第23.5話

―――カー、カー、カー……。


 カラスは夕方より、朝に泣いていることの方が多い気がする。


 私は朝は嫌いだ。カーテンの隙間から差し込む光は安眠を妨げる。学校に行く時はもう世界は眩しいし、嫌でも起こしに来る。学校に行って机に突っ伏すのは、私にとって一石二鳥だった。視覚も聴覚も、私の平穏を邪魔しないから。

 でも彼のおかげで、そんな生活以外も楽しいことに気づいた。彼と隣同士で過ごす一学期は、中学校に入ってから一番楽しかったかもしれない。


「……私、何やってるんだろう」


「にゃあ」


 くろころは私の膝の上でごろごろ喉を鳴らしている。


「にゃあ」


 また鳴いた。今日は鳴く回数が多いように感じる。猫がたくさん鳴くのは、どんな時だっけ。嬉しい時? ご機嫌斜めな時? それとも……。

 私はいつもの公園に来て、くろころと戯れていた。

 でも、いつもと違うことが二つある。

 一つは、こたろーがいないこと。

 もう一つは、今が朝なこと。


「私、不良になっちゃったよ。くろころ」


「にゃお?」


 相槌を打つかのように鳴くくろころは、こちらを見る。黄色い目は眠たげに瞬きを繰り返しているけど、その体温はいつもより低いように感じる。私はその頭を優しく撫で、ほっと息を吐く。くろころに会える保証はなかったけど、今日会えたのはどこかでいいことをしたからだろう。


「こんなことしても、何にもならないのにね。お母さんに心配かけちゃうな」


 公園の時計を見る。時刻はもう九時になっていた。仕事に行っているお母さんの所に連絡が行くだろうし、私が行方不明だって騒ぎ出すんだろうな。でも、私は今の学校に行きたい気分じゃない。

 一晩考えた。でも、何を考えたのか、聞かれても答えられる自信がない。私が想像できたのは、部屋の中でうずくまるこたろーの姿と、その隣に行きたくてもいけない私の惨めな姿ぐらいだった。解決策を考えたわけでも、こたろーにかける言葉を考えたわけでもない。それぐらい、独りよがりな時間を過ごして、その延長戦で今に至る。


「でも、それくらいいいよね。くろころ?」


「あれ、大間さん、どうしたの?」


「えっ」


 名前を呼ばれた気がして、一応公園の入り口の方を向く。何度も瞬きをしてきちんと顔を確認した上で、知っている顔がこっちを見ていた。


「あ、庵治さん……?」


 庵治さんが茶色のエコバッグを片手に、こちらに歩いてくる。昨日とは違った、いつも通りの服装だ。


「体調悪い?」


「い、いえ……」


 程よい距離間で立ち止まって心配の目を投げかける庵治さんから、顔を逸らして答える。


「……学校、行きたくないの?」


「……」


「……そっか」


 何も答えてないのに、庵治さんは何かに納得した様子だ。私の方はというと、何に納得してもらったのかすらわからないまま、指を組んで足元の砂を見ている。


「……わかってます。行かないといけないのは。私がこんなことしてたって、何も変わらない」


 わかったふりをしてみた。


「……」


 でも、庵治さんは和やかな雰囲気を作ったまま、何も言わないでいた。

 さっきまでしきりに鳴いていたくろころも黙りこくったまんまだ。やっぱり初めて会う人は大体こうなるんだろう。私にだってそうだったもん。

 でも、こたろーは違った。あの優しさでくろころも包み込んで、私との秘密も守ってくれて、それに、それに……。


「……こたろー、ひっ、ひっ」


 なんで私が泣くんだろう。辛いのはこたろーのはずなのに。

 なんで私はこんなに子どもなんだろう。こたろーはずっと大人なのに。


 なんて私はわがままなんだ。


「……え?」


 ベンチの隣に座った庵治さんは、私の頭を撫でてきた。大きい手なのに、小さなものを扱うような繊細な手つきだ。


「洸太郎くんのために、何ができると思う?」


「……」


「洸太郎くんには、今自分と向き合う時間が必要なんだ。じゃあ、大間さんは何がしたい?」


「何がって、そんなの、問題を解決するしかない」


「問題って?」


「こたろーに嫌なことをする人を、やっつける」


「大間さんは、その人が分かる?」


「それは、なんとなく」


 多分その一人―――いや、数人はきっと、あの時の。


「じゃあ、どうやってやっつける?」


「……」


 優しい声で問われたことでも、中身はとてもいじわるだ。

 それが分かっていれば苦労はしないし、こたろーがこんなことになることはなかったんだ。


「一人じゃ何も思いつかないし、思い詰めてしまう。大間さん、君が今するべきことは、学校に行くことだよ。学校に行って、皆と話をして、自分なりの答えを見つけることだよ」


「自分なりの、答え……」


「……僕から一つ、お願いがあるんだ」


 少し間を深呼吸で空けて、庵治さんが口を開いた。


「泰河くんを、助けてあげて」


「……え?」


 なんで泰河くん? こたろーじゃなくて?


「彼は今、いろいろ背負い込みすぎているから。それをみんなで分け合ってあげて欲しい。僕もできる限り、大人としてサポートはしてるんだけど、さすがにコミュニティが違うから、できることは限られていてね」


 そう頭をポリポリ掻く庵治さんの顔も疲れ切っていることにようやく気付いた。


「洸太郎くんのために、そして君の他の友達のために、学校に行ってくれないかな。僕は学校には、保護者としてしか行けないからさ」


「……」


「それはきっと、君のためにもなるよ」


「でも、私は泰河くんのことも知らないし、昨日見た時だって、全然気にしてない感じだったし」


「……大間さん。コーヒーカップわかる?」


「……え、コ、コーヒーカップ? あの、あれですか?」


 私が透明なカップを揺らす動作をすると、庵治さんはそこに指をさした。


「そう。じゃあ今持ってるとして、そのカップの手を離したらどうなると思う?」


「それは、壊れると思います」


「だよね」


「……?」


 だから何だって言うんだ。


「じゃあ、コーヒーミルはわかる?」


「こーひーみる?」


 ……『コーヒーを見る』って、見てどうするんだろう。


「コーヒーミルはね、コーヒー豆を挽いて、粉状にする機械のことだよ。それをドリップして、コーヒーを作る。ほら、こんな感じ」


 庵治さんは脇に置いていたエコバッグの中身を見せてきた。中にはコーヒー豆の他に、大きな箱が一つ入っていた。鉄製の筒の上にハンドルがついている写真が描かれている。


「これを落としたら、どうなると思う?」


「……落としても、何ともならないんじゃないですか?」


「そっか」


「……?」


「実は昨日、落としちゃったんだよね」


「え、コーヒーミルをですか?」


 私は覚えたての言葉を確かめながら聞き返す。


「そ。で、今新品を調達して来たってことは、どういうことかわかるかな?」


「……壊れたんですか」


「そう。古かったのもあるんだけど、こんな固いものでも壊れるんだよ」


 庵治さんは箱の中に入った新人をいたわるように、箱を撫でる。その手が少し震えていることに気づいた私は、同時に自分がやるべきことにも、ようやく気付いたような気がした。

 この使命感が私の緊急バッテリーなのかもしれない。


「……わかりました」


「にゃあ?」


 久しぶりに鳴いたくろころは、私が立ち上がる気配を察したのか、膝の上を降りてベンチの横にちょこんと座った。


「くろころ、私行ってくるね」


「にゃ」


 私は庵治さんの前を走り抜け、学校に向かった。

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