第3章
第21話 雨とゴム紐
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―――ザーザザザー………………。
一瞬見えたはずの陽の光は、すぐに雲に隠れてしまう。晴れを願う時は決まってそうだ。海に行った日からは、連日台風とか前線の影響で雨が降っていたけど、始業式の日はしっかり晴れた。でも、そんな晴れもつかの間で、先週末から雨の日が続いている。もちろん今日もまた雨だ。
「こういった、三つの式が並んでいた場合でも、同じようによく見る連立方程式の形にすることができて……」
「……」
じめじめして肌にまとわりつく空気が嫌になるけど、とりあえずノートはとる。とっくに分かっている内容だけど、聞いていない人がいるから。見てもらうノートだから、なるべくきれいな字で書きたい。きっと彼は私の字が汚くても、嫌な顔一つせずにありがとうって言ってくれる。でも。
―――キーンコーン……カーンコーン……。
「ということで今日の授業はここまで。先に言っておくけど、今週末の宿題はこの続きにある練習問題にするから、もし余裕ある人はやっておくように」
六時間目が終わり、掃除の時間になる。私は宿題のページがちゃんと合っているかを何度も確かめて、机の上に椅子を乗せた。そして真後ろに置かれた、掃除用具入れのロッカーを開けて、箒を取り出す。そして窓側の、黒板の横まで行ってたたずむ。
これはもはや、一つの習慣だ。
こうしていたら、誰も文句を言わない。去年からずっとそうだった。
「真心ちゃん速いねー」
私の隣に一人、さも阿吽のつがいの様にすっぽりはまるように立った。
「いつものことだから」
「そうだね」
「……キリちゃん」
「んー?」
長い黒髪を体育の時以外は結ばずに背中に垂らしているキリちゃん―――
でも、すぐに私の同じ小学校の子とも打ち解けている様子は、昨年度に違うクラスだった時に廊下で姿を見かけた一瞬で分かった。
「キリちゃんって、あんまり焼けてないよね」
「外に出ないからねー」
キリちゃんは左腕の白い肌を右手の人差し指でつまむ。
「家で何してるの?」
「んーと、絵描いたりゲームしたりかな。でも夏休みから塾行き始めたから、そういう時間は減るかもねー」
「ふーん」
誰かに似た面影を持つキリちゃんはごみを掃きに、そそくさと廊下の方まで行ってしまった。
私も足元に落ちているごみを雑に机の下に通すように飛ばす。
二、三掃きぐらいしかしてないけど、教室の端で待機していた生徒がいそいそと机を教室の前方に持ち運びだすのを見て、慌てて教卓の上に避難する。
(別にそんな急がなくても……)
同意を求めるわけでもないけど、キリちゃんを目で探す。見つからないということは廊下にでも行っているのだろう。結構自由人なのだ、あの子は。
「……あ」
キリちゃんではないけど、一つ目に留めたものがあった。
廊下を経由して教室の後ろのドアから再び教室に入り、窓側に埃と共に掃かれた黒いゴム紐を拾い上げる。
「……」
黒いゴム紐が持つ情報なんて、たかが知れてるよ。
「あーあ」
「わっ」
気づかないうちに隣に立っていたキリちゃんが、私の手元を覗き込んだ。
「洗わないとだねー。替え持ってる?」
「う、ううん。でも大丈夫」
「そう? じゃあいっかー」
洗っておいでよ、とこちらに掌を向けて振るキリちゃんは、にこやかにこちらを見ていた。
「……ありがとう」
「ううん、いいよー」
私はゴム紐を洗いに廊下に出た。蛇口が並んでいるところに目を向けると、雑巾を洗う生徒でごった返していた。
(嫌だな……)
「あ、大間さん、ちょっといい……どうしたの?」
しかめた顔を直しきらないまま声のした方に振り返ると、担任の先生が怪訝そうな目でこっちを見ていた。
「いえ、大丈夫です」
「そう? じゃあちょっと職員室に来てもらってもいい?」
「……説教ですか?」
「そうだと思ってもど直球に聞かないでよ。そうじゃないから、安心して着いてきて」
「わかりました」
「切り替え早っ」
ゴム紐に着いた埃を、既に掃き掃除の終わった廊下に払って落とし、ポケットに入れた。別に後で洗えばいい。最悪洗濯物に出し忘れなければいいんだ。
「行きましょ」
「う、うん……」
私はそそくさと担任の後をついて行く―――というより担任の背中を押す形で職員室に向かった。
*****
「あ、今日は大間さんも呼ばれたんだ」
階段を降りると、すぐに職員室の入り口がある。掃除の時は配布物を取りに来る、各クラスの日直と先生ぐらいしか通らない場所だけど、手持ち無沙汰そうに壁に背中を預けている人影が見えた。
「泰河くん……」
「まあ、そういうことだと薄々気づいてたっていうか、庵治さんから聞いてたから」
泰河くんは気まずそうに笑う。その気まずさは、多分始業式から話していないこと以外にも原因がある。
そういうこと、って、やっぱり。
絶対、私が。
「あー……大間さん。あいつを悪く思わないでやってくれ」
「違う! 多分、私のせい、だから……」
大声を出す経験なんて中学校に上がってから数える必要がないくらい少なかったからか、遠くでプリントを運ぶ生徒が数枚落としてしまう程には周りを驚かせる声量になってしまった。
「あ、ご、ごめん……」
「ううん、いい。ありがとう。あいつのことを大切に思ってくれてるのは伝わった。でも大間さんのせいじゃない。それは絶対にそうだって、俺はわかってる。だから大丈夫。大丈夫だから」
「……」
そう肩を叩かれても、何も言葉が出なかった。泰河くんに話すべき内容かどうか悩んだわけでもないし、学校で話すべき内容かどうかを考えた末の結果でもない。
ただ、私は彼を気にかけていながら、ただただ『自分が悪い』という言葉にまとめてしまっていたことに気づかされたんだ。その恥ずかしさか冷静さかが、自分の言葉を全てクリアしてしまったのだろう。
そうだ。別に私が元凶なわけがない。もしそうだったら死のう。うん。
「ちょうど俺も光里も大会終わったばかりだし、まどかは……どうかわからないけど、一度あいつのことを話さないといけないだろうから」
「私がどうかしたのー?」
「わっ」
泰河くんは後ろに立って話に割り込んできたまどかちゃんに驚いて、思わず声を漏らした。私は結構さっきから気付いていたけど。
「まどかちゃん、泰河くんかわいそう」
「別に驚かすつもりはなかったよー。むしろ私の名前を勝手に出してるのはこっちだし」
と、プリントでふさがった両手の代わりに、首の動きで泰河くんの顔を示す。その首の上に乗った顔には、いつものにこやかさの風味も感じられなかった。
「それはそうだけど、まどかは今日の放課後空いてるか?」
「うん、今日は部活ない日だから」
「助かる」
「……こーた君のことだよね」
まどかちゃんもここ最近は元気がない。多分、理由は彼、というより、彼のいない日々だ。
どうやら私の狭いコミュニティの中で、泰河くんとみっちゃんを除いて、詳しいことは知っている人はいないみたい。この前話した時に、みっちゃんは最後に会った時様子がおかしいって言ってたけど、実際に自分自身で確認しようとしても、唯一の手段であるメッセージが未読でほったらかしにされている時点でもうなす術はない、とのことらしい。
きっと何かしら事情があるんだと思うけど、なんだか嫌な予感がする。
なんせ最後の会話があれなんだから。
「そ。庵治さんの所に行くから、四時半に学校前、私服で集合で」
「わかった。みっちゃんにもそう言っておけばいいんだよね」
「光里にはもう話したから大丈夫」
「おっけー」
真顔のまま、まどかちゃんは階段を上がっていった。
「ということで、放課後よろしく」
「わかったけど、多分お母さんに話をしないといけないから……五時過ぎになると思う」
「場所分かる?」
「うん。行ったことあるから」
「一応、帰ってから位置情報送っておくよ……って話し終わったところで来るのが先生なんですよねー」
「何、君たち、私がいつ来るか当てるゲームでもしてたの」
朝礼や終礼の際に持ち歩いている、プリントなどを積んだトレイの上に茶封筒を一枚乗せた担任の先生が戻ってきたのを見て、泰河くんは指パッチンをする。
「勝手に僕がしてただけですよー」
「はいはい。じゃあ今日の分ね。体育大会のもあるから、きちんと庵治さんに渡しておいてね」
「わかりました。任せてください」
「………………」
「ど、どうしたの? 大間さん」
「あ、すみません。先生も、庵治さん知ってるんですね」
当たり前のように庵治さんの名前が先生の口から出てきて脳がフリーズしてしまった。
「えっ? うん。一応保護者ってことになってるから、何回も学校に来てるよ?」
「保護者……」
普通、保護者は親とか祖父母とか、あるいは叔父叔母とか、そういう人が就く役割だと思っていた。庵治さんが親戚だという話は聞いたことがなかったし、よっぽど近しい関係なのだろう。
でも、なんで庵治さんが一番に出てくるの?
「とりあえず、俺は任されたので教室戻りますね」
「うん、ありがとう」
「……あ、大間さん、遅くなってもいいから、なるべく今日来てね」
「え、うん」
泰河くんはそれだけ言い残して、階段を一段飛ばしで上がっていった。
「それで大間さんに聞いておきたいことと、話しておきたいことがあるの。放課後ちょっと時間もらえる?」
「……こた、島野くんのことですよね」
「そう。私としても、今回のことは想定してたというか、こうなる可能性があるって聞いてた話だったから、とりあえず大間さんと話がしたくて」
「説教ではないですよね」
「……そんな話の流れじゃないでしょ」
担任の先生はため息をついて、階段を上がっていった。
私は思わず出てしまったあくびに嫌悪感を抱き、それを足元に発散しながらその後をついていく。
「あ、大間さん」
階段の踊り場で立ち止まり、階段の途中でこちらに振り返った先生の顔を見上げる。
「なんですか?」
「……ごめんね」
「なんで謝るんですか?」
「私は、臆病だから」
―――臆病。
先生の口から出てきた、あまりにも先生らしくない言葉を反芻する。
「……」
私もそう、って軽々しく答えられるほど、私は臆病の意味を知らない。
それどころか、私は自分のことが一番わからないんだ。その感情に名前をつけることができれば、どれほど楽だっただろう。
「……さ、とりあえず教室戻ろう」
「……はい」
いい。
この苦しみは決して無駄じゃない。
少なくとも、償いにはなるのだから。
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