終章 百年後の空

終章 その1

 おれは空を飛ぶことを単なる移動手段とは考えていない。空には喜びがあり、希望がある。飛ばなければ見ることのできない景色がある。だから、飛行機なら数時間の距離を何日もかけて歩いていくことにも、その道程でしか得られない何かがあるのだと信じている。

 砂漠の真っ只中からの帰路は過酷な行程だった。その道程はおれに様々なものを突きつけてきた。命の重さ、苦しみの中で望みを失わずにいること、かけがえのない友。地上を歩いていても、空を飛んでいても、本当に目を向けるべきものは何も違わないのかも知れない。

 都市を離れて遥か南へ、おれは再び灼獄砂漠を訪れた。誰にも告げずに出立してしまったので、もしかしたら心配されているかも知れない。しかし、危ういところで命を拾った過酷な土地を再訪したいなどと口にすれば、確実に引き留められる。おれは誰に何を言われようが意思を変えないが、その頑なさで誰かを傷つけたくはなかった。

 アトラスには置き手紙を残してきた。しかし、やつにそれを読んでほしいと思っているのか、自分でも分からなかった。

 こうしなければならないことは、初めから決まっていた。おれはスカーレットともう一度、互いに敵意を向ける必要のない状況で話がしたかった。二度までも彼女を邪険に扱うことになったのは本意ではない。失意の中で飛び去っていった彼女の姿を思い出すと、おれは悲しい気持ちになる。

 彼女は最も大切な友のひとりだ。落ちぶれたことを詰られようと、殺されかけようと、彼女を憎むことはできない。ラトルーネイア号を破壊されたことは、簡単には許せない。アトラスが死ぬほどの苦しみを味わったことも、早々、許す訳にはいかない。それでも、彼女に対する怒りが憎悪にまで膨れ上がることはなく、懐かしい友情が在りし日の姿を保ち続けていた。

 おれにとってスカーレットはそういう相手だ。彼女かアトラスか、一方を選ぶようなことはできない。おれが人間たちと決別することが彼女の望みだからといって、寂寥の砂漠に放置しておく訳にはいかない。

 長い道程を歩きながら、おれの心はどこか空虚なものを抱えていた。全てが元通りになることは決してないのだと思うと、どうしようもなく気分が沈んだ。おれのそんな胸の内に応えるかのように、辿り着いた砂漠は以前の熱量を失って寒々としていた。夜だということだけでは説明がつかず、スカーレットの心象風景が投影されているのではないかという気がした。

 真夜中の砂の海には孤独が満ちていた。周囲四方の見渡す限りに砂だけが延々と積もり、風が砂塵を巻き上げることすらない。頭上の星々の瞬きのほか、何も動くものはない。前回、この地には光と熱が痛いほどに降り注ぎ、あらゆる生き物の立ち入りを拒むかのようだった。今や凍えそうなほど冷え込み、月下の砂原は幻想的な雰囲気をまとっていた。

 月の光が美しい。月はいくらかの雲を引き連れ、月光は雲によって散乱して虹色に輝いていた。

 地上、砂の上に立つと、砂漠は広大無辺の世界になる。おれはその雰囲気を好ましく感じる。この地に長く留まるスカーレットにとっては、どうなのだろう。ここは砂ばかりだ。彼女は水が好きだった。火を統べる女王のごとき存在でありながら、その性質と相反する好みを有していた。思えば、彼女はずっと、自らの矛盾に苦しんでいるのかも知れなかった。竜の傲慢なほどの誇り高さは、優しい心根とは相容れない。

 おれがアトラスの助けを必要としたように、彼女はおれの助けを必要としていたのかも知れなかった。

 この砂漠がどれほど広大でも、時間をかければスカーレットの所在を見つけるのは難しくない。この地は今でも彼女の支配下にあり、彼女の波長の魔力に満ちていた。その流れを辿れば、いつでもスカーレットの下を訪れることができる。まるで導かれるように、一切迷いなく、おれは進んだ。

 砂漠に入って二時間ほどで、半ば砂に埋もれた赤い竜を見つけた。竜は微睡み、その傍らには大破したラトルーネイア号の残骸が転がっていた。

 近寄ると彼女は目を開けて、おれを見た。煩わしそうに砂を振り落とし、人間体へと姿を変じると、彼女は美しい少女の顔で不満げに唇をとがらせた。

「こんなに早く心変わりするはずないわ。何をしに来たの」

「お前と話をしに来た。前はそれどころではなかったからな」

「今日は歩いてきたのね。結局、あの人間は死んだの?」

「いや、生きている。おれが街を出たときには、まだ意識は戻っていなかったが、容態は安定していた。今頃は目を覚ましているかも知れないな」

 おれの視線の先に気づいたのか、スカーレットは二度と飛ぶことのない飛行機を指さした。残骸を全て回収したかのように、大小様々な破片があった。最も大きな断片は機体後部のもので、まだ原形を留めていた。

「気になる? 拾ってきたの」

「何のために?」

「あなたの匂いがする気がして。魔力の残滓なのは分かっているけれど、少しでもあなたを側に感じたかった」

 彼女の瞳には暗い炎が仄かに灯り、彼女と目が合うと、星々の光もその瞬きを止めたような心地がした。きっと、今の彼女は灼熱の日射しも凍える暗がりに変えてしまう。彼女の瞳には、その冷え切った胸の内側が表れていた。

「お前はなぜ、この砂漠に留まっている。どこへでも飛んでいけたはずだ」

「行きたいところなんてないの。わたしの居場所はどこにもない」

「それなら、おれと来い。こんな寂しい場所にお前を置き去りにしたくない」

「それで、人間の街に? 嫌よ。あなたはわたしを切り捨てて人間を選んだ。両方と共にいることはできないわ」

 スカーレットは燃えるような瞳でおれを射抜いたまま、一歩、また一歩と距離を詰めてきた。

「何度でも言うわ。わたしはあなたを愛してる。あなたなしでは生きられない」

 彼女はしなやかな両腕をおれの首に回そうとしたが、おれが顔を背けると、傷ついた表情で動きを止めた。

「どうして?」

 月の光がおれたちの間に差し込まれ、そのわずかな距離が永遠の隔たりに感じられた。蒼い悲しみの色に染まった世界で、彼女はただ、海より深い悲哀の中からおれを見つめていた。

 かつて、おれとスカーレットの間にあったのは純粋な友情だった。しばらく会わなかった間に、何が彼女の心を変えたのか。ここ数年で彼女が何を経験をしたのか、おれは知らない。国を滅ぼすほどの怒りを彼女にもたらしたものについて、おれは尋ねない。

 傷を抉るつもりはない。

 彼女は深く傷ついている。見ていれば分かる。

 友だちなのだから。

「スカーレット。お前の口にした愛が、友情とは種類の異なるものだということは、理解しているつもりだ。おれは、お前の気持ちに応えられない」

 おれたちは互いを愛していたが、どちらも相手の望む愛し方はできなかった。彼女の胸の内を、おれは想像することしかできないというのに、本当の答えは彼女からしか与えられないというのに。凍えるような風が吹いて体から熱の失われていく感覚が、そんな時間は残されていないのだと告げていた。

「あなたまで失いたくない。この世でわたしを気にかけてくれるのは、もうあなただけなのに」

「お前の友であることをやめるつもりはない。お前の求めるものとは違っても、代わりにはならないのか」

「それじゃあ足りないの」

 彼女の頬をつたう涙の雫は、地面に落ちると乾いた砂に染み込んで消えた。おれはどうして、嘘でも彼女の望む言葉を告げられないのだろう。きっと、嘘だと気づいてしまったとしても、少しくらいは彼女の心が救われるはずなのに。

 より残酷なのは、一体どちらなのだろう。結局、彼女を傷つけることに変わりはないというのに。そんなことを天秤にかけても、意味はないのに。おれは考えることをやめられなかった。

 まだ、おれが誰も失っていないから分からないのだろうか。アトラスは確実に、おれより早く死ぬ。どれほど長生きしても、やつは残り数十年の命で、おれには数百年の寿命がある。多くの友に先立たれて初めて、おれはスカーレットの心を理解するのだろうか。

 百年後、おれは誰と共に空を飛べばいいのだろう。

 そのときが来たら、おれはどうなってしまうのだろう。代わりの誰かを求めるのだろうか。それでも、スカーレットをアトラスの代用品のように扱うのは、絶対に間違っている。

「ヴァーミリオン。わたしを殺して。それが、あなたがわたしに与えられる、最後の慈悲よ」

「違う」

「違わないわ。わたしは死んでしまいたいの。今でも友だちだって言うのなら、わたしの苦しみを終わらせて」

 スカーレットは一切の希望を抱いていない。おれが最後の望みを断ち切ったせいで、彼女には失意と絶望しか残らなかった。この上、最期の願いさえも聞き届けないのでは、おれに彼女の友を名乗る資格はない。

 おれは手のひらの上に風を収束させた。竜の鱗すら切り裂く風の刃なら、痛みを感じる間もなく彼女の命を奪うことができる。しかし、おれはそんなことのために風を起こしているのではない。そんなことしかできないのが友情なら、捨てることになっても構わない。おれの内心など知らないスカーレットは悲しげに微笑み、目を閉じた。

「後悔しないか?」

「わたしが死んだら、少しは嘆いてくれる?」

「少しで済むものか。おれが死ぬまで、ずっとだ」

「それなら、心残りはないわ」

「分かった」

 おれは収束させていた風を解き放ち、鋭い風切り音が響く。月光も涙も吹き飛ばすような強い風が吹き、砂を被っていたラトルーネイア号の残骸が浮き上がる。確認するように片目を開いたスカーレットが何もしないうちに、素早く彼女を抱き上げて、おれは飛行機に飛び乗った。

 渦を巻く旋風が深い眠りのように穏やかな砂漠の夜を切り裂いて吹き荒び、上昇気流がラトルーネイア号を再び空に舞わせる。大破した機体には眺めを遮るものがなく、明るい星空がよく見えた。

 スカーレットは身を固くして、不信感もあらわな表情を浮かべていたが、おれは彼女をしっかり捕まえて逃さなかった。

「一緒に空を飛ぶのは久しぶりだな」

「吹き飛ばして、落ちていくだけでしょ。こんなの、飛ぶとは言わない」

「何と定義しても構わないが、このまま、海が見える高度まで上がるつもりだ」

 彼女は水が好きだった。よく一緒に海の上を飛んだものだった。長い間、砂漠に留まっていた彼女は、もうずっと海を訪れていないはずだ。最後に水平線を見たのは、いつか遠い日のことだろう。

 おれは彼女にもう一度、この世界に目を向けてほしかった。ひとたび愛したものの価値が心の中から失われることはない。それはいつでも心の琴線に触れていて、思い出せばそこにある。かつて、おれが空を取り戻したように。彼女にも知ってほしかった。気がついてほしかった。

「スカーレット」

「……殺してくれると思ったのに、この裏切りもの」

「お前は生きるべきだ。自分でそう思えるようになるまで、おれがいくらでも付き合う」

「友だちとして? それはわたしの望みじゃないって、分からないの?」

「これ以上、愛の種類を問うな。代わりのもので満たされないとしても、友情の代用品だって存在しないんだ。その価値は、お前も知っているはずだ」

 おれにとってアトラスは無二の友だ。そして、やつに対するのと同じ気持ちをスカーレットに対しても抱いている。それは友情という名の愛であり、決して誰もが容易に得られるものではないのだと、おれは知っている。

 今やラトルーネイア号はかつてない高度に浮かび、夜明けの星を思わせる朱色の点となって最後の空に留まっていた。遠く水平線からは太陽が顔をのぞかせ、白い光が海面を照らしていた。朝焼けが空を染め上げ、未だ暗い砂漠の夜空との間に無限の色彩を生み出していた。

「……きれい」

「おれは思うんだ、命ある限り、全ての美しいものが失われることはない。見直してみないか、おれも手伝うから」

 スカーレットは何も言わず、水平線を一心に見つめていた。陽光が彼女の顔を照らし、風が髪をなびかせた。その瞳に浮かぶ想いの移ろいには、どんな芸術家にも描き出せない淡く揺らめくきらめきがあった。

 彼女は深く息を吐き、おれの腕から降りた。彼女はためらうように視線をさまよわせていたが、やがて、意を決したようだった。

「ヴァーミリオン。わたしをもうしばらく生きていたい気持ちにした責任、ちゃんととってくれるよね?」

「約束する」

 彼女の顔にかすかな驚きが浮かび、それから呆れたような表情になった。

「……どういう意味か分かってないでしょ」

 そう言って、彼女は微笑んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る