5話 僕と君とは、これから共犯
翌日、朝からロアンの使者だという人が彼女のことを迎えに来た。
神話の本を抱えたまま大きな屋敷に連れていかれた彼女は、まず使用人たちの手でしっかりと身支度を整えられた。
たっぷりのお湯を使って、嗅いだことのない良い匂いのする
招待したのがロアンだったせいだろうか。その日は不気味なほどに、誰もが彼女のことを丁寧に扱っていた。
「やあ、一日ぶりだね。待ってたよ」
案内された部屋の前で、当のロアンは相変わらずの笑顔を向けて彼女に言った。
「ここ、僕の部屋なんだ。さあ入って」
広くて、少しだけ花の匂いがする部屋の中。ロアンに勧められてふかふかのソファに座ると、使用人たちがお茶の準備をする間、彼女はそっと部屋の中を見回した。
印象的だったのは、部屋の隅にあるしっかりとした造りの書架だ。
あの人の書室にあったようなすり切れた本とは違い、革張りに金の箔が押された立派な背表紙の本がずらりと並べられていた。
「……お前、ほんとに本が好きなんだね」
声をかけられてはっとする。
向かいのソファから、ロアンが舐めるような視線をこちらに向けていた。
彼女が部屋を眺めていたように、ロアンもまたそんな彼女をじっと観察していたのだ。
「気になるなら貸してあげてもいいよ。トフカ語で書かれた本もいくつかあるはずだし」
「い、いいえ。だいじょうぶです」
そうしている内に、二人の間に置かれた卓に湯気の立つカップが差し出される。中身は澄んだ薄緑色をした、不思議な匂いのするお茶だった。
茶会の準備を整えると、使用人たちは一礼して部屋を去っていってしまった。残されたのは彼女とロアン、そして湯気の揺れるカップと皿に盛られたお茶菓子だけだった。
ロアンは嬉しそうにビスケットに手を伸ばしながら緊張した面持ちの彼女に言う。
「聞いたよ。お前、体が弱いんだってね。だから今日のお茶は体に良いって評判のやつにしてあげたよ」
「あ、ありが」
「あとそれね、めちゃくちゃ苦くてまずいとも評判なんだ」
彼女は言いかけた感謝の言葉をすぐに飲みこんだ。
この人、やっぱりすごく意地悪だ。
ロアンはそんな彼女の視線を受けて楽しげにふふんと笑った。
「別にかまわないよね。お前はただ、昨日の返事をしに来ただけなんだし」
その言葉を聞き、彼女の胸がどくりと鳴る。持っていた本を膝の上で強く抱え直した。
「昨日は言いそびれたけどさ……」
ロアンはビスケットのかけらを払うと、軽く首をかしげて彼女を見た。
「お前が
ロアンは少しだけ真剣な顔をすると、改めて彼女に尋ねた。
「それでもお前は、招来術師になりたいと思う?」
彼女はごくりと息をのむと、背筋を伸ばしてロアンに答える。
「……なりたいです」
あの人の見ていたものを見て、同じことを考える。
もう二度と会えないのなら、せめてその背中に近づきたい。
それが叶う望みの薄い、夢のようなものだとしても。
「招来術師に、なりたいです」
枯れ葉色の瞳を真っ直ぐに見つめて彼女は言った。
「わたしにできることなら何でもします。だから、どうかおねがいします……!」
しばらく黙り込んでいたロアンは、やがてほうと感嘆の息をこぼした。
「やっぱり。そう言うと思ったんだ」
その表情はまるで、宝物を見るようにうっとりとしたものだった。
彼は跳ねるようにソファから立ち上がると、彼女の側まで寄って昨日のように高く抱き上げた。
「まったく、どうしてあんなつまらない女から君みたいな子が生まれたんだろうね。その歳でその才能とその覚悟、……本当に君って最高だよ!」
そう言ってぎゅうぎゅうと抱きしめられると、彼女の方も少しどきどきした。
こんな風に大切に抱えられて。目線を合わせてくれて、褒めるような言葉をかけてくれて。そんなことはあの人がいなくなってから初めてのことだった。
きっと、彼女は誰かに優しくされることにひどく飢えていたのだ。
だからこそ、ソファに戻された後に言われたロアンの言葉には少しだけ戸惑った。
「でもね、今の態度じゃ全然駄目。不合格」
「え、え……?」
目を丸くする彼女に、席に戻ったロアンはひらひらと手を振って言った。
「別にこれは意地悪とかじゃなくてね。僕と君とはこれから共犯なんだ、君がへまをすれば僕も困ったことになるの」
だからね、と再びビスケットをかじりながらロアンは続ける。
「ここからは君を安心して工房に送り出せるまでの試験期間。どうせ今のまま工房に入ったところで君、一日と経たずに追い出されちゃうのが目に見えてるし」
「えっと、じゃあ、……どうしたらいいですか?」
彼女が不安げな顔で問いかけると、ロアンはよくぞ聞いてくれたとばかりに大きく頷いた。
「うん、そこでだ。……ハル、ハルビオ!」
ロアンは体をひねると廊下に向かって大きな声で呼びかける。外に誰かを待たせていたようで、すぐに部屋の扉が音もなく開かれた。
部屋に入ってきたのは使用人の服を着た男の人だった。といっても、先ほどまでお茶の用意をしてくれた人たちとは見た目の印象からして全然違う。
背は高く、体つきはがっちりとしていて、短い灰色の髪は丁寧になでつけられている。ロアンの方を向いた目つきは鋭く、なんだか怖そうな人だなと彼女はソファの上で身をすくめた。
しかしロアンは、そんな彼女を指差して軽い調子で言ったのだった。
「ハル、仕事。これを仕込んでやって」
「え?」
小さく声を上げた彼女に、ハルビオと呼ばれた男の人が初めて視線を向けてきた。
その顔は野生の動物のように静かで、何の感情も浮かんでいなかった。
「
両手の指を軽く組んで、ロアンは楽しげに言う。
彼女を少しのあいだ眺めた後で、ハルビオが初めて口を開いた。
「……かしこまりました」
ぼそりと低い声で、彼がロアンに問いかける。
「数年前の、貴方様のように仕上げればよろしいのですね?」
「うん、そんなかんじで頼むよ」
「期間はどの程度お許し頂けますか?」
「そうだね、できるだけ早い方がいいな。僕が飽きないうちに」
そう言って、ロアンはにこりと笑うと上目遣いにハルビオを見上げた。
「招来術については入ってから本人が何とかするから、上辺だけで構わない。経歴は大まかな部分は僕が考えて、細かいところは君に任せる」
「かしこまりました」
ハルビオとの話を切り上げると、ロアンはぽかんとしている彼女に向き直った。
「君には今日からハルビオと一緒に
「あの、えっと」
「君、さっき、できることなら何でもするって言ったじゃない」
それは、たしかに言ったけれど。
ロアンの話は急すぎて、彼女には理解が追いつかなかった。
「ハルに仕込んでもらってる間、僕はメルイーシャ工房の方に話をつけておくから。……ふふっ、工房を出る前にカザンに恩を売っといて正解だったなぁ」
そう言ってロアンはくつくつと笑った。冷めたカップに手を伸ばすと、彼女に向かって小さく片目をつむってみせる。
「工房でやっていけそうかの判断は僕がするから。その時はまた一緒にお茶しようね、シウル君」
「え、しう、る……?」
「では、シウル様。どうぞこちらへ」
彼女はハルビオに促されるまま、ひらひらと手を振るロアンに見送られながら部屋を出た。
ハルビオが一礼して扉を閉める直前、盛大に咳き込む声が部屋の中から聞こえてきた。彼女とハルビオは思わず顔を見合わせる。
「……げっほ、げほ、……まっず!」
薄く開いたままの扉の向こうからは、ロアンの涙声の文句が響いていた。
「もう、誰だよこんなお茶用意したのはっ!」
そういえば、と彼女は思い返す。
今日用意したのは体に良いと評判のお茶だと言っていた。ロアンは、自分が用意した嫌がらせに自分で引っかかったようだった。
無言で扉を閉めたハルビオは、ため息を吐くと小さな声で呟いた。
「……同情致します」
それはてっきりロアンに向けられた言葉かと思ったけれど。おそるおそる見上げると、ハルビオの顔は彼女の方を向いていた。
「仕事とはいえ、あの方に寄せなければならないとは。シウル様には同情を禁じ得ません」
この人、怖そうに見えるけど、実はすごく良い人なのかもしれない。
彼女はそう思った。
そうして彼女は僕──シウル・フィーリス・イル・メルイーシャになった。
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