4話 二人目の父親
彼女とアイラは、それから短期間に三度ほど住む家を変えた。
名ばかりでもリディア家の一員だったそれまでの暮らしとは違い、リディア領を去った後の彼女はどこに行っても役立たずの子どもでしかなかった。
知らない大人たちから心無い言葉をかけられ、手を上げられかけたことも何度かあった。アイラの姿はどこにも見えず、五歳の子どもにとって記憶から消し去りたいほどに辛くて心細い日々が続いた。
誰もいない場所に隠れてあの人の本を読むことだけが、彼女の唯一の拠り所だった。
優しい匂いの残るトフカ語の文字をなぞるたびに、あの人の声を、話した言葉を思い返す。
もう一度あの人に会いたい。
話をして、抱きしめてもらいたい。
そう思うたびに、枯れるほど流したはずの涙をまた流す。
そんな日々だった。
転機が訪れたのは、冷えた空気の漂いはじめた秋の日のことだった。
いつものように無人の部屋を探し出し、ベッドの陰に隠れて神話の本を開いていた時のこと。すぐ近くから明るい声をかけられた。
「何を読んでいるのかなぁ?」
部屋の扉が開かれた気配はない。彼女は驚きに顔を上げた。
くせのある赤い巻き毛に、猫のようにぱっちりとした枯れ葉色の瞳。こちらを見下ろしていたのは使用人とは違う、見たことのない若い男の人だった。
「最近ね、
そう言って、男の人は逃げようとした彼女の手から無造作に本を取り上げた。ぱらりとページをめくると意外そうな声を上げる。
「へぇ、全部トフカ語。これ、お前みたいな子どもに読めるものじゃないよね?」
「か、返してください!」
慌てて手を伸ばしたものの、彼はさっと身を
「あ、そうだ。言ってなかったね」
彼女を見下ろしてにこりと笑みを浮かべる。その顔は見つけた羽虫を嬉々として潰す無邪気さを帯びていて、彼女はびくりと体を震わせた。
「初めまして、僕はロアン・シャリエフ・イル・メルイーシャ。この間アイラと結婚してね、今後はお前のお
ロアンと名乗ったその男の人は、当時十八歳。
あの人よりもずっと若く、体つきはやや小柄で、性格もあの人とはまるで真逆のような人だった。
彼女はごくりと息をのむと彼に声をかけた。
「ろ、ロアンさま」
「あ、お義父さま呼びは嫌だった?」
ちょっと期待してたんだけどな、と呟いたロアンから目を逸らす。
呼べるはずなんてない。彼女の「お父さま」は静かで優しいあの人だけなのだから。
「ロアンさま、その本を返してください」
おそるおそる言葉を重ねる彼女に、ロアンはあからさまにつまらなそうな声を上げた。
「でもお前、これ読めるの?」
手元の本をまじまじと眺めたロアンは、ふと意地悪く笑った。
「読めないものを持ってても仕方ないじゃん。良かったら、僕が代わりに新しい本を買ってあげるよ?」
「い、いえ、読めます。だから……」
「じゃあ読んで」
えっと彼女が目を見開くと、ロアンは逆に猫のような目を細めた。
「トフカ語が読めるなら今ここで証明してよ。大切なものなんでしょ、これ?」
わくわくと見定めるような視線。そして、その手の中でゆらゆらと揺れるあの人からもらった本。
「ほら、早く。それともこれを売り飛ばして、君にも読めそうな簡単な絵本を買ってあげようか?」
その言葉を聞き、彼女は目に涙を浮かべてぎゅっと両手を握った。
こんなに辛い日々の中で、あの人との思い出まで失うわけにはいかない。
その思いが彼女の心を決めた。
「さ、三十七ページ。緑の双子星、シウルとラエル」
「え?」
きょとんとしたロアンの前で深く息を整える。本を奪われたまま、彼女は震える唇の上に何度もなぞった物語を乗せた。
『
その
その
ゆっくりと、正確に、トフカ語を紡いでゆく。物語に意識を向ければロアンのことも本のことも、一気に意識から遠のいていった。
優しく賢い緑の星のきょうだいは、あるとき好奇心から、清らかな天上を離れて眼下に広がる地上の世界へと旅に出る。
そこで出会うのは、美しくも残酷な性格をした花の乙女アルアーラ。
彼女の腕に捕らわれた二人は抱き合って死を覚悟するが、弟星ラエルが機転を利かせてアルアーラの目を奪うと、兄星シウルをその腕から逃がしゆく。
そしてシウルだけが一人、天上の世界へと
彼女の最初の物語。
トフカ語を習うきっかけとなった物語。
彼が初めて、彼女に話してくれた物語だ。
その一言一句を違えるはずがない。
『
シウル、
全てを語り終えた彼女は大きく息を吐いた。
人前でトフカ語を
「……ぁ、ひゃぅ!」
不意に彼女の体が宙を舞った。
二本の腕が彼女を空中に掲げるように持ち上げている。見下ろした視界に、興奮した様子のロアンの顔が映った。
「すごい、とんだ掘り出しものだ!」
「え、え?」
「研究以外には興味のない堅物だって聞いてたけど、まさかこんな逸材を仕込んでるなんて。なかなかやるねぇ、お前の父君は!」
枯れ葉色の瞳を大きく輝かせたロアンは彼女を一度だけぎゅっと抱きしめると、丁重な手つきで近くの椅子に座らせた。目を白黒させる彼女の前にうやうやしい仕草で神話の本を差し出すと、手の塞がった彼女の両頬をそっと挟んでその顔をのぞき込んだ。
逸らせなくなった視線の中で、ロアンがじっとこちらを眺めてくる。
「本当に面白い。僕、気に入っちゃったよ。お前のこと」
囁かれた声には先ほどにはない熱があった。
縫い留められたように硬直する彼女に、ロアンは小さく笑いかける。
「……お前さ、
「え?」
目を見開いた彼女に、ロアンはいたずらっぽく首をかしげた。
「お前の父君ってね、招来術師だったんだよ。工房に所属して
その言葉に体がこわばる。
招来術のことは誰にも話さないとあの人と約束していた。特に目の前の、ロアンのような人に話してはいけないような気がしたのだ。
「な、習って、ません……」
「あはっ、別に僕は気にしないよ?」
彼女の頬から両手を離したロアンはからからと笑う。
「死人を罰することなんて誰にもできないし。ルール違反は僕も大好きだからね、お前の父君には親近感を覚えるくらいだよ」
「な、何を、言ってるのか、わたしには……」
おどおどと視線を揺らしながら言うと、ロアンはすぐにつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ふぅん、それなら別に良いけどさ」
ロアンは椅子に座る彼女を見下ろして小さく肩をすくめる。
「でもさ、お前に招来術師にならないかなんて言えるのは、クウェン広しといえど僕だけだよ。お前の父君だって、絶対そんなこと言わなかったはずだ」
その言葉は、意外にも深く彼女の心に突き刺さった。
彼の言葉は図星だった。
君には才能があると思う。
君に教えることができて嬉しい。
あの人は彼女にそう言いつつも、だから招来術師になればいい、とは絶対に言わなかった。
彼女の動揺を知ってか知らずか、ロアンがことさら優しげな声で言った。
「ねえ、これはお前にとって大きな
彼の言葉は甘く、悪魔のような毒を持っていた。
その毒が耳の奥から体中へと巡り、骨にまで染みこんでゆくのを待った後でロアンは彼女に提案した。
「明日、お前を午後のお茶に呼ぶからさ。その時に答えを聞かせてよ」
それだけ言うと、彼は満足そうな顔で背を向ける。くせのある赤毛の後ろ姿が廊下へと出てゆくのを、彼女は呆然と見送った。
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