第2話

 自分の咳込みで目がさめた。胸がかゆい。落ち着く頃にはずっと口を開けて咳をしていたから、よだれがたらーっと出てきた。周りを見てみるとどうやら家の中らしかった。家具などはなく、人も住んでなさそうなのにほこりもない。対面キッチンがあり後ろを向けば窓がある。窓の外は庭があるがやたらと塀が高いのでその向こう側が分からない。

 そのまま歩いてキッチンに向かった。試しに蛇口をひねると水が出たので顔を洗った。

 どうも感覚が鈍い。水は冷たいしのしかかる重さも感じる。けれど、ここがどこかも自分が何者かも分からない。唯一分かるのはゆめみという名前だけ。それ以外は全く分からないのに使い方は分かる。この家だって記憶にないのに知ってる感じがする。知ってると知らないが同時に存在していてなんだか気持ち悪い。

 洗い終えるともう一度窓の向こうを見た。先程からその景色が胸をぎゅっとさせる。目頭が熱い。2種類の痛みが混ざったのが耐えられないので目をそらして廊下に向かった。

 特に何もなく、何も思わず廊下を歩いてドアを開ける。庭の土を踏む感覚に違和感を感じて下を見ると靴をはいていた。それはわくわくするのやら変な感じなのやら。

 家の中とは違う香りを胸に貯め、そのまま足を進めていく。特にどこか行きたいわけでもなく、なんとなく門扉を開く。

 何も覚えてもなく知らない事ばかりだというのに恐怖は全くない。理由を探したいわけでもない。その何もなさは自身を透明なものと感じさせる。

 門扉を出ると突然全てが変わった。開けたときは同じように家が連なっていたのに、今は草や木が生えている。

 突然の事に驚いたがすぐに香りが違うと気づき次々と違いを探していった。空気が心地よく乾燥している、太陽が私に活力をくれる、なのにこの場所はなんだか胸をさわさわとして人恋しい。

 歩けば変わるかもしれない、今度はその気持ちで歩いていった。やたらと広く、遠くに家が見える。

 やっとその場所を出る頃にはヘトヘトになって肩で呼吸をしていた。家しかない道を休みながら進んでいく。誰かが住んでいるのか時折話し声や泣き声が聞こえる。


 ここもまた厄介なところで、どこを見ても似た家が並んでいる。最初こそはわくわくしていたが、声が聞こえるだけで人は見かけないし同じところを歩いてるようで胸がざわざわしてきた。ここから出られないんじゃないか。

 死、という考えが広がる。勝手に目がぼやけて透明なものが出てきて見えづらい。

 2つある角に出てしまった。どこかが明るい何かを失っていく感覚がする。どうしようと迷っていると左側から、どうしたんだい、と声が聞こえた。慌てて見ると白色に明るい水色がかった毛の長い子が座ってこちらを見ていた。

「あ、ここから出たくて…」

「ふむ。ついてきな。あんたみたいな子は何人か会った事がある」

 その子は優しく言って私の少し前を歩いた。

「何人??」

「そうだよ。あんたみたいに髪の毛が白くて絵の具を落としたみたいに他の色がついてる子。そういう子はみんな同じなんだ。記憶もなけりゃなんで歩いてるかも分からない」

「あ…私と同じ…」

「あんた名前は?」

「…ゆめみ…」

「………そうか。あたしの事は猫と呼んどくれ。名前、覚えているんだね。あたしが会った子はほとんど名前も忘れていたよ。なんでそんな子ができるか調べているが分からないんだ」

「猫…」

 名前も覚えていない。とはどういう感じなのだろう。もっと分からないまま歩くのだろうか。透明になって世界と一緒になるのだろうか。

「あんたたちは色々な世界や国にいけるみたいだね。もしあたしの子供に出会ったら、愛してるって言ってくれないか」

「猫に似た子?」

「そうだよ。ほれ、あたしの右の手のひらにハートマークがついてるんだ。あの子達も同じのがついてる。リズからって言ったらすぐ分かるさ」

「その子に会えたら言うのね?」

「ああ。もし会えたら」

 そう言うと猫は静かになった。その姿がさっきまでいた草木のところのように感じた。

「…一緒に行く?」

「…どこにいるのか分からないのさ…」

「分からないの?」

「ああ…3匹子供が産まれてね。みんな良い子で楽しかった。けどある時突然、箱に詰められて。ガタガタ凄い揺れて。真っ暗で何も見えないところからやっと開放されたと思ったら子どもたちを連れて行かれて。みんな、ママ、ママって泣き叫んでいたけどあたしは何もできなかった。連れて行く人間に噛み付いたりしたけど、人間は大きくて強いから。……元気に大人になれたんだろうか…あたしを恨んでるかな…あの時の記憶を忘れてくれている方が幸せなのかもしれない」

 最後の方は猫の声は揺れていた。

「もし、会えたら伝える」

 よろしく頼むよ、という頃にはかすれていてあまり聞き取りにくい。さっきとは違う感覚で目がにじむ。胸も広がる感じでつんとする。さすってみるが特に何も起こっていない。

「ありがとうね。みんなもそうやって悲しんでくれたよ。これから色々な事を経験していって心の動きが分かるようになるよ。涙を流すと疲れるから泣かないでおくれ」

 そう言われ泣かないようにしてみるが勝手に流れてくる。それでも、特に何もしていないようにも思うが、泣かないようにしてみたおかげで涙はすぐに流れなくなった。


「出たよ。あんたたちは人間もよく知っているみたいで頼んだら色々してもらえるよ」

 家から抜けた先はさっきまでとは違って賑やかだ。話しているのもあるがたくさんの人や物の動く音がすごい。見た目からしてもにぎやかな事がわかる。

「お腹はすいているかい?」

「お腹がすいている??」

「ふむ。お腹がすくとねいつもと違って力が出なかったり、吐きそうになったり、ぐうっと鳴ったりするんだ」

 それがお腹がすく。下を見て言われたところをさすったり軽く押したりしてみる。

 特に何も変わっていない・

「喉も乾いたら違和感がでるからね。飲み物を飲むんだよ。自分の体の言うことはきちんと聞くんだよ」

「うん」

 体の言うことを聞くのはよく分からないけど分かる気がする。疲れた時も猫に会う前に涙を流していた時も、無視をしてはいけない気がしていた。

「ほれ、試しにあそこの白色の動く小屋みたいなところに行ってごらん。人と馬が動かすからどこでも行けるよ。理由は探さなくていい、止まりたいところで止まるんだ。ああ、お腹が空いていたら、店の多いところに連れて行ってもらえるからきちんと言うんだよ」

「うん。分かった」

「いってらっしゃい」

 そう言って猫は私の足をポンっと押した。思わず一歩踏み出した時に聞こうと思っていた事を思い出して、あっと言って振り向いた。

「ここに来たらまた猫に会えるの?」

「そうだよ。あんたたちに会ってからここと家を行ったり来たりしている」

「そう…分かった。…いってらっしゃい…?」

「どこかに行く側は、いってきますって言うんだよ。送り出す側は、いってらっしゃい。帰ってきた側は、ただいま。それを迎える側は、おかえり」

「いってきます」

 この言葉は知らないはずなのに知っている気がする。いったい何なのだろうか。

 私はしゃがんで猫のおでこに口をつけた。何故か、は分からない。この胸の温かさが私の体を動かした。

 いってきます、いってらっしゃい。いつか、ただいまとおかえりが言いたい。全てを預けられる温かい言葉。

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