2話 四色四晶の、世界の縮図
夏の日差しを避けるように、涼やかな書室の机に向かっていた日。珍しく外から扉を叩く音が響いた。
思い思いに文字を追っていた彼女と彼は不思議そうに薄く開いたままの扉の方を見る。
外からそっと使用人の声が届いた。
「失礼致します、旦那様。ただ今、カドウス様がお見えになられまして」
「兄上が?」
その言葉を聞いた彼は少しだけ嫌そうな顔をしていた。彼女の前ではあまり見せない表情だった。
「何か、そんな予定があっただろうか?」
「いいえ、たまたま近くへ寄られたとのことで。旦那様とお話になりたいと、下でお待ちになられております」
彼は眼鏡を取って目を閉じた。
その顔を見つめる彼女の視線に気づくと、彼は小さく息を吐いて席を立つ。
「……分かった。すぐに向かうと伝えてくれ」
「かしこまりました」
使用人の足音が聞こえなくなると、彼は読んでいた本を書架にしまった。
たとえ血の繋がった兄弟とはいえ、時期当主の前に着古した部屋着で会うのは失礼になるのだろう。隣の部屋は彼の私室だったので、そこで軽い身支度をする様子だった。
部屋から出ようとした彼は、席に座ったままの彼女に声をかけた。
「君はどうする、部屋に戻るかい?」
「……まだ、ここにいてもいいですか?」
「構わないが、こちらもどれだけかかるか分からない。もし部屋に戻るようなら扉だけ閉めて帰りなさい」
「はい、お父さま」
彼が出て行くと、書室の中はしんと静かになってしまう。
彼女はふうと息を吐くと、読んでいた本を閉じて室内を見回した。
たくさんの本が並べられた書架に、秤やものさし、図面を引くための道具。改めて眺めると、彼の書室には何に使うかも分からない不思議なものがたくさん置いてあった。
そうしている内にふと、彼の座っていた席の前に石の標本が置いたままにされていることに気がついた。
彼がよく眺め、物思いにふけっているもの。少し考えた後で、彼女はそっと椅子を下りた。
机の下をくぐり、向かいにある彼の椅子によじ登る。もし見る人がいれば、たしなめたくなる程のはしたない姿だっただろう。
彼女は踏破した達成感のまま、椅子の上に立って標本を見下ろした。
「わ、きれい……」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
赤、青、黄、そして緑。
とても小さな結晶が静かに飾られた箱。
初めて見る彼女にも、それが神秘的なものだと一目で分かった。
彼女はガラス越しに、石の側に刺された紙片のトフカ語を読んだ。
『…か、かせいせき、だいいっしょう、……ここう』
彼女の紡いだトフカ語に、台座に納められた赤い結晶がきらりと瞬いた。
『はんもく、ゆうわ、かんよう
ししょく、ししょうの、
せかいのしゅくず……』
初めて
「しせいせき、しせいせき……」
彼女は熱に浮かされたように椅子を下りると、背後にある書架に手を伸ばした。彼がつい先ほどしまった本の位置は目に焼き付いていた。
「ん、これ、だったかな。……わぅっ」
書架はすき間なく本が詰められ、背を伸ばして引っ張れば周りの数冊を巻き込んでばらばらと降ってきた。持ち上げて机に上げることも元の位置へ戻すこともできなくなったそれらを、彼女は夢中になって広げた。
『……げ、んしの、いし
うつわに、とど、め……』
書かれているトフカ語の文章は思う以上に難解で、最初のページでさえ半分も読み解くことはできない。それでも彼女は、分かる単語の中から何とかその内容を知ろうとページをめくった。
『…ことを、そうぞう……
しょうらい、じゅう……』
知りたい。
ただ知りたかった。
あの標本の石たちが何なのか。この本は何を創るための本なのか。それがどれほど、あの人にとって大事なものなのか。
その全てが知りたいと思った。
どれだけ時間が経っていただろう。窓から見える空は赤みを帯びて書室を照らしていた。
床に座りこんで文字を追いかけていた彼女は、扉が開く音にはっと息をのんだ。
「まだ、ここにいたのか」
聞こえてきたのは彼の声だった。
「もうじき夕食だろう、そろそろ部屋に……」
顔を上げると、扉の前で立ちつくす彼の姿が映った。その目が床に散らばる本に向けられているのに気づいた瞬間、彼女の顔からざっと血の気が引いた。
お父様の仕事の道具に触らない。その約束を派手に破ってしまったことに、今さらながらに気づいたのだ。
「……君は」
「ご、ごめんなさいっ」
彼に叱られてしまう。嫌われてしまう。
もう二度とこの書室に来るなと言われてしまう。
それは、考えるだけで息が止まるほどの恐怖だった。
「お父さまとのやくそくを、やぶって……っ」
急にぼろぼろと泣き出した彼女に、彼は戸惑った声を上げた。
「お、落ち着いてくれ」
「もう、しません、しませんから……!」
彼がおろおろと彼女を抱き寄せてその背中をさすった。着替えたての真新しい服の匂いが彼女を包む。彼の手のひらはとても温かかった。
「たしかに勝手に蔵書に触られては困るが、……反省しているなら怒りはしないから」
「ほ、んと……に?」
「本当だ」
おそるおそる顔を上げると、ぼやけた視界の中で彼が大きく頷くのが見えた。
「どうしても本が読みたいなら、扱い方も今度ちゃんと教える。危ないから一人で勝手に書架から出さないように」
そう言って彼女の頬に触れると、彼は小さく眉を寄せた。
「……それよりも。ずいぶんと体が冷えているじゃないか」
彼は鼻をすする彼女を抱き上げると、すぐ側にあった自分の椅子へ座らせ、春の間に使っていた膝掛けを彼女に渡した。
「暖かくなったとはいえ、君は体が弱いのだから。床で本を読むのだけは止めなさい」
「は、はい……」
膝掛けを抱えた彼女が頷くと、彼は床に置き放された本を片づけるために書架に向き直った。
本に傷がないかを調べ、元通りに書架へ収めてゆく。その背中を眺めていた彼女は、そっと彼に声をかけた。
「お、お父さま」
振り向いた彼に、彼女はどうしても気になっていたことを尋ねた。
「しょうらいじゅ、とは、何ですか?」
彼は驚いたように動きを止めた。
「どうしてそれを?」
「本に、かいてありました」
「ああ、しかし、……気になるのかい?」
聞いた彼女が不安になるくらい黙りこんだ後で、彼はため息を吐くとぎこちなく笑った。
「君は、変わった子だ」
彼の笑う顔を見たのは、この時が初めてだった。
「こんな私に懐いたり、その歳で
「お父さま?」
「そうだな。私が君に与えてやれるものなど、他に何もないのだし。君が知りたいなら招来術について教えよう」
「ほんとうですか?」
声を上ずらせた彼女を見下ろすと、ただしと言って彼は人差し指を自身の唇に当ててみせた。
「私が君に招来術を教えることは決して誰にも話さないでほしい。二人だけの秘密だ、……分かったね?」
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