21話 初めまして、大切な

 研究棟の一階にある、僕に割り当てられた作業室に足を踏み入れる。小さな咳払いさえ響くがらんとした部屋の中で、日が完全に沈みきる前に僕はランプに手を伸ばした。

 きっと長くなる今夜のために、明かりが途切れないように入念に灯を入れてゆく。僕の胸は期待と緊張で痛いほどに強く鳴っていた。


 明るくなった室内に七枚半の回路図を広げる。

 それから義父上から贈られた七つの小箱と、大小様々な四精石しせいせきを詰めた袋を取り出して、回路図に描いた通りに慎重に並べていった。

 最後に、お守り代わりのオットーの神話とあの人の手帳を取り出す。

 この二つは、あの人のイメージを支える大切なものだ。それらを一度だけぎゅっと抱きしめると、並べた四精石の向こう側へそっと置いた。

 僕は深く息を吸うとトフカ語を紡ぎはじめた。


夢見ゆめみほしゆめ

 夜空よぞら揺蕩たゆた不可視ふかしきらめ

 夢見ゆめみほしねがいをかな

 みどりうえまたたけ……』


 気分はまるで、義父上の前でシウルとラエルの神話を暗誦あんしょうした時のようだった。

 声に出すたびに、不安や緊張にたかぶっていた気持ちが次第に遠のいてゆく。それだけじゃなく、僕の意識までがゆっくりとトフカ語の響きの波に沈んでゆく心地がした。

 回路図は異例の七枚半。

 四精石も単純に計算して普通の七倍。

 つまり、そこにイメージを定着させるトフカ語も必然的に七倍以上必要になる。

 僕は用意した紙片に時おり視線を落としながら、絶やすことなくトフカ語を口に乗せた。


 部屋を満たすようにトフカ語を唱える内に、僕はふと妙な感覚を覚えた。

 目には見えない何かが僕の肌をそっとかすめる。

 招来術しょうらいじゅつを使う時に何となく感じていた気配が、今日はやけに濃厚に感じられた。

 誰かが、すぐ側で僕のトフカ語を聴いている。

 じっと息をひそめるように。僕のことを見定めるように。

 僕は声が掠れないよう、腹の奥に力を込めた。


 僕は語りかける。

 ここへ来て、ここに留まりなさいと。


 僕がどれほどこの時を焦がれ、願い求めたのか。どうかその想いを、聞き届けてくださいと。僕はトフカ語の響きに乗せて願い続けた。

 やがて四精石はやわらかな光を放つと、馬の形に、山羊の形に、鳥の形に、ネズミの形に、僕の与えたイメージに姿を定着させていった。


 カーテンの向こうに遮られた空が白みはじめる頃、僕は用意した招来術の詠唱を全て唱え終えた。


「…はっ、……はぁ……っ」

 緊張の途切れた僕は両手をついてうずくまった。

 伏せた身体を持ち上げることができない。最後の方は声も枯れて、気力だけで何とかしのいだようなものだった。

 息をするたびに熱い鉄の味が口の中に広がる。

 喉が、呼吸するのも辛いくらいに痛かった。

「……ぅ、くっ。かは、かふ……っ!」


 むせた呼吸に、咳の発作が重なる。

 血を吐くような痛みと息苦しさに意識が遠のく。普段はできるはずの、落ち着いた息の仕方が分からない。苦しい──!


 真っ暗になった視界の先で、何かが動く気配がした。

 ゆるい衣擦れの音と共に、誰かが僕の体を支えてくれる。ゆっくりと背中をなでる手の感触に、動転していた気持ちが少しだけ落ち着く。

(ハル、……じゃないよね?)

 いつも発作が止むまで側にいてくれる彼は、今日ここにはいない。何とか呼吸を落ち着かせた僕はそっと目を開いた。


「……ぁ!」


 白くぼやけた視界の中に人影が見えた。

 背中で括った白い髪。

 表情のない少し面長な顔。

 澄んだ緑色の瞳。

 背の高い体を屈めて、僕のことを抱きとめるように支えてくれている。


「……やっと、会え、ました……っ」


 もう会えないことが信じられなくて、泣いてばかりいた無力なシエリアの頃。そこから多くの幸運と助けを得て、僕はここまで生きてきた。

 もう一度、あなたと会うために。


「お父さま……っ!」

 こみ上げてきた涙を拭うこともなく、懐かしい彼の胸に飛びこむ。

 滑らかな服の感触と、温かな体温。こんな風に抱きしめ合える日を、何度夢に見ただろう──!

 肩を震わせていた僕の耳に、あの人の低く穏やかな声が届いた。



「……君は、誰なのだ?」



 その言葉を聞いた瞬間、体に冷たい氷を当てられたような気分になった。

「え……?」

 ぱっと体を離して見上げた先に、不思議そうな顔をしたあの人がいた。

 僕から逸らすことのない、緑色の真っ直ぐなまなざし。……生まれたての、何も知らない純粋な瞳。


 身体中からざっと血の気が引いてゆく。

 この人は、違う。

 姿が、声が、僕を見下ろすその緑色がどんなにあの人に似ていても。

 この人は、あの人と全く違う存在なのだと悟ってしまった。


「ぼ、ぼく、は……」

 乾いた唇をぱくぱくと動かしたけれど、言葉が続かない。


 だって、……僕は彼の質問に何て答えれば良い?

 無邪気にあの人に懐いて招来術を教えてもらっていた小さなシエリアなんてもういない。この世界のどこにもいないのだ。

 残っているのはただの、あの人よりも才能がある招来術師しょうらいじゅつしが一人だけ。昔のような関係になんて、はじめから戻れるはずがなかったのに。

 そんな当たり前のことを、僕はずっと、……君に聞かれるまで気づかずにいたなんて。


「……あは」


 整わない息の中で僕は笑った。馬鹿な自分と、このどうしようのない結末を。

 涙がこぼれたのはきっと、声にならないくらいに胸が苦しかったからだ。

「……初めまして、ハヴィク」

「ハヴィク?」

 深く息を吐いて、僕は顔を上げた。不思議そうな顔をしたままのハヴィクに笑いながら頷く。

「君の名前だよ。僕の、……大切な人の名前」

 唇に染みこんだ涙は、今までに感じたことのない程に苦い味がした。




「僕の名前は、シウル・フィーリス・イル・メルイーシャ。君の、主人あるじだよ」



 《第二章 完》

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