35話 教えてください、先輩!
それまで必死に駆け抜けてきた反動だろうか。
ネメアの三姉妹が工房を去ってしまった後は、本当に、驚くほど穏やかな時間が流れた。
メルイーシャの夜明けを告げる鐘の音で目を覚まし、ハヴィクと一緒に食事をして。町に散歩に行ったり、久々にスケッチをしたり、蔵書室で本を読んだりした。
カルア・マグダとの戦争は、メルイーシャからは遠く離れた見知らぬもので。
僕は守り抜いたハヴィクとの時間を噛みしめるように毎日を過ごしたのだった。
体調も、この時は不思議なくらいに安定していた。
もう、素直に全てを喜べるような、そんな無邪気な僕ではなくなっていたけれど。それでも満ち足りたような幸せを感じていた。
「先輩、俺に
夏の日差しも鮮やかな頃、エミリオにそう言い寄られたことがあった。
「……また急だねえ、君は。まあいいけどさ、ちょうど暇だったし」
僕は苦笑しながらエミリオを部屋に招き入れた。
驚いたことにエミリオは、僕がネメアの三姉妹の回路図を引いていた冬の
工房に来て二年は相当に早い方だし、それまで彼に勉強が得意という印象はなかったから本当に意外だった。
変わり者のエミリオはその後も僕の部屋に食事を運んでくれていて、彼の襟元に付けられた銀色の記章に僕が気づいたのは最近になってのことだ。もっと早く言ってくれればいいのにと僕が文句を言うと、彼は困ったような顔で笑っていた。
「どうぞ、座って」
「はい、お邪魔します!」
エミリオは興味深げにきょろきょろと室内を見回す。そういえば彼を部屋の中にまで入れるのは初めてだった。
「あれ、ハヴィーさんはいないんですか?」
「うん、町におつかいに行ってる」
最近では、ハヴィクも一人で買い物に行けるようになった。ネメアの三姉妹にかかりきりになっていた僕のために色々覚えてくれたのだ。
嬉しいけれど、僕としてはハヴィクには側にいてもらいたかった。
ハヴィクがいなくなるとどこかそわそわして「行ってらっしゃい」の言葉さえまともにかけられない。
これじゃ僕、子離れできない過保護なお母さんみたいだ。
「たぶん帰りに焼き菓子屋さんでレモンのパイを買ってきてくれるはずだから。もし良かったら君も食べていきなよ」
「ありがとうございます。パイだったら挽き肉の入ったやつの方が好きですけどね、俺は」
にこにことした笑顔で言うエミリオに、呆れたような視線を向ける。
「相変わらず図々しいというか。物怖じしないで物を言うよね、君は」
「昔から、それだけが取り柄だったので」
「それに、いつの間にか『ぼく』だったのが『俺』になってるし」
僕はエミリオを眺める。
ちょうど今の季節のような、真夏の
初めて蔵書室で会った時は同じくらいの身長だったのに、今は立って並べば僕の方が大きく視線をあげなくちゃならない。いつの間にか声変わりも済ませているし、俺という言葉遣いになったところで何の違和感もないのだけれど……。
「あーあ。初めて僕を見て、きゃあとか叫んでた可愛い君は一体どこに行っちゃったんだろうねぇ?」
ため息混じりに言った僕にエミリオは真面目な顔をした。
「大丈夫です、先輩。先輩はあの頃と変わらず、ちっちゃくてかわいいままですから」
「うわ、むかつく」
僕はずんずんと椅子に腰かけているエミリオに近づくと、ちょうど見下ろせる位置にある頭頂部の髪を引っつかんだ。
「ちょっと君、この髪の毛むしって円形禿げでもプレゼントしてあげようか?」
「止めて先輩、暴力反対です!」
別に僕もエミリオも本気じゃない。いつものような適当なじゃれ合いだった。
今はハヴィクもいなかったし、少しくらい羽目を外したふるまいもできる。エミリオは僕にそういうことをさせてくれる存在だった。
「でも実際、招来術について何が聞きたいのさ?」
席に着いた僕がエミリオに尋ねる。
メルイーシャ工房の
プライドの高い工房生たちにとって、同年代、下手をすれば年下である僕に教えを請う気なんて起こらないだろう。それと、聞いた話では僕の作った回路図が複雑すぎて、話を聞いたら余計にへこまされそうという風潮があるらしい。
エミリオは、そんな工房で一番人気のない先生の僕に初めて話を聞きにきてくれた生徒第一号だった。できれば大事に教えてあげたい。
「えっとですね、
青い目をきらきらとさせながらエミリオは言った。
「本当は、ハヴィーさんみたいな
「ふむふむ」
「他の人たちに聞いたら、あれは先輩だから創れたもので、俺たちみたいな凡人には無理だろうって」
「ほうほう」
「なのでちょっと背伸びして、
エミリオの言葉に僕は納得して頷く。
「たしかに、君にハヴィクの回路図はかなり無理があるかもね。……ちょっと待ってて」
たしかどこかに、金の花の最終課題に使った回路図が残っているはずだ。
僕は椅子を下りるとエミリオに背を向けて、積み上げられた設計紙の山を漁りはじめた。
「でもちょっと意外。君がハヴィクみたいな招来獣を創りたいなんて」
ハヴィクはこの工房でも少し特殊な立場の招来獣だ。
たぶん、悪い意味ですごく目立っている。
ハヴィクと一緒に歩いていると、何となくみんなの視線が言っている。
あの招来獣はすごすぎて気味が悪い。うかつに近づきたくない。変なことを言って僕の機嫌を損ねたくないって。
「ハヴィーさんは、素敵な招来獣ですよ」
そんな僕の心の声が聞こえたのか、エミリオは僕の背中越しに明るい調子で言った。
「だって先輩、一人でいる時はいつもこわばってるというか、固い顔をしてますけど。ハヴィーさんがいる時はとても優しい顔をしてますから」
「え、そうかな?」
「そうですよ。でもそれって、先輩がハヴィーさんのことをすごく信頼してるってことですよね」
くすりと笑ったエミリオの声がほんの少しだけ近づく。
「だから、俺も招来術師になったら。先輩にとってのハヴィーさんみたいな、頼れる相棒がほしいなって。そう思ったんです」
エミリオが僕とハヴィクをそんな風に見ていたなんて、少し意外だった。
僕はくすぐったいような、けれど胸が温かくなるような気持ちになった。
「ありがと、エミリオ。今のはかなり嬉しかった……って?」
振り返った僕は言葉を失った。
椅子を下りたエミリオは、いつの間にか僕の描きためてたスケッチブックの山から一冊を取り出して眺めていたのだ。
「ちょっと君、何してんの。勝手に人の描いたもの見ないでよ!」
慌ててスケッチブックを取り上げると、エミリオは名残惜しそうな視線を僕の手元に向けた。
「先輩、絵が上手なんですね。そういうのも招来術に関係あったりするんですか?」
「招来術には想像を形にする強いイメージが必要なの。僕にとってこれはその訓練で。……それよりねぇ、勝手に僕のものをのぞき見しておいて、何か言うことはないの?」
「えっと……」
僕がにらむと、エミリオは少し黙った後でおそるおそる口を開いた。
「良かったら一冊、俺にください」
「帰れっ!」
そうしてエミリオは僕の部屋に出入り禁止となることが決まった。レモンのパイを持っておつかいから帰ってきたハヴィクは、僕の機嫌が悪いのを見てきょとんとした顔をしていた。
一応補足しておくと、二種形態の招来獣の創り方については後日ちゃんとエミリオに講義しておいた。もちろん僕の部屋以外の場所でだ。
仕組みを理解することと、それを使って実際に招来獣が創れるかどうかは別の問題だけど。僕にできるのは、自分の歩いてきた道をエミリオに示してあげることだけだ。
それから先、エミリオがどんな招来獣を創るかは彼の熱意と努力次第だった。
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