3話 別離
それから一年ほどの間、彼はたびたび書室で
扉を閉めきり、
四精石の特性。
それらについて語る彼の顔は普段とは打って変わって生き生きとしていて、それが彼にとってどれほど大切なものかが感じ取れた。
ただ、気がかりなことは一つだけあった。
彼女に招来術を教えるようになってから、彼が自分のために本を開くことがめっきり減ってしまったのだ。今まではあんなに真剣に文字を追っていた人だったのに。
彼女は一度、彼にそれを尋ねたことがあった。
「お父さまのおしごとは、大丈夫なのですか?」
「ああ、それは……」
少しだけ寂しそうに顔を伏せた後で、彼は小さく首を振った。
「もう、いいのかもしれない」
「何が、いいのですか?」
「自分の限界を見定めるのも成長だ、ということだよ」
不思議そうな顔をした彼女の手から引かれたばかりの回路図を受け取ると、彼は眼鏡の奥で緑の目を細めた。
「君の描く回路図は既存のものにとらわれない新鮮さがある。君に招来術を教えられたことは、私にとっても幸運だった」
そう言われたものの、彼女は素直に喜べなかった。
言葉と裏腹に、彼の顔が暗く沈んでいたことに気づいたからだ。
「惜しいな、もし君が男だったら……」
その続きは彼の喉の奥に消えていった。
荒れる吹雪の冬を抜け、リディア領に再び緑の季節が訪れる。
けれど、その年の夏は空模様がひどく荒れていた。照りつける日差しに川の水が干上がったかと思えば、急に現れた暗い雲から雷と氷の粒が降り注ぐ。リディア領内の作物はその年、壊滅的な打撃を受けたそうだ。
ただでさえ季節の変わり目に弱い彼女は春の頃から高熱を出して
当然、彼の書室へも行くことはできない。
もし彼が見舞いにきてくれればと思ったものの、そんな日は訪れることなく夏は過ぎていった。
ある日、彼女は夜遅くにはっと目を覚ました。
ベッドから起こした体は重い。暗い部屋の中に使用人の姿はなく、ベッドの側には水差しが用意されていた。
ぬるい水をゆっくりと飲み干した後で、彼女はふとベッドを下りた。
夜中に部屋を出ようと思った理由は、思い返してもよく分からなかった。外の気配が妙に騒がしかったからかもしれないし、直前に見ていた夢見のせいだったのかもしれない。
不安な気持ちが拭い切れないまま、彼女の足は廊下の先にある書室へと向いていた。
(お父さまに、会いたい……)
思えば春先からひと月以上、彼に会っていない。
べたりと生ぬるい空気の中、彼女は薄く明かりの灯る廊下をふらふらと歩いた。
書室の扉は薄く開いていた。
中に彼がいるのだろう。部屋の明かりが少しだけ、廊下にまでこぼれてきていた。
「お父さま?」
扉のすき間に体をすべり込ませて彼の背中に声をかけると、彼はゆっくりとこちらを振り返った。
その顔を見上げた瞬間、彼女は驚きに息をのんだ。
「……貴様が、アイラの
そう吐き捨てるように言ったのは、彼ではなかった。
背は高く、髪は彼よりも短く薄い金色をしている。
彼女を見下ろす二つの目は彼とよく似た緑色だったが、そこに宿る光は彼とはまるで真逆のように見えた。
「ハヴィクは死んだ」
「ぇ……?」
「貴様らの差し金だろう?」
彼に似た人が苛立たしげに机を叩く。乱暴な音に彼女の心臓が大きく跳ね上がった。
「あれの再婚に飽き足らず領内を良いように食い荒らし、最終的にはこの仕打ちか。牝犬共め……!」
びりりとした凄みに彼女の喉が声にならない悲鳴を上げた。鋭い視線に射すくめられ、ただ立ちつくして震えることしかできなかった。
「……だが。親父殿が隠居した今、リディア家当主は俺だ。弟は最後の犠牲、これ以上ルアナの好きにはさせない」
彼の言葉の意味など半分も分からなかったけれど、彼が誰なのかだけは何となく分かった。
カドウス・サライ・アル・リディアン。
あの人の兄であり、リディア領の次の領主となる人間。兄上は容赦がないから敵に回したくないと、以前彼がぽつりと呟いていたことを思い出した。
病み上がりの頭がぐらぐらとした。
彼が死んだという言葉はまだ信じられず、それ以上に目の前に立つこの男の人がとても恐ろしかった。
全てが、悪い夢のようだった。
彼の葬儀の後、彼女とアイラはリディアのお屋敷を追い出された。
彼女の手には一つだけ、オットーの神話の本だけが残った。
アイラと一緒に詰め込まれた馬車の中、彼女は慣れない揺れにひどい馬車酔いをおこした。本当に、気を失っていた方がましだと思えるほどの辛さだった。
繰り返す
黒い雲の下には、草一つ生えない荒れた畑が延々と続いている。
それが、彼女が最後に見たリディア領の風景だった。
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