第10話 視線と棘
僕は今、腕を引かれて走っている。
周りにはそれほど人はいないけど、それでもすれ違う人は皆、僕たちのことを見ている。走るのを迷惑に思っていそうな視線。知るはずもない僕たちの約束のことで怒りに満ちていそうな視線。そして、何を考えているのかわからない、大半の視線。
「……」
時間はたっぷりあるはずなのに、大間さんはなぜ急ぐのか。
息を切らして走る、視線の先の背中を見る。
(違う、急いでいるんじゃない。僕に、怒ってるんだ)
「……着いた。はぁ」
大間さんは一つ大きく息を吐く。
危うく通り過ぎそうになるほどの勢いを何とか止め、僕たちはペットショップの前までたどり着いた。
「大間さん、ごめん」
「……え? なんで?」
走って頭の中がごちゃごちゃになってしまったのか、大間さんはその理由を問う。
普段の大間さんのことを考えると、走らせるようなことを僕がしてしまったのは明らかだ。そしてその理由は、僕が約束を忘れていたからだろう。
「約束、忘れてた。あんなに言ったのに、僕から忘れてないってアピールもしておきながら、結局忘れて」
「……それはそうだね」
「本当にごめん」
「……ちょっと休憩していい?」
ぎこちない会話の中、大間さんは空いている椅子に座る。僕はそのそばに立った。
(……)
大間さんの隣には、杖を持ったおばあさんが座っている。このまま沈黙が続くと、まるでおばあさんが席を開けるのを待っているように思われるかもしれない。
「あ、あのさ……」
きまり悪そうに僕は話している、と勝手に頭がモノローグを付ける。それに気を取られたのか、それとも気が利かないだけなのか、その続きが出てこない。
とりあえず自分の声だけでもしまっておこう。
意識を改めて前に向ける。大間さんはうつむいたまま、手を膝に置いて動かない。
先に動いたのは、その隣の人だった。
「もしよかったら」すわりませんか。
その続きが聞こえた気がした。
「いえいえ、ちょうどトイレ行こうと思ってたところだったんですよ」
「いやいや遠慮なさらずに」
「本当に大丈夫なんで!」
僕は半ば強引にその場から自分を引き離し、走る。そして曲がり角を曲がる。
目の間には冷たい鉄の扉があった。
(関係者以外立ち入り禁止……)
僕は慌てて引き返し、もう一つ奥の曲がり角を曲がった。
*****
「……」
本当に普通にお手洗いを済ませてきてしまった。そしてその行動のやばさが、だんだん心に滲んでくる。
(おばあさんを立たせないためにはこうするしかなかった、と思うけど、よくよく考えれば大間さんをほったらかしにしてきてしまった。明らかに傷つけてしまった。謝りたい。でも今の僕が大間さんに顔を合わせられるのか? いやいや、でも早く戻らないとこのことは間違いなくより悪化するに違いない。でもこれ以上悪化することがあるのか?)
僕はそんなことをトイレの出口を出たり入ったりしながら考える。堂々巡りになってきた頃、僕は決心した。
(とりあえず戻ってみよう。何を言われても、すべて受け入れるしかない。そうだ。大間さんに何でも言って欲しいと言ったのは僕だった。ならば、僕を責める言葉からも逃げてはいけない。それが出てくるまで、僕は待ち続ける義務がある)
僕はトイレの出口をようやく後にする。そしてショッピングモールの大通りに出る。
(こんなに待たせたら、もしかしたらもういないかもしれない)
もしそうだったら。
それを考える前に、僕は彼女の姿を発見した。
「……!」
近づいてくる僕に早く気付いた大間さんは、僕の顔をずっと見続けている。
昂ぶりがまだ冷めないのか、未だに赤いその顔との距離を詰めるほど、だんだん胸の奥が絞られるような感覚と、奥歯の辺りに歯がゆさを覚える。
ようやく―――それほど時間は経っていないはずだけど―――大間さんの前にたどり着く。結局隣に座っていたおばあさんはいなくなってしまっていた。
(やっぱり僕がいたからおばあさんが……いや、今はそれを考える時じゃない)
一つ、呼吸をする。
「大間さん」
「ごめんなさい」
僕が口を開いた途端、大間さんが立ちあがり、頭を下げる。
「え、大間さんこっちこそだから、頭上げてよ」
「ううん。私、いらいらしちゃって、勝手に突っ走って、全然周りに人がいないのに一人分の席しか考えてなかった。私、君のことを何も考えてない」
大間さんは体と声を震わせて、僕に謝罪している。でもなんで謝らないといけないのだろう。僕が完全に悪いのに。絶交されて当然のことだと、思ったのに。
「そんなことないよ。いらいらさせたのは、僕が約束を忘れてたからだし、ここに座ることになったのも、それも僕のせいだから」
「なんで?」
「え?」
「座ったのは疲れてたから。君のせいじゃない。まどかちゃんに引っ張られて、電車を降りてから全く座ってなかったし」
言葉の節々に棘を感じるが、僕はそれを受け止める義務がある。
「だから、私のわがまま。私は自分のやりたいようにやってしまう。君のことも何も考えずに、適当に接して、こんなことになる。毎回なんだ。私の体から出た気持ちは、人を振り回す。だからいつも抑えるのに必死で、でも、抑えられなくて……」
だんだん棘が取れ、徐々にしおれていくのが分かった。
「大間さん」
すすり泣く大切な人の名前を、僕は自分にできる精一杯の優しさを込めて呼ぶ。
「……ん?」
「僕は全部聞くって決めた。だから、時間をかけてもいいし、全部吐き出してもいい。だから、ゆっくり話そう。座ろう?」
「……」
その沈黙は、唖然と呼ぶのがふさわしいだろう。
「……わかった」
謝らないといけないのは必ず僕の方だ。でもまたあとで謝ろう。時間はたっぷりある。
*****
「……ごめん。まだちょっと話せない」
互いに気持ちを落ち着かせる時間を取り、大間さんから話が切り出される。
思っていた答えとは違ったけど、想定内の言葉だった。
「わかった。じゃあこっちから改めて。約束忘れたり、一人にさせたりして、ごめん」
「別にいいよ。今考えたら、何でもよくなっちゃった」
(そのことについて言われると思ってたけど、言おうと思ってやめたことはまた別のことなのかもしれない)
「……」
「……」
(まあ、それもいつか教えてくれるのかもしれない)
「……そういえば、さっきここに座ってた人は?」
「あ、あの人はあっちに……あれ」
大間さんの視線の奥には、誰も座っていない丸椅子が二つ並んでいた。片方は少し中央がへこんでいるようだった。
「あの人にも謝らないといけなかったんだけど、ここから念じて届けよう」
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。今頃ゆっくりどこかで休めていることを願っています。ありがたく座らせていただいています)
「そういうの信じるタイプなの?」
「そういうのって?」
「その、テレパシーとか」
「別に?」
「そっか」
使えるならどれだけ楽だったか。
「でも、きっと届いてると思うよ。おばあさん、いい人だったし」
「あっ、喋ってたの?」
「うん」
「何喋ったの? やっぱり僕のこと言ってた?」
「……」
「ん、大間さん?」
大間さんの顔を覗き込むと、顔を赤らめているようだった。
「ごっ、ごめん。そんなにストレスだったんだ。あの人そういうタイプだとは思わなくて、人は見かけによらないよね」
「えっ、ううん、そんなことないよ! 本当に!」
必死に弁明をするために、その赤い顔をこちらに向ける。
「じゃあ、僕のこと、どう言ってたの?」
「それはっ、な、内緒……」
でも、また逸らす。
(かわいい…………)
「ほら、さっさと買ってくろころの所まで行くよ」
大間さんは立ち上がり、ペットショップに入っていく。僕は抑えきれない笑みと戦いながら、その後に続いた。もはや周囲の視線を感じる余裕すらなく、僕の視線は彼女にくびったけだった。
*****
「……」
二人掛けのシートの窓側に座った大間さんは、黙って窓の外の雨を見ている。
「くろころの所、今日行けるかな」
「無理だよ」
大間さんは吐き捨てるように言う。
「じゃあ、また明日行こっか」
「明日、来てくれるの?」
「行くよ。だって約束だもん」
「今度は忘れない?」
「……うん」
「今の間、何」
「ちゃ、ちゃんと覚えておこうって思っただけ」
「あっそ」
大間さんはまたしばらく外を不機嫌そうに眺める。
「大間さん、やっぱりまだ怒ってる?」
「だったら何」
「僕がうじうじしなかったら、雨降るまでに行けたから」
「でもきっと、雨に降られて帰ることになる。あの日みたいに」
「あの日……ああ、初めてくろころの所に行った時の。確かにあれは忘れられないね」
「大雨でずぶ濡れになったもんね」
「それもあるけど、あの日、大間さんとちゃんと話した初めての日だったから。これからもずっと忘れないと思うよ。大体友達って、いつの間にか話すようになってるものだし、大間さんははっきりしたきっかけがあるから、特別だな」
「……」
僕は、車窓を眺める大間さんを鏡の反射越しに見ようとしたが、それに気づかれていたのか、そちらでも目が合わなかった。
遠くの方では夕日が雨雲に負けじとオレンジの光を発し始めていた。
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