伴章 その4

 消え入るような声で告げると、やつは力尽きたように目を閉じた。今は気を失っただけでも、その体からは蒸発するように生命が失われつつあった。このままではアトラスは死ぬ。おれの治療では不十分なことは、嫌でも思い知らされた。何か手立てはないかと考えても、何も思い浮かばなかった。

 諦めてはならない。目の前で僚友を死なせてはならない。おれは自らの命をも注ぎ込むようにして治療を続けた。どれほど心血を注いでも、残された時間をわずかに引き延ばすことしかできないのかも知れない。それでも、立ち止まる訳にはいかなかった。

「こんな風に必死なあなたは見たことがない。その人間がそんなに大切なの?」

 背後から声をかけられて、おれは弾かれたように振り返った。美しい少女が立っていた。初めて見る姿だったが、彼女のことは見間違いようがない。

 スカーレット。

 少女の姿をした彼女は、どこまでも優しそうに見えるが、先刻の襲撃も同じ少女によるものだ。激情に駆られているのなら、それに心を焼き尽くされているのなら、ほかの印象など意味をなさない。しかし、竜の姿のときに感じられた燃えるような怒りは鳴りをひそめ、今の彼女はただ悲しげだった。

 おれは彼女を無視してアトラスに向き直り、治療を続けた。折れた骨が内臓に刺さり、体内で激しく出血しているようだった。どうにか血を止めても、骨折を元通りに治すことは難しかった。それに、既にして血を失いすぎているという問題もある。仮に全ての負傷を完治させられたとしても、やつが生き延びる保証はどこにもなかった。そもそも、魔術による治癒は強引なものなので、死に瀕したアトラスの体が耐えられない可能性もある。ここでの治療は最小限にして、人間の医者の手に委ねるまでの時間を稼ぐために重篤な部分だけ治すのが最善だったが、おれにはそれも困難だった。

「どうせ死ぬわ。放っておいてわたしの方を見てよ」

「黙れ」

「嫌」

 スカーレットはおれの向かいに回り、死にかけのアトラスを見下ろした。彼女は無感情な表情を浮かべ、アトラスの生死には一切関心のない様子だった。

「あなたの下手な治癒魔術で生き永らえさせるのは無理そうね。さっさと諦めたらいいのに。そういうの得意でしょ?」

 前回、おれと彼女が会ったのは、おれが飛べなくなってしばらく経った頃のことだった。傷を治して空に戻る見込みはないと認めざるを得なくなった後のことで、諦めていたのは事実だった。居場所の分からないおれを探し出して会いに来た彼女を、おれは邪険に追い返した。それ以来の再会だった。

 おれが返事をせずにいると、彼女は一人で喋り続けた。

「わたしは飛べないあなたでもよかったのに。わたしを追い払っておいて、その人間とは一緒にいたいのね」

 患部に手をかざし、損傷が元通りに再建される様を思い浮かべながら、おれは祈るような気持ちで治癒魔術をかけていた。竜には祈りを捧げる存在などなく、おれはアトラス自身に願っていた。やつが生き延びる意志を持ち続けてくれれば、全ての可能性が潰えることはないと信じたかった。

 突然、アトラスの体が炎に包まれた。やったのはスカーレットだった。おれが掴みかかると、彼女は微笑んだ。

「手助けしてあげるわ」

「スカーレット!」

「よく見て」

 言われるままアトラスに視線を向けると、既に炎は消え、やつが負った負傷の大半が治っているようだった。近づいて確かめたかったが、スカーレットに掴まれて離れられなかった。

「どういうつもりなんだ?」

「あなたと話したいだけ。あなたが人間に混ざるのをやめさせたいの」

「いつから人間嫌いになった」

 彼女は自嘲的に笑った。それはおよそ彼女らしくないことだった。

「嫌って当然よ。あなたは違うの? あなたをだめにしたのは人間でしょう」

「過ぎたことだ。もう恨んでいない」

 スカーレットはおれを離し、何歩か後ろに下がった。彼女は意識の戻らないアトラスを凝視していた。

「その人間があなたを撃ち落としたのね。どうでもいいやつだと思っていたけれど、やっぱり殺すわ」

「やめてくれ」

 おれは思わず叫んでいた。今のおれにスカーレットを止める力はない。彼女が何もしないうちに説得する以外の術はなかった。恥も外聞もなく懇願するしかないのなら、それで構わなかった。

「これからは何でもお前の言う通りにする。だから、アトラスを殺さないでくれ」

「そんなあなたらしくない言葉は聞きたくなかった。分からない? わたしはあなたを所有物にしたいんじゃないの」

 彼女が何を言いたいのか、おれには分からなかった。おれの沈黙をどう受け取ったのか、彼女は目を伏せた。

「わたしはあなたを愛しているの。あなたと共に生きることが、わたしの望み。こんなことになるなら、もっと早く自分の気持ちに気づいていればよかった」

 おれは何も答えられなかった。彼女は友だちで、そんな風に考えたことは一度もなかった。

「いいわ、分かった。その人間を救えずに失えば、そんな脆弱な生き物と共にいることは不可能だと理解できるはず。砂漠を出るんでしょう? きっと、そこまで保たない。空から見ているわ。少し悲しむくらいは許してあげる。全部終わったら、あなたの方からわたしに会いに来て」

 スカーレットはおれにくちづけると、離れていった。彼女は竜の姿に戻り、空へと飛んでいった。

 彼女の意図は分かる。アトラスを救おうという絶望的な努力の果てに、おれの心が折れると思っているのだろう。致命傷が治っていても、やつの容体が酷く悪いことに変わりはない。完全に健康な人間でも、この灼熱の環境下に長く留まることはできないだろう。多量の血を失い、魔術による治癒で体力も奪われた人間が数時間も生き延びられるとすれば、そこには幸運のほかに何が必要になるのか。今、それはおれたちの手にあるものなのか。

 アトラスの死まで多少の猶予が生まれたとはいえ、おれがやつを連れて砂漠を去るのに時間がかかれば、結局は同じ結果になる。そのとき、おれは竜という強大な存在に押し潰されるのではなく、おれ自身のどうしようもない無力さにこそ敗北することになる。

 負けを決めつけられていることが気に食わない。おれは諦めていない。アトラスに諦めさせるつもりもない。苦難に負けないためには、立ち向かい続ける以外にない。生きて帰るのだと信じる限り、おれたちが敗北することはない。

 おれはぐったりと力ないアトラスの体を背負い、絶望を踏みつけて歩き始めた。ラトルーネイア号の残骸が散らばっていることに気づいたが、持ち帰る余地はなかった。死せる友のためにも、必ずやり遂げなければならない。おれの心は血を流し、これ以上、何も失ってなるものかと改めて誓いを立てた。

 一面の砂の海を歩いて渡る。歩けども歩けども、この砂漠には果てしがないように思える。なだらかな砂丘がどこまでも続き、風景は変化に乏しかった。距離には耐えられる。単調さは気にしない。道に迷う心配も、おそらくない。しかし、灼熱の暑さは厳しかった。竜と言えども体力的な限界はある。自らの負傷の治癒のためにかなりの消耗を強いられたこともあり、いつまでも大丈夫ではいられないという自覚があった。アトラスを暑さから保護するために、風の魔術で空気の層を作って温度を調節しているが、それもいつまで続けられるか定かではない。

 ふと空を見上げると、赤い竜の姿が小さく見えていた。宣言した通り、おれの苦難を見届けるのだろう。そこで見ていろ、お前の思い通りにはならない。おれは声に出さずに叫び、行き場のない憤りを感じていた。

 おれが倒れてしまえば、アトラスはどうなる。死ぬに決まっている。それは許せない。一歩進むごとにその思いは強まり、おれは怒りを燃料にして歩き続けた。

 許せない。

 許さない。

 何度、自分に言い聞かせても、正確なところ、おれが何に怒りを向けているのか分からなかった。この状況を作ったスカーレットではない。死に瀕したアトラスではない。事態を容易に解決できない自らの無力さでもない。おれは失うことを恐れていた。再び翼を失い、空を失えば、おれに生きる希望はないのだから。

 どれほどの時間、歩き続けているのか分からない。汗と砂に塗れ、乾いた血が濡れて剥がれ落ちる。喉が渇き、頭が酷く痛むようになった。この調子では、おれも長くは保たないのかも知れない。背負ったアトラスが身じろぎする感触があり、おれはやつの様子に注意を向けた。

「ヴァーミリオン……俺は、まだ生きてるのか?」

「気がついたか。もうしばらくの辛抱だ。じきに砂漠を抜ける。医者に診せてやるからな」

「お前は大丈夫なのか」

「ああ」

 余計な心配をかけたくなくて、おれは即答した。しばらくアトラスから返事がなく、やつは再び気を失ったのだと思った。

「嘘だな。強がりはやめろ。限界が近いんだろ」

「……そうだ」

「無理するな。このままじゃ二人とも死ぬ。俺を置いていけ。お前一人なら、生き延びられるはずだ」

「おれは貴様と共に生還すると誓った。だから、生きろ。血反吐を吐こうが地面を這いずることになろうが、どんな苦しみにも耐えて生き延びろ」

「同じ言葉をお前に返すよ。俺を見捨てることがどれほどの傷をお前の心に残すことになっても、お前自身が生き延びることを第一に考えろ。生きて、俺の分まで空を飛んでくれ。これ以上、俺を助けようとするな」

 アトラスは弱々しく動いておれの背から降りようとしたが、おれはやつをしっかり掴んで離さなかった。やつも相当に弱っているので、それ以上の抵抗はできないようだった。

「お前を死なせたくないんだ、ヴァーミリオン」

「貴様が死んだら、おれは二度と飛行機に乗らない。おれが飛行士で、貴様が通信士。そういう取り決めだったはずだ」

「それはもう気にしなくていい。お前の好きなように飛んでいいんだ」

 アントワーヌ航空で働くようになったばかりの頃だったら、自由に飛行機を飛ばしていいと言われれば喜んでいたことだろう。しかし、今のおれは僚友と共にある。共に飛ぶ相手がいるのなら、共に生きる相手がいるのなら、個人の自由より優先するべきものがある。そのことを知っている。

「よく聞けよ、アトラス。おれは貴様を助けようとしているが、貴様もおれを助ける努力をしろ」

「どういうことだ」

「貴様を失えば、おれは死んだも同然だ。おれはもう、喪失の悲しみに耐えられないかも知れない。だから、生き延びて、おれをその悲劇から救ってくれ」

「互いにこんな状態で、それでも助け合おうって?」

「そうだ。むしろ、貴様の方が重い使命を負っているくらいだ。貴様が助けなければならないのは、おれだけではない。貴様の全ての僚友たちだ。貴様には、おれたちを悲しみから救う使命がある。それを忘れるなよ、アトラス」

「……そんなこと言われたら、俺も諦める訳にはいかないか」

 おれたちは砂塵に抗いながら砂の上を進み続けた。おれはいつしか、砂と熱の大地にも慣れ親しんでいった。今や地を這う身の上ではあるが、ここは灼熱という空だ。かつて空を飛んだ全ての竜、全ての飛行士にとって、自らが歩む道筋こそが彼らの空だ。思えば、テグジュペリが空の住人のように感じられるのも当然だ。おれはようやく理解した。そして、おれとアトラスは共にその境地に到達した。おれたちは共に飛ぶことを選び、それはおれたちが死によって引き離されるまで、ともすればその先まで、果てしなく続いていく。

 やがて砂漠の終わりが見えてきた。おれは気持ちを新たに、力強く次の一歩を踏み出した。上空からこちらを見下ろす赤い竜は、怨嗟を込めた叫びを発して、どこかへ飛び去った。

「アトラス。もう少しだ」

 やつは眠っていて、返事はなかった。やつの呼吸に耳を澄まし、背中越しに伝わる鼓動を確かめる。生存とは苦闘だ。ただ生き続けるだけのことでも、決死の覚悟で立ち向かわなければならない。やつはまだ戦っている。その命の重さが消えることのないように、おれもまた歩みを進めた。

 おれたちはいつでも旅人だ。空も大地も、旅人に試練を与えることもあれば、祝福してくれることもある。今もそうだ。急に空が曇り、試練を耐え抜いたおれたちを祝福するように、淑やかな雨が降り始めた。

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