歌姫 第1話
「あら、また上手くなったんじゃない?将来が楽しみだわ」
「でしょ!次の歌会はね、アイリスと一緒に歌うのよ!」
そう言ってエイプリルは笑った。音楽教室に行かせているのだが、もちろんコンサートも個人の歌会も色々な事を含めて先生から聞いて知っている。だが、いつも隠して両親を驚かせようとしているエイプリルがポロっと言ってしまった事に、母親は大変嬉しかった。
初めて行きたいと言った時は、1人では寂しいのではないかと心配していたが杞憂だった。そこには同年代の娘さんがおり、なんと気もあうらしくとても仲がいい。7歳の今でも喧嘩はすれどすぐ仲直りして遊んでいる。
「ああ、そうだ。エイプリル」
名前を呼ぶと歌うのをやめ素直にこちらを向いた。
「これ…先生たちにはいつもお世話になっているから持っていって」
「わあ!美味しそう!」
「エイプリルの分もあるから晩御飯に食べようね」
「うん!」
話し終えるとすぐにまた歌い始めた。教室に行っていなくてもずっと歌っている。もし歌っていなくても歌詞や曲を作っている。とても好きなのだろう。それがとても微笑ましい。
——そう言えば、今日の先生はおばあちゃんだったかしら。
だとすると緊急お披露目会をしてくれるかもしれない。これは帰りが遅くなるかな。
一日一日、考えるだけでも母親にとっては楽しく思っていた。それは仕事をしている最中の父親もエイプリル本人も。
———
中ではとても可愛らしい、けれど美しさを感じる発声練習が聞こえる。
「あら、2人とも今日も調子が良いわね」
「だって!練習してたもん!」
「エイプリルと歌うんだからいつもより練習しているに決まってるでしょ、おばあちゃん」
「熱心で良いわね。でも…」
「体も大事に!」
ふふん、と言うところまで一緒に言う姿は、見ていなかったらまるで双子だと思われるだろう。
「さあ次行くわよ」
はーい、とまた同じ笑顔で、手をあげる仕草も声のトーンも揃えて言った。
30分経った頃、おばあちゃんは、休憩ね、と言って部屋を出た。
「アイリス、私トイレ行きたい。アイリスはどう?」
「私も!」
「また上使っていい?」
「良いに決まってるでしょ、本当に好きね」
「やった、ありがとう。だってブルちゃん触り心地いいんだもん」
もー、触り過ぎて遅れないようにね、とアイリスに言われ部屋を出てわかれた。
二階に上がって、子供用扉を開ける。
ブルちゃん、と言うとブルドッグが部屋から走って出てきた。とても賢くて扉がなくても生徒がいる時間は降りてこないが、念のため今でも扉をつけているそうだ。
おまけに優しく、呼ばれたらこうして撫でさせてくれる。少し撫でてからトイレに向かう。
トイレの中に入ってもどこにも行かずに扉の外で待っている音が聞こえる。それが凄く愛らしい。
トイレから出たら何しようかな、と考えていたら突然ブルが騒ぎだした。今までにこんなに吠える事はなかったのに。
そして同じくらいのタイミングで下から叫び声などが聞こえる。
ドンドンドタドタなど物がぶつかる音も凄い。とうとうブルちゃんも階段の所の扉を飛んで出たらしく、吠えながらドタドタと落ちる音がした。
大人ならこの場面では、静かにトイレから出て静かに窓からつたって降りて助けを求めろと思うのだろう。
だけど7歳のエイプリルには出来なかった。恐怖で体も頭も固まってしまって何もかも忘れていた。
ただ、そんな状況でもトイレは止まらない。もちろんその事にエイプリルは気づいていない。
時間も分からずトイレに居る事も分からず何も分からず心も頭も真っ白なまま過ぎていった。
ようやく動けるようになったころにはもうとっくに音楽の時間は終わっていた。
トイレをしていた事を忘れ、拭かずにそのまま出て階段を降りる。その途中で パンツは下がって足首にまで落ちた。無意識に足を上げて脱いで階段を降りていく。
いつもは何かしら音が聞こえるのに、ましてやブルちゃんが一階に居るから何かしら話し声が聞こえるはずなのに静かだ。
エイプリルの頭や心の中にはその情報までしか入らなかった。
そこからは、歌の練習していた部屋の中で刺されて殴られて血だらけになっているおばあさんも、トイレに逃げようとしたのか何度も刺されて両手の指まで切断された友人のアイリスも、ぐちゃぐちゃになったブルちゃんも、汚物や血のにおいなど全て見ているのに見えていなかった。いや、認識ができなかった。
エイプリルは奥にある、普段閉まっているはずの扉に向かった。
意識を保っていたらこんな事はしなかっただろう。
部屋に入ると男性がいた。そこら辺に置かれている鞄や引き出しからお金やお金になる物を盗っている。それが終わるとエイプリルに気づく事もなく、男性はその部屋の窓から飛び出した。
警察を呼んだのはアイリスの母親だった。友人から海外のお菓子を貰ったので、娘の友人がまだ居るうちに急いで帰っていた。お歌が終わったら皆でお茶にしよう。そして少し遅れるから家まで送ろう。
そういう予定だった。
扉を開ける前にはもう違和感を抱いていた。悲しい事に間に合わなかった。けれどアイリスは終わっても練習している。だからいつもならかすかに歌声が聞こえるのに今日は嫌に静かだ。誰か倒れてしまったのだろうか。病院なのだろうか。
鍵を開け扉を開けると、叫んでいた。そして急いで走って近所に大声で助けを求めていった。
警察や医者が来るまでに近所の人が包丁を持って集まって、中を確認してくれた。
せめて皆生きていて…という気持ちは叶う事はなく、中からはエイプリルだけが抱えられて出てきた。
エイプリルからは家の中でついたであろう様々なにおいやおしっこのにおいがしている。
他人の子供の命を預かっている。昔から培っていたその意識のみで、アイリスの母親はエイプリルに近づいた。
「……イプリル、怪我は…」
と言いながらエイプリルの頬を撫でる。聞かれた本人は瞬きもせずに、よだれが垂れても口も閉じずに固まっていた。
それは警察が来ても入院しても、エイプリルの両親が来ても自身のペットの猫と会っても変わらなかった。
食べる事も飲む事もたまにしか出来ず、点滴などを使うので本格的に精神病棟に移った。
5年経った頃。12歳になって、やっと口を閉じ始めた。
それからは早く治って——と言えるか分からないが——日常生活がおくれるようになった。ただ声も出せず、記憶はなくなって。
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