9話 金の花、銀の花

 ハルビオから聞いて知っていたけれど、工房生は工房に入門したからといってすぐに招来術しょうらいじゅつを教えてもらえるわけじゃない。

 工房に来た初日、僕は紺色の制服と、花のつぼみを模した銀色のバッチをもらった。


 つぼみの記章は工房生見習いの印だ。

 見習いは、招来術を研究する前に必要な基礎学問を学ぶ期間を指す。

 入門して五年間の内に八種類の検定試験に全て合格すれば、つぼみの記章は咲いた昼顔の記章へと変えられる。銀の花を咲かせてようやく、一人前の工房生と認められるのだ。

 そうして招来術を学び、最終的に工房長の許可が下りれば金のバッチが与えられ、正式な招来術師しょうらいじゅつしを名乗ることが許されるという流れだ。

 ちなみに、全ての試験に合格できないまま五年が過ぎた場合は適正なしと判断されて工房を追い出されてしまうらしい。銀の花を咲かせられず、志半ばのまま工房を去ってゆく人もそれなりにいるという話だった。


 工房に入った僕の当面の目標は、七種類の試験に合格して昼顔の花を咲かせることになった。


 八種類の試験と言ったのにどうして七種類なのかって?

 実は、トフカ語の試験だけは入ってすぐに合格してしまったのだ。


 僕にとって、トフカ語はあの人から教わって慣れ親しんだものだったけれど。たいていの見習い生は工房に入って初めてトフカ語を習うものらしい。

 基礎の基礎といった授業を三日間受けた僕は、思い切って先生に相談してみた。その日の内にトフカ語の検定試験を受けさせてもらって、結果は満点での合格だった。

「君には、古書を読み解く上級授業も必要なさそうだね」

 苦笑まじりに先生に言われて、僕はその後のトフカ語の授業を全て免除されてしまったのだった。


 空いた時間で、僕は研究棟一階の奥にある蔵書室を訪れるようになった。

 小さくノックをして重みのある扉を押し開ける。古い本とインクの匂いが漂うその場所は、僕を少しだけ懐かしい気持ちにさせてくれた。


「こんにちは、司書さま」

 僕が声をかけると、長い白髪を丁寧に束ねた司書さまもにこりと笑って挨拶してくれた。

「やあ、シウル君。こんにちは、いつも熱心だね」

 穏やかな鳶色とびいろの目をした司書さまは、老人、というにはまだ少し若い男の人だった。

 普段は日だまりでまどろむハトのようにおっとりとした優しい人だけど、蔵書の扱いに関してはとても厳しい。本を大切に扱う姿は記憶の中のあの人に似ていて、僕は司書さまのことがけっこう好きだった。


「この間の続き、また読ませてもらってもいいですか?」

 僕は司書さまのいる机に近づいて尋ねる。

 招来術の授業を受けられるのはまだ先でも、蔵書室の本ならつぼみの工房生でも自由に読める。

 それを知った僕は空いた時間を見つけてはここを訪れ、招来術に関する本を読むようになっていた。

「いいよ、いいよ。君は本の扱いもしっかりしてるからね、他の生徒たちより信用できるくらいさ」

 若いのに偉いね、と司書さまは僕を褒めてくれた。僕はくすぐったいような、そしてどこか誇らしい気持ちになった。

 たぶん、僕が工房生活の中で一番仲良くなった大人の人はこの司書さまだったと思う。蔵書室に他の工房生の姿がない時は、閲覧用の長机で一緒に他愛のない世間話をしたりもした。


「シウル君はたしか、クミン領から来たんだよね。どの辺りにいたの?」

「ラティカです。知ってますか?」

「ああ、保養地で有名な所だね。いいねえ、私も隠居したらそういう所で過ごしたいね」

 彼はそう言って笑うと、にこにことしたまま僕に聞いた。

「じゃあシウル君は、次の冬休みにはクミンに戻るの?」

「いいえ」

 僕が首を振ると、司書さまはきょとんとした顔になった。

「そうなのかい?」

「僕はもう、メルイーシャの養子ですから。義父上ちちうえからも、ここが僕の故郷だって言われましたし。だからもうクミン領には戻りません」

 僕の言葉を聞いた司書さまは眉を寄せた。少し考え込んだ後で、小さく声をひそめて聞いてきた。

「……メルイーシャの家から、君のお義父とうさんから何か言われてるの?」

「え?」

「シウル君、大丈夫? お家のことで無理してないかい?」

 どうやら僕の言葉は彼を不安にさせてしまったようだった。

 僕は慌てて手を振った。

「そんな、無理なんて。違いますよ司書さま」

 少し迷ったものの、心配そうにこちらを見る司書さまの視線に耐えきれなくなって口を開いた。

「義父上には本当に感謝してるんです。本当なら僕は、招来術師を目指すこともできなかったから」


 招来術師になるための門戸は狭い。

 工房はクーウェルコルト十四領のうち、始めの九領地に一つずつしかない。しかも入門できるのは領主の家の推薦を受けた男子でないといけない。


「僕、生まれつき病弱で。元の家でもずっとみんなに迷惑ばかりかけてたんです」

 僕は少しうつむく。

 嘘を信じてもらうには本当を少しだけ混ぜるのがコツだと、ハルビオが前に教えてくれた。

「でも、ある人がトフカ語を教えてくれて、招来術師の才能があるかもしれないって言ってくれて。それでメルイーシャまで来て義父上と会ったんです」

 僕は、義父上に少しだけあの人の面影を重ねながら言った。


「どこにも居場所のなかった僕に、義父上は居場所をくれました。僕に優しくしてくれて、本当の子どもみたいに接してくれて。……すごく、嬉しかった」

「シウル君……」

「だから僕は立派な招来術師になりたいんです。それで義父上のために、メルイーシャのために恩返しがしたいな、って……」

 気づけば、司書さまは鳶色の目をうるうるさせていた。ちょっと心を込めて話しすぎたかもしれない。

「そうか、そうか。あのロアン君がね、こんな良い子をねえ」

 ハンカチを取り出して目元を拭いながら司書さまが言った。

 僕はあれ、と首をかしげる。


「司書さまは義父上のことを知ってるんですか?」

「うん、まあねえ。あの子が工房にいた時は、色々あったからねえ」

 司書さまはあいまいに頷くと苦笑を浮かべた顔で言った。

「実は私ね、ちょっと不安だったんだよ」

「え?」

「君が、あのロアン君が選んだ養子だって聞いてたからさ。あの子みたいなお騒がせな子だったらどうしようって」

 彼は少し遠い目をした後で、ロアン君には内緒だよと言って笑った。

 その言葉を聞いて、工房で授業を受け始めた当初、年かさの先生方が僕に対して妙に警戒していた理由がようやく分かったのだった。


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