第3話
吐きそう、助けて。
その理由を聞いたら、心がどっしりと辛いのだそうだ。何か自分の人生に引っかかるところがあるらしく、それに気づいてからはさっき行った店や広場で歌っていると辛くなるのだと。
けど今日が一番酷いのだと言う。彼女は、もう逃げたくない、と口走っていた。もちろんそれには気づいていない。
私は何も言わず、彼女の手を握ってあの家へ連れて行った。
近づくにつれ倒れこむと心配していたが、逆に顔色が良くなっていった。
「おや、本日二度目だね。お嬢さん」
「お家さん。少し中に入ってもいいかな」
「いいよ、鍵は開けたから入って」
ありがとう、と言って空いている手で扉を開ける。その際も彼女は黙っていた。
中は家具などはなくなっているが、壁紙など音楽教室の時と変わっていない。
ゆっくりと中を歩いていく。
昔はお歌を教えている時は二階でブルちゃんが待っていた。先生や生徒の曲や歌声が響いて。家族は外で明日の事を考えて。家は楽しさや幸せがずっと続くと思って。お披露目会もすると思っていたのだろう。
それが今は誰もいない。
けれど歌っていた部屋に入ったら、先生がよく慕われていて、また、先生も生徒の事を思っていて、皆が音楽が好きなのがよく分かった。もう何もないというのに微かに聞こえてくる。あれから何年経っても思い出がここに残っているのだ。
「皆、きれいな歌声ね」
家とエイプリル、二人に言った言葉には返事が返ってこなかった。
「まだ残ってるよ、お家さん。あれから何年も経っているのにお歌や相手を思う優しい生活が残ってるよ」
と言うも返事はなかった。
「母とおばあちゃんと協力して音楽教室してたんだね。ここに来る子たち、音楽家とか歌手になりたいんだね。皆、大人になった時が楽しみだね」
「うん。ここに来てた子たちは皆頑張ってた。上手だったよ。毎日天使みたいな歌声や音楽が聞こえてね。でも一番はアイリスとエイプリルが上手くてね。その二人が将来有望だったよ」
そっかそっか。ここにはまだあったんだ。とその後に家は呟いた。
「悪いものじゃなかったね」
「うん」
話し終えると部屋を出た。二階に行くとそこにも優しさが溢れていた。両親が自分たちの部屋で今日あった嫌な事などを相談しあったり、娘のおでこに毎晩キスをしていたり。人が皆寝静まった頃、ブルちゃんがすくっと起きて全員が寝ているか確認していく。怖い夢を見ていたらベッドに乗り手や足を舐める。そんな暖かいものが残っていた。
そろそろ引き返すか…と思った時、今度はエイプリルにゆっくりと引っ張られた。
一階に下りて奥の部屋に入っていく。
あの時、男性が居た部屋でエイプリルはじっと空中を見ていた。ちょうど男性が盗っていた位置を見ているので思い出しているのだろう。
ずっとその場所を見ていた。
どのくらいか――ここには時計がないので分からないが――何十分か経った後静かに歩き出した。
歩く間も彼女は何も言わず、けれど手を引っ張る力は優しい。
部屋だけじゃなく家からも出て行く。そしてそのまま歩き、広場まで戻った。今度は曲がらずに広場を真っ直ぐ進む。
そのままずんずん進んで行くとまた広い所にでた。今度は馬車がずらーっと並んでおりそこで人が乗ったり降りたりと慌しく動いている。
そこもまた真っ直ぐ行ってこじんまりとした薄ピンク色の家の中に入った。
中に入ると同じ服を着た男性たちが会話をしている。その中の一人が気づいてこちらに来て「どうしたんですか」と聞いてきた。
エイプリルは静かに目を伏せたまま。私はここがどこだか分からないので何を言ったらいいか分からない。
どうしようか、と悩んでいると別の男性もこちらに来た。
「あれ?君、エイプリルちゃんだよね?ああ、そういえば君、最近来たばかりですよね。後は私に任せてください」
「すみません、お願いします」
と話し終えると、男性はこちらに、と言って椅子をひいた。私たちは大人しく座る。座ってもエイプリルは静かだった。
男性は向かい側に座って紙などを持って、下を向いて待った。その後も静かだった。静かにエイプリルは私の手をぎゅっと握る。
そんな静かなのが数分続いたのに、男性は待ち続けていた。
エイプリルが一度息を深く吸って、口をもごもごと動かした。ゆっくりと息を吐いて、くさかった…とぽつりと呟いた。
「くさかった。嗅いだことのないにおい。肌はあちこち黒い何かで汚れていて…髪の毛は白いところもあって…服は普通だった。汚れていなかった。あ、でもズボンの下はぼろぼろしてた。男の人だった」
「顔は覚えている?」
「分からない…こっち向いてなかった。ちょっとしか向いてなかった。ひげはぶつぶつ生えてた…顔はすごく汚くて…あ…まつげ長かった…」
ふむふむ、と言いながら書いていく。書き終えると、ありがとうございます、と笑顔で言った。
「他には何かありますか?」
「ないです…」
そういい終えエイプリルは立って家を出た。
そのまま道を戻っていき、今度はお昼に入った店の前に立った。
「ここ…」
と言い、目を上に向ける。
「昔、アイリスとここに来て歌おうって言ってたの。海にね、初めて行った時にね。感動したの。海の中、可愛らしく泳ぐ魚たち。自然だけでできた光と色の美しさ。この中で歌えたらなんて素敵なんだろうって。けど私たちは人間だからそれはできなくて。代わりに何かそれっぽいところで歌おうって…それで…」
ふぅ、と彼女はため息をつく。
「大事な人を忘れるって嫌ね、私ったら。一緒に夢を見た仲なのに。死んだら忘れられてしまう。そんな寂しさを知っているのに。大好きな友人にそんなしたくないことをしてしまった。今度謝って仲直りしないと…」
と言うとまた口を閉じて今度は家に向かって歩いた。
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