6. 国王カルロス

『ゾフィーは、言い出したら聞かないからな』


 婚約破棄を言い渡したときも、ニコライ様は全く同じ言葉を言った。そして、最後には諦めたように、私の我儘を受け入れてくれたのだった。


 あのとき、私は二度と会わない覚悟で彼から離れた。彼の『真実の愛』の成就のため、善かれと思ってしたこと。けれど、その結果は芳しいものではなかった。


 ニコライ様が皇帝に即位する前に、彼の最愛の女性はすでにその身に他国の王位継承者を宿していたのだ。

 他国の王族を略奪することは、すなわち戦争を仕掛けるということ。革命とクーデターをなんとか切り抜けた当時の帝国に、そんな力はなかった。


 結局、ニコライ様は一人っきりで帝国の立て直しに臨んだ。彼が一番大変な時期に、私はなんの手助けもできなかった。そんな私には、もう彼を手を取る資格はない。


 ニコライ様はベッドの上で上半身を起こして、乱れた髪をかきあげた。その耳に、珍しいデザインのピアスが光っている。この色は……。


「きれいなピアスですね。海のような深い青」


「ああ。これは異国の魔除けなんだ。ナザール・ボンジュウと言うんだよ」


 それは異教徒のまじないだと聞いた。邪悪な眼差しを遠ざけるもの。


 二度と会わないと誓っておきながら、私はもう二度とニコライ様のそばから離れたくないと思っていた。この邪な願望は、きっとこの魔除けに阻まれることだろう。


「アレクセイ様も同じものをお持ちでした。カフスでしたが。お父様からのプレゼントだそうです」


 アレクセイ様の父カルロス国王とは、一度だけあったことがあった。正確には、見たことがあるというだけ。二十年以上も前になるが、彼が一度だけお忍びで私の領地を訪れ、ニコライ様と会合を持ったときのことだ。


 ニコライ様と会うことがないよう、私はずっと自室に籠っていた。それでも、一目でいいから元気な姿を見たいと、こっそりと窓から外の様子をうかがっていたのだった。


 外の蹄の音に気が付いて目を凝らすと、見たことのない美しい貴公子が馬から降りるところだった。まだ幼さの残る黒髪の青年は、まるで夜通し馬を駆ったようにボロボロで、とても大国の王子とは見えなかった。


 実はそのとき、彼は自国の危機を前にして、妊娠した婚約者アリシア様を帝国に亡命させようと奔走していたらしい。そのために彼女の義従兄であるニコライ様に助けを求めたということは、後になってから父に知らされた。


「カルロスには本物があるからな。皇妹いもうとの目が光っていれば、邪悪な者は近づけないだろう。浮気もできそうにない」


 これはアリシア様の瞳の色。深い深い海の青だ。


 ニコライ様は、今も異国に嫁いだ血のつながらない従妹を、女性として愛している。『真実の愛』。その色を一時も離さずに、身に付けているくらいに。


「みなが陛下のように浮気者ではありませんわ。でも、そうですね。もしも、アリシア様がそばにいらしたなら、陛下も女遊びはしなかったことでしょう」


「そうでもないよ。彼女と一緒に各国を巡ったときは、あちこちで味見をしたな」


「相変わらず最低ですね。あなた様の女好きは病気だわ」


 自分でそう言って、私は息を詰めた。思わず使った『病気』という言葉に、過剰反応してしまったのだ。ニコライ様はそれに気がついていたはずだけれど、やはり何も言わなかった。


 その代わりに、なぜかピアスを外して箱にしまった。そして、私の背中に手を回すと、そのまま抱き起こす。私は急いで毛布で上半身を隠し、ベッドの上で裸のニコライ様と向かい合う格好になった。


「君がそばにいてくれたら、もう他の女はいらないよ。だから、考え直してくれないか?」


「そんなこと信じられませんわ。陛下には前科がありますから」


「では、一生をかけてそれを証明してみせよう。君も一生、考え続けてくれればいいよ。私が信じられるという答えが出るまでね」


 ニコライ様はそう言って、優しく小さく笑った。でも、私はうまく笑えなかった。


 一生なんて言葉、今の彼から聞きたくない。先生の言った余命十年という言葉が、重く心にのしかかる。

 それでも、私が暗い顔をしてはいけない。一番不安なのは、病を患っているニコライ様本人なのだから。


「分かりました。私の答えが出るまでずっと、陛下には頑張っていただきます」


「困ったな。あまり長く待たせないでほしいんだけれど」


「甘いですね。私はそんなに簡単な女じゃないんです」


「知っているよ。しかたない。ゾフィーは、言い出したら聞かないからな」


 二十年でも三十年でも、私が答えを出すまでニコライ様は生きてくれる。答えを出さない限り彼は死んだりしない。必ず生き続けてくれる。


 だから、ニコライ様が生きている限り、私は絶対に皇后にはならない。細い希望の糸にすがるように、私はそのときそう心に決めた。

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