第一章 シウルに至る夢

1話 扉をひらいて

 彼女が生まれたのはクーウェルコルト西岸、バファル海に面したリディア領。クウェン十四領の中でも、始めの九領地と呼ばれる地域だった。


 彼女の父親はハヴィク・オルニス・イル・リディアン。リディア領主の次男で、若い頃からリディア招来術しょうらいじゅつ工房に入門して研究に励む招来術師しょうらいじゅつしだった。幼い頃から将来を誓い合っていた最初の奥方を病気で亡くしてからは特に、自身の屋敷に戻ることもなく招来術に没頭していたという。


 そう、アイラは彼の再婚相手だった。

 豪商ルアナ家の、派手好きのアイラ。

 彼女はハヴィクとの結婚式からわずか半年後に娘を生んだ。彼とは目の色も顔立ちも全然違う、唯一髪色だけが同じ銀髪の娘を。

 ハヴィク・オルニスは、ルアナ家が見繕った体のいい結婚相手だったのだろう。今まで通り招来術の研究を続けられることを条件に、彼は父親であるリディア領主に言われるままアイラとの再婚を受けたのだ。

 そこに愛など、かけらも存在しなかったはずだ。


 だからこそ、そんな彼がたびたび自分の屋敷に帰って来るようになったことに、使用人たちは大いに驚いたようだった。


「ごほんを、おへやでよんでもいいですか?」

 二階の奥にある書室の扉を叩いて、彼女はそう問いかける。

 そこは彼の私室のすぐ隣で、使用人たちもめったに近寄らせない場所だった。

 古びた部屋着に読書用の眼鏡をかけた彼は、困ったような顔で廊下に立つ彼女を見下ろしていた。

「おとうさまの、おしごとのどうぐにさわりません。じゃまをしません。おとなしくしています」

 勇気を出して彼女が言葉を重ねると、彼は小さく息を吐いて頷いてくれた。

「……よろしい。入りなさい」

 そうして彼女は、乾いたインクの匂いに包まれた書室の中に迎え入れられた。


 彼女にとってそこは、お屋敷のどこよりも心地よく優しい場所になった。何度目かに訪れた際、用意されたひざ掛けや子供用の椅子を見た時は嬉しさのあまり彼の脚に抱きついた。ここにいて良いのだ、と初めて言われた気持ちがした。


 彼女は自分の席に座り、机の上に持ってきた絵本を広げる。彼はいつもその向かいで、大きく分厚い本を読んでいた。時々思いついたように側に置いた紙片に文字を書きつけたり、石の標本のようなものを眺めながら物思いにふけるように目を閉じたりもしていた。

 彼の読んでいるものや、考えていること。それはとても気になったけれど、彼女は何も言わなかった。

 余計なことを言って、彼に与えてもらえた居場所を追い出されたくなかったのだ。


「君は、いつも同じ本を読んでいるね?」

 ある時、彼は絵本を読む彼女に言った。

「君くらいの子なら、もっと可愛らしくて楽しい話を好むだろうに。そんなにその話が好きなのかい?」

 彼に話しかけてもらったことは嬉しかったけれど、彼女は返事に困ってしまった。

「わたし、このごほんしか、もってなくて。だから……」

 彼女は他の話というものを知らなかったのだ。

 新しい絵本を与えてくれるような人もいなかったし、それを欲しがって良いのかも分からなかった。

「だから、いつもその本なのかい?」

 驚いた様子の彼に、彼女は慌てて言葉を重ねる。

「でも、でも、このおはなしはすきです。シウルがそらから、ほたるつゆくさをみるところは、すごくきれいで。それに、えっと……」

「……そうか」


 彼は少し考えた後で、席を立って背後の書架から一冊の本を抜き出した。そうして彼女の側まで来ると、机の上にそっと本を広げた。

 はらはらとページがめくられる。古い紙の少し甘い匂いが鼻をくすぐった。

 一つのページで彼の手が止まると、彼女の耳元で静かに息を吸う音が聞こえた。


夜空よぞら幾千いくせんほしうち

 一際ひときわかがやみどりふた星在ぼしあり』


 見たことのない文字を指でなぞりながら、彼は聞いたことのない響きをその唇に乗せた。

「……夜の空にはたくさんの星がありましたが、その中に、ひときわまぶしい緑の双子星がありました」

 彼が、今度は彼女にも分かる言葉を読む。

 それは、彼女が広げた絵本の最初のページの一文だった。


 きょとんとした彼女が顔を上げると、彼は困ったように目を逸らしながら言った。

「ここに絵本はないが、オットーの全集ならトフカ語の写本がある。君がトフカ語を覚えれば、他の話も読めるようになるだろう」


 思えば、彼は何とも不器用な人だった。

 もし彼女に新しい話を、と思うなら使用人に命じて絵本を取り寄せるだけで済む話だ。それを、わざわざ自分の時間を割いてまで、まだクウェン公用語さえおぼつかない彼女にトフカ語を教えようというのだから。


「とふかご? おとうさまが、ごほんをよんでくれるのですか?」

「君が覚えるまでは。そうしたら後は一人で好きに読みなさい。もし分からなければ、その時は私が教えよう」

 もちろん彼女にとって、それはとても嬉しいことだった。彼が自分のためだけに物語を読んで聞かせてくれるのだから。

 本をなぞる指先、穏やかな声、新しい単語、言葉の連なり。

 それは、同じページを繰り返すだけだった彼女の時間が、新たな知識と共に進んでいった瞬間だった。


「これは君にあげよう。分からないところがあれば、また聞きに来なさい」

 彼はそう言って、トフカ語で書かれた神話の本を彼女に持たせてくれた。すり切れた絵本の上にもらったばかりの本を重ねながら、彼女は目を輝かせて大きく頷いた。

 それから彼女はどこに行くにもその本を抱え、彼が教えてくれたトフカ語で少しずつ未知の物語を読み解いていった。

 彼の助けを借りながら、全てのページを読み終えたのは季節が夏へと移り変わった頃のこと。

 その頃には、彼女は簡単なトフカ語の文章なら一人で読み書きできるようになっていた。


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