36話 晩夏の祈り

 そんな風に平和な夏を満喫していた僕だったけど、晩夏ばんかの頃に一度だけ熱を出して倒れた。

 しばらく体調を崩さなかったのですっかり忘れていたけれど、僕は季節の変わり目にとても弱かった。立ち上がるのも難しいくらいに熱が出るのは久々の感覚だった。


 ベッドから起き上がった僕に、ハヴィクがそっと水を差し出してくる。

「体を支えるのだ?」

「ううん、大丈夫。ありがとね、ハヴィク」

 思えばハヴィクの介護の仕方も、この二年でかなり上達していた。それだけ、僕がハヴィクの世話になったということだろう。

「……いつも思うけど。僕、もう少し丈夫な体に生まれたかったなぁ」

「君はよくそう言っているのだ」

 横になってため息を吐いた僕にハヴィクが手を触れる。ゆるく髪をなでる感触が心地良くて、僕は少しだけ目を細めた。

「だってさぁ、こんなにすぐ体調を崩してたら、僕どこにも行けないじゃない」

 そう言うと、ハヴィクは不思議そうな顔で僕のことをのぞき込んだ。

「君は、どこに行きたいのだ?」

「ん、えっと……」

 改めて聞かれても困るけど。

 少し考えた後で、僕は部屋の天井を見上げながら答えた。

「……遠いところ、かな」


 シウル・フィーリスなんて名前を誰も知らない場所。

 最近の僕は、たまにそんな場所を夢想している。


 ネメアの三姉妹が戦場で活躍しはじめてから、招来術師しょうらいじゅつしシウル・フィーリスの名前はクーウェルコルト中に知れ渡るようになった。

 メルイーシャの宝石、クーウェルコルトの護り手と呼ばれて、褒められて。でも、その噂話を耳にするたびに僕は戸惑いを覚える。


 戦乱に苦しむクウェンのために招来獣しょうらいじゅうを創り、戦場の兵士たちを救った愛国心あふれる若き天才術師?

 それって一体誰のこと?

 お願いだから、どうか、僕の行為をそんな言葉で飾り立てないで。

 僕の両手は彼女たちに殺させた血で真っ赤に染まってるんだから。


あるじ?」


 視界に、ハヴィクの顔が映りこむ。心配してるのかもしれない。

 僕は少しだけ明るい調子でハヴィクに言った。

「えっとね。僕は遠くに行って、もっと色んなものを見てみたいんだ」


 それは嘘じゃない。

 新しいものを見ることは、心に種をまくような大切な行いだ。未知に触れる感動は、新しい回路図をひらめく大きなきっかけになる。


「道の続く限り、ずっとずっと遠くへ。道がなくなったら山を越えて、海まで着いたら海も渡って。……あ、空も飛べたら面白そうだね。そのうち世界を一周できそうっ」

「それはもう、人間の領域を超えているのだ」

 話しているうちにだんだんと楽しくなってきた僕だったけれど、ハヴィクは淡々とした顔で水を差してきた。

「そんなことは君にはできない。できたらもはや化け物なのだ」

「君ってばロマンがないというか。本当に頭が固いよねぇ」

 僕は苦笑してハヴィクを見上げた。

「ひどいなぁ。これはね、僕の夢なんだよ」

 二年前から変わることのない、純粋できれいな緑色の目。僕は心の中で彼に囁く。


 ねえハヴィク、気づいてる?

 さっき僕が言ったこと。君なら全部できるんだよ。


「……どうかしたのだ?」

 きょとんとしたハヴィクに、僕は小さく笑って目を閉じた。

「ううん、何でもない」

 僕が望んだ夢に、肝心の僕自身がついていけないのは残念だけど。

 僕の夢なら叶ってる。

 君に会った時から全部叶ってるんだ。

 だからあとは、こんな時間がずっとずっと続きますようにと。

 そう祈り続けるだけなのだ。




 そんな僕の祈りはどれだけ届いたのだろう。

 それから一年、僕は何にも邪魔をされず、ハヴィクと共に幸せな日々を送った。

 翌年の春に僕は十六歳の誕生日を迎え、次の夏にはハヴィクの三回目の誕生日を祝った。

 そうして蛍露草ほたるつゆくさの咲き誇る夏を過ぎた頃。

 あの事件が起こったのだ。



 《第三章 完》

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