれが、八歳と十三歳の子どもたちの別れの抱擁だったとしても……。


 私は操を立てたわけではない。ただ、他の男に触れられたくなかった。婚約破棄前の、最後の彼の温もりを忘れたくなかった。

 これは、彼のせいではなくて、私の問題。自分から突き放したのに、別れた後も私は彼をずっと忘れられなかった。変わらずに愛していた。


「お母様も、こういうお人形を持っているよ。口から煙を吐くんだ」


 アレクセイ様の声で、白昼夢のような記憶から、私は現実に引き戻された。ここにいるのは皇太子アレクセイ様で、幼いニコライ様ではない。


「ああ、そうね。女の子はいい匂いがするものが好きなの。でも、男の子には、あっちのほうがいいかもしれないわ」


 私が指さした先には、髭を生やして赤や緑の鮮やかな色の制服をまとった人形が、たくさん飾られていた。


「これは、兵隊さん?」


「見た目はそうね。でも、これは『くるみ割り人形』っていうの。口にクルミを入れて、顎で殻を割るのよ」


 背中についているレバーを落とすと、連動して大きく開いた人形の口がカチッと音を立てて閉まった。


「本当に割れるの? 飾りじゃなくて?」


「ええ。でも種類によっては無理ね。東洋にはオニグルミという殻の硬いクルミがあって、それには使っちゃダメ。でも、この大陸にあるクルミなら大丈夫よ」


「そうなんだ! お義父上ちちうえ様は、ナッツは好きかな? アレルギーはない?」


「ないと思うけれど、どうして?」


「これは、伯父様……じゃなくて、お義父上様へのプレゼントにしたいんだ。お母様から、ちょっとだけお小遣いをもらってきたの。それで買えるかな」


 アレクセイ様は、ポケットからくちゃくちゃになった紙幣を何枚か取り出した。確かにこの国の通貨だったし、おもちゃを買うには十分だった。


「ええ、もちろんよ。ナッツはお酒とよく合うの。陛下はお酒が好きだから、きっとナッツも大好きだと思うわ」


「そうなんだね。ゾフィーに聞いてよかった! ゾフィー、お義父上様と結婚すればいいのに。そうしたら、僕の義母上ははうえだよ」


「それは難しいわね。でも、お母様の代わりだと思ってなんでも相談してね。私はいつでもアレクセイ様だけの味方ですから」


「ありがとう! ゾフィー、大好き!」


 思わずアレクセイ様を抱きしめると、柔らかくて華奢な体に確かな重みを感じた。愛しい子。王妃様はこんなにかわいい息子を、たった一人で北の国に送ることにした。ニコライ様のために。


 その心には、本人にも気が付かないような気持ちが、確かな愛がある。そして、ニコライ様の中にも。今もアリシア様への変わらない愛が存在する。


 他の女を愛している男となんか、絶対に結婚してあげない。ニコライ様がアリシア様を思っている限り、私は皇后になんてならない。


 一生そばにいて、長い長い年月、彼がおじいちゃんになるまで、ずっと待たせ続けてやる。


 これは私の意地。そして、切なる願いだった。

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