断章 涙の海の涸れるまで

断章 その1

 スカーレットが彼らを見つけたのは、ヴァーミリオンの行方を探していたときのことだった。特に約束していなくともしばしば会っていた親しい友は、いつの間にかいなくなってしまった。何があったのか気にはなったが、彼は一人で放っておかれても問題なく生きていける。そのことに疑いの余地はなく、彼女としてもあまり心配はしなかった。今はそれよりも、海岸に倒れている小柄な竜と小さな人影が問題だった。

 気晴らしに海を眺めたくて、彼女は大陸西部の海岸地域を飛んでいた。果てなどないかのように延々と続く海岸線に沿って、波の音を聞きながら。好きな景色といえば水平線と日の出や日没で、それをじっくり眺めたいあまり人間の街に紛れ込んだこともあった。そうして訪ねたことのある街の近くまで来たので、彼女は眼下に目を向けた。

 白い景観が美しかった海辺の街は、焼け焦げた廃墟に成り果てていた。帝国軍の仕業だろう。この地域を支配下に置こうとしていると聞いたことがある。スカーレットは憂鬱な気分になり、力なく高度を下げた。いつまでも終わりそうにない戦争が煩わしく、いっそ、どこか遠く離れた地を目指すのもいいかも知れないと思い始めていた。

 廃墟から顔を背けて飛び去ろうとしたとき、海岸に何かがあるのが見えて、どうにも注意を引かれた。近づいてみればそれは黒っぽい色の竜で、寂寥感に駆られた彼女の心が、無意識に同類を求めていたのかも知れなかった。竜の傍らには人間の少女が倒れていた。

 同類同族であっても、竜には互いへの仲間意識などない。普通なら不用意に近寄るべきではなく、距離を置いて様子を見るものだった。しかし、その竜は子どもと言っていいほど小さい上に、酷く衰弱しているようだった。さすがに気になって傍らに降り立って確かめると、子竜は傷だらけで、その体からは微弱な魔力しか感じられなかった。どうやっても、この子を救うことはできない、とスカーレットは直感した。竜は頑強な生き物だが、それでも限度はあった。

 スカーレットの気配に気づいたのか、子竜は目を開き、警戒するように彼女を見上げた。傍らの少女を翼の下に隠したところを見るに、彼女を守ろうとしているのだろう。

 敵視される謂れはないのに、と嘆息しつつ、スカーレットは人間の姿になった。逆に子竜を見上げることになり、彼女は平然と距離を詰めた。

「あまり警戒しないで。危害を加えるつもりはないわ」

 子竜は何も答えず、残りわずかな命を削ってまで魔術を練ろうとしていた。おそらく、二十年も生きていない幼い少女なのだろう、とスカーレットは当たりをつけた。幼子が間もなく死を迎えることには同情を覚えたが、だからといって大人しく攻撃を受けるつもりはなかった。

 スカーレットは片手をさっと振って子竜の魔術に干渉し、反動を生じさせないように気をつけて抑え込んだ。力の差を思えば、多少の揺り戻しも酷だった。編まれかけの魔力が霧散していき、子竜は警戒を強めたようだった。

「ばかなことはやめなさい。あなたはわたしに敵わない。残された時間がほとんどないことは、自分でも分かっているでしょう? それを無為に失うことはないわ」

「……何が目的?」

 子竜の声は弱々しかったが、それでも強い敵意が感じられた。スカーレットはため息をつき、大した理由もなく近づいたことを後悔し始めていた。

「そんなものはないわ。何となく見にきただけ。あなたにも、そこの人間にも、何の興味もない。もう行くわ」

「待って」

 立ち去りかけたところを呼び止められたが、スカーレットは振り向かなかった。彼女はただ立ち止まり、子竜の言葉を待った。

「あなたの言う通り、私はもう生きられない。私たちに危害を加えないというのが本当なら、私の代わりに、アリアを守って」

「あなたにとって大事な人間なんでしょう。それを初対面のわたしに託すの?」

 子竜とアリアという少女の関係は分からなかったが、傷だらけになっても庇おうとしているのだから、大事に思っていることだけは確かだった。直前まで敵も同然に見なしていた相手を頼るのは賢明な判断とは思えない。

「私には、あなたを信じるしかないの。知らない人間よりは、同じ竜の方が少しは安心できる。このまま私が死んで一人で取り残されたら、アリアは帝国兵に捕まって殺されるわ。そんなのは絶対に嫌」

 切実な声で哀願され、スカーレットは後ろ髪を引かれる思いだった。彼女に娘はいない。まだそんなことを考える年齢ではないと思っている。妹もいないが、もしいれば、この子のようだったかも知れない。彼らを見捨てれば、後々になって後悔するかも知れなかった。彼女はきびすを返し、子竜の傍らに戻った。

「わたしはスカーレット。あなたの名前は?」

「オリーブ。本当に、頼まれてくれるの?」

「ええ、約束するわ。その子が信用する人間のところに送り届けるまでか、戦争が終わるまでか、とにかく当面の安全は保証する」

「ありがとう、スカーレット……」

 言い終えると、オリーブは力尽きたように地面に身を横たえた。最後の気力を振り絞っていたのが、安心したことで張り詰めていたものが途切れたのだろう。命の残滓が失われていく様が目に見えるようだった。

 スカーレットはオリーブの頬に手を添えて、治癒の魔術をかけた。しかし、傷が癒されることはない。オリーブはもう手遅れで、いかなる魔術であっても、それを覆すことはできない。スカーレットにできるのは、痛みをいくらか和らげることくらいだった。

「ゆっくり休んで、オリーブ」

 オリーブは眠るように目を閉じていて、彼女の言葉に応えることはなかった。子竜は穏やかに横たわり、ただ微睡みの中にいるようにも見えた。その呼吸が、その鼓動が、最後のひとつを終えて消え入るまで、スカーレットはオリーブの頬を撫でていた。

「あなたのことは覚えておくわ」

 この世に生を受けて百五十年ほど、スカーレットが誰かを看取るのは初めてのことだった。死んだのは、出会ったばかりの相手。全くもって親しい間柄だった訳ではないとはいえ、彼女は胸に穴の空いたような気分を味わっていた。

 その空洞に満ちてくるものは、悲しみではない。可哀想には思っていたが、涙を流すほどの絆を結んだ相手ではなかった。それでもなお、この別離にはいくらか心を揺さぶられて、スカーレットは微かな困惑を覚えた。振り返ってみれば、想いが胸から溢れるような強い感情を抱いたことは、一度もなかったかも知れない。友だちになれたかも知れない相手が目の前で命を落とした、その出来事を自分がどのように受け止めているのか、彼女には分からなかった。

 目を覚まさないアリアをオリーブの翼の下から引っ張り出して、安全なところに移動させると、スカーレットは竜の姿に戻った。オリーブをそのままにしておく訳にはいかない。魔術は使わずに時間をかけて、海岸に深い穴を掘った。彼女の魔術は概して破壊的であり、亡きものを弔うときには相応しくなかった。悼む気持ちを自らの手で刻みつけて、別れの挨拶とする。

 オリーブの亡骸を埋めると、彼女は再び人間の姿になり、アリアの様子を見に行った。少女は気を失ったままだったが、怪我をしている様子はない。それはオリーブの献身の証だった。彼女は命をかけてアリアを守り抜き、犠牲になった。

 彼らの身に何が起こったのか、スカーレットはおおよそ察していた。大陸中の戦地で似たようなことが起こり、誰かが誰かのために死んでいく。直接に関わったことはなくとも、聞いていて気分のいい話ではなかった。アリアの顔を眺めながら、スカーレットは憂鬱な気分に浸った。

 しばらくするとアリアが目を開け、焦点の合わない瞳でスカーレットを見た。彼女は何かを、または誰かを探すように周囲に視線を向け、心細そうな表情を浮かべていた。

「アリア」

 スカーレットが呼びかけると、アリアは怯えたように肩を震わせた。人間全般に対して好悪の感情はなかったが、オリーブのときのような同情心は湧いてこなかった。この子は同類ですらなく、結局のところは誰かに守られるしかないからだろうか、とスカーレットは思った。

「オリーブは死んだわ。向こうの地面に埋めた跡が見えるでしょう? あの子はそこにいる」

「……嘘、でしょう」

 そう言いながらも、アリアの顔は絶望に染まっていた。オリーブの姿がないとはそういうことなのだと、理解はしているのだろう。

「あの子から、あなたを守るように頼まれたの。しばらくの間、よろしくね」

 アリアは現実を受け止められないのか、心をなくしたような無表情で固まってしまった。ここで泣き出されても困るが、どちらにせよ後で泣くのだろう、とスカーレットは思った。慰めるつもりはないし、あまりに嘆かれるのも億劫だった。竜が人間を気にかけることなど滅多になく、オリーブとアリアがその例外だったなら、両者の間の絆の深さを推し量ることは難しくなかった。

「覚えなくてもいいけれど、わたしはスカーレット。竜よ」

 竜という言葉を聞かされたせいか、アリアは唇をかみ、今にも泣き出しそうな表情でスカーレットをにらんだ。

「あなたなんか、オリーブの代わりにはなれません」

「誰もそんな申し出はしていないわ。オリーブが可哀想だったから、お願いを聞いてあげることにしたの」

 アリアはゆっくりとうつむき、また顔を上げて、感情の読めない表情でスカーレットを見つめた。何か言いたいことがあるのだと思い、スカーレットはしばらく待った。

「可哀想なんて言わないでください」

「どうして? あの子は幼くして死んでしまったのよ。それを憐れむのはおかしなこと?」

「オリーブは私を帝国軍から逃がすために戦ってくれたんです。彼女は絶対に、同情なんて求めていません。あなたは何も知らないくせに。私の親友を侮辱しないでください」

「わたしにも自分の気持ちがあるの。でも、あなたの想いを踏みにじるつもりはないわ。あなたの言う通り、あなたたちのことなんて少しも知らないから」

 スカーレットはアリアの手をとって立ち上がらせ、オリーブを埋めた場所まで連れていった。アリアは意外なほど素直に従った。

「お別れを言いたければ、好きにするといいわ」

 アリアは地面に膝をつき、親友の墓の前で涙を流した。スカーレットは少し離れたところで待つことにした。

 後で聞いたところでは、アリアとオリーブの出会いは十年以上前のことだったという。まるで何かの物語のようだが、悪い人間に捕まった幼い竜を無垢な子どもが助け、彼らは深い絆で結ばれた。

 その話を聞きながら、スカーレットは別のことを考えていた。彼女は水平線に沈む夕陽を眺めて、行方の知れない友に想いを馳せる。次に会えるときのことを思うと、少しだけ温かい気持ちになるような気がした。

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