伴章 その3

 二日で準備を終えて、ラトルーネイア号は夜も明けないうちに出発した。目指す砂漠まではかなりの距離があり、中継地点にできるような場所もないので、明るいうちに砂漠に到達するには早い時刻に飛び立たなければならなかった。夜明け前の薄暗い空は、おれたちをそっけなく迎え入れた。

 朝焼けに染まりゆく夜空の下で、一路に砂漠を目指す。おれは砂漠というものをよく知らない。漠然とした知識では、乾燥して砂が多い。かつて、どこかの砂漠の上の空を飛んだことはあるかも知れないが、空ばかり見ていて地上に目を向けていなかったのだろう。

 南へ向かうにつれて、眼下には荒涼として見捨てられたような土地が広がるようになっていった。しばらくは小さな集落が点在していたが、それもやがて見かけなくなった。荒地といえども多少の草木くらいは生えているものだが、それすらも消えていく。さらに南に飛べば、辺り一面の砂だけがおれの目にする光景になるのだろう。

 南方への行程を飛び去りながら、アトラスに聞かれて、おれはスカーレットのことを手短に話した。彼女はよき友であり、最後はよくない別れ方をした。

「貴様とは気が合わないだろうな」

「そうか?」

「彼女は生真面目だ。冗談は通じない」

「お前以上に、ってことだよな。それは確かに……」

 スカーレットが殊更に人間嫌いだった覚えはないが、帝国を滅ぼした話が本当なら、昔とは変わっているのかも知れない。どのような形で彼女と対面することになるか分からないが、アトラスには離れていさせた方が無難だろう。ほかの人間はまだしも、やつはおれを飛べない体にした張本人だ。おれはもう気にしていないが、それも含めて、彼女がどう感じるのか分からない。

 そしてとうとう、おれたちは灼獄砂漠の上空に到達した。機体には暑さ対策を施してあるというのに、照りつける太陽と地上から放射される異常なほどの熱量で加熱されたことで、機内の温度はかなり上昇していた。このまま飛行するだけでも辛い暑さで、地上に降りたらどれほどの灼熱に襲われるのかと思うと、不安を感じずにはいられなかった。

 仮にスカーレットが去ったとしても、これほどの熱量がすぐに消えてなくなるとは思えない。アズールの話では、灼獄砂漠では地上班を動員せず、点在する岩石や帝国時代の遺構を基準に位置を割り出すという。

 アトラスが写真機を起動して、ラトルーネイア号は地上を撮影しながら砂漠の空を飛んだ。どこまでも続く砂の海は、風に巻き上げられた砂粒が舞うばかりで、しんと静まり返っていた。まるで、おれたちには何の興味もないと言わんばかりだった。ある意味では落ち着く場所だと感じられたが、灼熱のあまり大半の生き物の生存を拒む土地では、それは空虚さと同質のものだった。

 ここは厳しい土地だ。熱と乾燥、砂だけが各々の存在を主張している。風は吹いているが、それも熱を帯びて砂塵を運ぶばかりで、おれが長く親しんできた風とは異なっていた。この地を吹く風は死んでいる。その原因はおそらく、大地が放つ狂ったような熱にある。スカーレットがこの砂漠に留まり続けたことで土地が変質してしまったのだろうが、それも彼女らしくないことだった。彼女は火に愛されるがゆえに、その扱いにも長けていた。魔力を垂れ流して大地を汚染するような愚を犯すとは考えにくい。

 とはいえ、灼獄砂漠の方々にスカーレットの気配が感じられることは否定できない。彼女の波長の魔力がこの地に染みついているということであり、これを放置していることは彼女の意思表示のように感じられた。今の彼女は誰とも関わるつもりがなく、あらゆる接触を拒んでいるのだろう。そんな場所に飛び込むのは、どう考えても賢明なことではなかった。

 飛行を続けていると、突然、日射しが遮られて影が落ちた。巨大で強大な何かが上方から迫っていた。異常に気づいてすぐ、おれは操縦桿を勢いよく倒してラトルーネイア号を急旋回させた。その直後、寸前まで機体のあった空間を鮮烈な赤が切り裂いた。

 それは〈大罪〉の竜、スカーレットだった。今の彼女が身にまとう炎のような怒りは、確かに一国を焼き尽くしてもおかしくなかった。

「撮影は中止だ」

「かなり殺気立ってるが、お前の友だちに間違いないのか」

「ああ。スカーレットだ」

「お前がいることに気づいてないって可能性はあるか? というか、友だちだと思ってたのはお前の方だけだったなんてことはないよな」

 軽口を叩いていても、アトラスの声には切迫した響きがあった。やつは一瞬の交錯のうちに、スカーレットの危険性を感じ取ったらしい。残念ながら、彼女がおれに気づかずに襲撃してきたということはあり得ない。竜の魔力の波長は独特で、個体差も大きい。どれほど姿形が変わっていても、相手が知己であることを察知できない訳がない。

 赤い竜は急上昇しながら身をひねり、飛行機を叩き落とすべく長い尾を振り回してきた。それをかわしながら、おれは改めて竜の姿を確かめた。スカーレットは記憶にあるままの姿で、おれたちに対峙していた。

「話をするのは難しそうだな。ヴァーミリオン、ひとまず逃げた方がいい」

 返事をするまでもなく、おれは追撃をかわして、全速力で彼女から遠ざかりにかかった。度重なる改良が加えられたラトルーネイア号の加速機構は、今ではおれの意思に完全に同調して速度を出す。おれは飛行機を限界まで加速したが、それでも竜と競うには不足していた。スカーレットは苦もなく後を追ってきて、さらなる追撃を的確に叩き込んでくる。

 操縦桿を倒して機体を横に傾け、失速しながら斜めに下降して攻撃を避けた。飛行機を追い抜いたスカーレットは鋭い動きで振り返り、渦を巻く炎の魔術を放ってきた。こちらの軌道を予測した攻撃で、真っ直ぐに突っ込んでいくほかなかった。おれは風を起こして対抗したが、炎を潜り抜けた機体はところどころが焼け焦げていた。

 まだ十分に飛行が可能な状態ではあったが、この調子で攻撃にさらされ続けていては、それほど長くは保たないだろう。おれは機首を垂直近くまで引き上げ、ラトルーネイア号を天上目がけて急上昇させた。スカーレットはすかさず追ってきたが、高度が上がるほどに空気は薄くなる。魔力を利用した噴射によって加速するラトルーネイア号は影響を受けないが、翼を羽ばたかせた空気抵抗で飛行する竜には不利な条件だ。徐々に彼女との距離が開いていったが、いつまでも上昇を続ける訳にはいかなかった。空気が薄いということは、機内にいるおれとアトラスの呼吸に支障がある。

 機体を水平に戻し、スカーレットが上昇してこないうちに離れたところまで飛ぶつもりだったが、下から矢のように鋭く固められた炎がいくつも飛んできた。ほとんどは命中せずに逸れていったが、数発が飛行機の翼を直撃した。翼に火が着き、延焼し始めた。魔術の火は空気が薄いからといって鎮火することはない。風の魔術で振り払った頃には無残な状態で、墜落しないうちに砂漠のどこかに不時着するしかなかった。

 ひとまず加速してスカーレットから離れようとしたが、そのときには彼女は準備を終えていた。いつの間に上がってきたのか、彼女は飛行機の前方に現れ、怒りに燃える目でおれをにらむ。飛行機の周囲に炎の柱が立ち上がり、機体を押し潰すように迫ってきた。燃焼は現象だが、圧倒的な魔力密度は物理的な破壊力をもたらすものだ。

 回避は不可能だった。おれは風の障壁を築いて防御しようとしたが、ほとんど何の効果もなかった。強烈な衝撃が機体を襲い、ラトルーネイア号は大小様々な破片に砕けて空中分解してしまった。炎は消えたものの、そんなことは気休めにもならなかった。

 おれとアトラスは最も大きな残骸に乗っていた。ベルトで体が固定されているので、空中に投げ出されることはなかったが、状況の改善にはならない。慣性の作用で前方に飛び続ける残骸に縛りつけられたまま、おれたちは砂の大地との衝突に突き進んでいた。

 おれは死なないだろう。身を守る方法はいくつかある。魔術を用いることもできれば、竜体に戻って滑空を試みることもできる。竜の巨体より人間の体の方が治すべき負傷は小さく済む可能性が高いとはいえ、ともかく選択肢はあった。しかし、アトラスには一つもない。やつは助からない。やつにはこの状況から生還するためにできることが何もない。

 おれ一人が生き延びても意味がない。おれはアトラスを無事に連れて帰ると決めていた。やつを死なせる訳にはいかなかった。おれは座席のベルトを外し、揺れに耐えてアトラスの下に移動した。やつは何かを叫んできた。自分の身を守れとでも言ったのだろうが、強風の立てる轟音のせいで何も聞こえなかった。このままやつの周囲に守りを固めて墜落の衝撃に備えるつもりだったが、スカーレットには容赦がなかった。

 嫌な気配を感じて、おれは機体に開いた大穴から上空を見た。ちょうど、スカーレットが巨大な炎の槍を投げ落とすところだった。あんなものが直撃すれば、おれたちがいる残骸などひとたまりもない。

 おれはアトラスの座席ベルトを引きちぎり、やつの体を片手で抱え上げた。やつは大人しくされるがままになっていて、事ここに至っては、おれに任せるしかないと認めているのだと思われた。おれは残骸を強く蹴って空中に飛び出し、完全なる自由落下に身を委ねた。

 直後、燃え盛る槍が残骸を直撃して、跡形もなく消し飛ばした。その衝撃でおれたちは吹き飛ばされた。一瞬、スカーレットがおれたちを見失ってくれないかと期待したが、彼女は真っ直ぐこちらに向かって降下してきていた。彼女は長い尾を振るい、おれは空いた片腕で防ごうとしたが、無意味な努力だった。彼女はおれが展開した魔術障壁を容易く破壊し、おれとアトラスは地面に向かって垂直に叩き落とされるしかなかった。

 魔術を編んでいては間に合わない。砂漠の地面に激突する直前、おれは力の限りの勢いでアトラスを上方に投げた。少しでも速度を殺したことで、やつが生存する可能性が高まったと思いたい。

 自分の身を守ることなど考えられず、おれは背中から地面に叩きつけられた。全身の骨が砕ける激痛に息が詰まり、体内での魔力の循環による治癒が始まるまで、込み上げる血を吐き出すこともできなかった。出血も酷く、おれは血溜まりの中に這いつくばって骨がつながるのを待った。脚の機能が回復すると、苦痛に耐えて立ち上がり、アトラスの姿を探した。やつも近くに落下したはずだったが、立ち込める砂塵に視界を遮られ、なかなか見つけられなかった。

 やつがおれと同じくらいの負傷をすれば、まず助からない。そうならないように可能な限りのことをしたつもりだが、到底、十分ではない。やつを見つけるのに手間取っている場合ではなかった。重傷を負っていることは間違いなく、すぐにでも治療が必要だった。

 ようやく見つけたアトラスは、無残な姿で転がっていた。やつは血まみれで、何か所も骨折していた。この様子では内臓も損傷しているかも知れない。加えて、砂漠の灼熱によって早くも皮膚が焼けただれ始めていた。

「アトラス!」

 呼びかけても返事はなかったが、おれが駆け寄ったときには、まだやつには意識があった。やつは苦痛に顔を歪めて血を吐いていたが、かろうじて喋ることができた。

「まだ、生きてる。すごいじゃないか」

「黙っていろ、すぐに治療する」

 治癒の魔術は不得手だが、使えない訳ではない。命に関わる重傷さえ治すことができれば、やつにも生還の目はあるはずだ。

「やめろ、俺のことはいい。お前も酷い状態なんだ。自分が生き延びることを最優先にしろよ」

「ふざけるな。貴様を死なせるものか」

「お前は十分にやってくれた。俺が死んだとしても、気に病まなくていい」

 アトラスの目から光が失われていき、やつの命が尽きかけているのが分かった。治癒魔術をかけながら、おれは焦燥に駆られた。動悸が治らず、血の凍るような思いを味わった。それは未だかつて、経験したことのない感覚だった。おれは死別を知らないのだと、初めて意識した。

「きっと、お別れだろうな」

「やめろ、そんなことを言うな」

「お前と飛べて、楽しかったぜ。じゃあな、ヴァーミリオン……」

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