転章 その3

 低空飛行していたとはいえ、街にあるどれほど高い建造物よりも高所からの落下だった。おれは束の間の浮遊感、多少の飛行気分を味わいながら、重力に逆らうことのできない墜落を再び体験していた。身ひとつで空にいるためか奇妙な高揚感があったが、長続きはしなかった。叩きつける風雪に全身を包まれて、おれの頭は芯から冷却されていった。

 落下しながら体を回転させて上空を見ると、朱色の飛行機が不審な航跡を残しながら飛んでいった。周辺を旋回して、広い範囲を捜索するはずだ。アトラスの視力で地上がどこまで見えるか何とも言えないものの、やらないよりはいい。やつが操縦するのは久しぶりのことだが、すぐに勘が戻るだろう。

 おれは風魔術を応用して体の下に圧縮された空気の層を作り、地面に激突する直前に魔術を解いた。急激に膨張する空気によって無様に吹き飛ばされ、雪の上に落ちて埋まってしまった。格好は悪いが、少なくとも無傷で着地することはできたのだから構わない。

 飛び降りたときから感じていたことだが、寒かった。そのせいで凍え死ぬことはないとはいえ、全身が冷たくなっていくことには、徐々に内へと押し込められるような閉塞感があった。広々とした平原に降り立ったというのに全く見晴らしがよくないことも、閉じ込められる感覚に拍車をかけていた。

 荒れ狂う吹雪による視界の悪さは、上空と少しも変わらない。まだ日の沈む時間帯ではなかったが、辺りは薄暗かった。さながら白い闇とでも言うべきものが一帯を支配して、陽光を退けていた。

 おれは先の見えない闇の中へと一歩を踏み出し、瞬く間に消されていく足跡を残しながら、どこかにいるはずの遭難者たちを探した。救助に来たおれたちと入れ違いで帰還しているのなら、それはそれでいい。しかし、その確証が得られていない以上、力を尽くさずに悔いを残す訳にはいかなかった。

 約束があり、使命がある。それらを言い表す言葉は違ったとしても、意思を持つあらゆるものが、同じ信条を自らの心に認め得る。誰もに果たすべき役割があり、それを全うすることこそが、真実、生きるということだ。

 空を飛ぶのは楽しいが、その陶酔を味わうことだけがおれの生ではない。白い闇に包まれた冷たい孤独の中、ひと欠片の希望を刻みつけていく。その盲目の道程だけが見せる景色がある。

 目で見る必要はない。耳で聞く必要もない。ただ心に触れるものを信じるだけでいい。

 内省をするなら時と場合を選んだ方がいい、と思う。知らない間に自分がどれほど変わっていたか気づくのに、今は相応しい状況ではない。

 おれは胸一杯に空気を吸い込んで、吹き荒ぶ風や雪に負けないよう、あらん限りの大声で叫んだ。

「マーカス、ウェインウェイン、助けに来た! 返事でも合図でも何でもいい、おれの声に応えてくれ!」

 応答はなかった。この付近にいないだけかも知れないが、既に衰弱して声を出すこともできない状態という可能性も考えられた。数時間も雪に埋もれていれば、凍りついた死体になっていてもおかしくはない。

 雪の中を歩き続け、虚空に向かって呼びかけ続けた。もう無意味ではないか、早く諦めた方がいいのではないか、そんな思考を振り払う。今さら合理的になるくらいなら、初めから飛び降りるべきではなかった。

 おれの声は誰にも届かないのかも知れない。元来、竜とは独善的で傲慢な生き物だ。同じ竜同士であっても、互いを気にかけることは少ない。おれが人間や獣人を探して彼らの名を呼ぶなど、ばかげているのかも知れない。それでも、おれは彼らを助けに来た。

 彼らは決しておれの同胞ではない。異なる生き物であるという事実が変わることはない。だが、彼らは僚友だ。共に生きる道を歩む全てのものに、同じ友情を分け合う価値がある。

 アトラスのことも友と呼ぼう。かつての宿敵だとか、ひねくれた考え方を続ける必要はない。もっとも、当人に何かを伝えるつもりはないが。

 飛行機も友と呼ぼう。無機質な機械、意思のない被造物であっても、絆を結ぶことはできる。朱色の飛行機には早く名前を付けなければ。いつまでも銘なしではかわいそうだ。

 おれは僚友たちに何度も呼びかけた。どれほどの時間、そうし続けていたのか分からない。白く凍てつく薄闇の中で、時間の感覚は曖昧になっていた。やがて、風の切れ間にかすかな声が聞こえてきた。

「どこだ! 声を上げ続けろ、すぐに行く!」

 聴覚に意識を集中し、風の音の中に人の声を聞き取ろうとしていると、野太い低音の、獣が唸るような声が聞こえた。

「こっちだ!」

 おれは声のする方に駆けつけて、ついに顔も知らぬ僚友たちと対面した。そこには、蒼白な顔に虚ろな表情を浮かべた人間と、そいつを守るように身を寄せる狼の獣人がいた。彼らはこの吹雪の中、広大な平原を抜け出そうと歩き続けていたのだろう。そうでなければ、とうに雪の下に埋まっているはずだ。

「お前がウェインウェインか。そっちの人間はマーカスだな?」

「そうだ。お前は救援に来てくれた、ということでいいのか?」

 狼の表情は人間以上に分かりにくかったが、おれが徒歩で現れたことに疑問を感じているらしい。

「おれはヴァーミリオン、アントワーヌ航空の飛行士だ。地上の捜索のために飛び降りたが、飛行機は付近を飛んでいる。すぐに来るはずだ」

 先刻から、アトラスへの合図として空に光を打ち上げていたが、離れたところを飛んでいるのか、飛行機は影も形もなかった。繰り返し合図を送りつつ遭難者たちの様子を見ると、ウェインウェインは弱っているものの命に別状はなさそうだったが、マーカスは限界が近そうだった。風を起こして吹雪を遮断したものの、それがどれほどの足しになるのか分からなかった。

「マーカス、エミリーが待っている。こんなところで死ぬな」

 彼女の名前が効いたのか、マーカスの目に少しだけ生気が戻った。彼は唇を小刻みに震わせて、白い息を吐いた。

「……エミリーが?」

「そうだ。お前が生きて帰らないと、彼女が悲しむ」

「あなたは、ヴァーミリオンといいましたか。彼女から聞いたことがあります。竜なんだとか」

「ああ」

「エミリーが楽しそうにあなたの話をするものだから、僕もいつか会ってみたいと思って……」

 彼は続けて何か言おうとしたように見えたが、声を出すより前にまぶたが下がっていき、眠ってしまったようだった。もしかすると、助けが来たという安心感で最後の気力が尽きてしまったのかも知れない。ウェインウェインが彼を揺さぶり、大声で呼びかけた。

「マーカス、だめだ、寝るんじゃない」

 このまま低体温状態が続くと危険だ。おれは魔術で火種を作り出したが、燃やすものがなかった。辺りは雪に覆われた平原で、乾いた薪が手に入るとは思えない。着ている服も雪で湿ってしまい、薪の代わりに燃やすには心許なかった。おれは手のひらの上に火の玉を浮かべたが、暖をとるには火力が足りない。

「ウェインウェイン、松明か何か、持っていないか?」

「荷物はなくした。食料を取り出そうとしたときに吹雪に持っていかれたんだ。無闇に探すのは危険だと判断した」

 彼はマーカスを抱き寄せてさすってやっていたが、極寒の中ではほとんど効果が望めそうにない。マーカスの意識は戻らないままで、ますます顔色が悪くなっていた。不安げに目をふせたウェインウェインが口元をぬぐうのを見て、おれは嫌な予感を覚えた。

「お前は大丈夫なのか。今、よだれを垂らしそうになっただろう」

 獣人は人ではあるが、人間にはない獣の性質を色濃く有している。狼の獣人は当然ながら肉食で、かつては人間を襲って捕食することもあったと聞く。この寒さの中で飢餓感に駆られれば、自らの命をつなぐために栄養を求めるのは自然の摂理ではあった。

 おれの指摘に対して、ウェインウェインは肩をすくめただけだった。

「飢えていることは否定しない。マーカスの肉が旨そうに見えてきたこともだ。しかし、私の誇りにかけて、彼に牙を突き立てることはない」

「疑ってはいない。が、限界になる前に申告しろ。おれが止めてやる。そのとき、お前は死ぬかも知れないが、最悪の結末だけは逃れられる」

 そうすれば、少なくとも、彼が築いてきたであろう信頼だけは守ることができる。ウェインウェインは意外そうに目を瞬かせ、首を傾げておれを見た。

「随分と人間味のある竜なんだな」

「お前とは似たようなものだろう。おれも色々と経験してきたからな」

 誇りにかけるというのなら、その名誉を守るために命を賭す覚悟があるはずだ。それを全うするのに助けが必要なら、ためらいなく手を差し出す。初対面であっても、おれたちの間にはそういう種類の絆があった。

「もちろん、お前が耐えられるのが一番いい。おれとしても手を下したくはないからな」

「私だって嫌だ。だが、いざというときは頼む」

 ウェインウェインは間違いなく決然とした表情をしていて、おれは彼の覚悟をしかと受け止めた。

 アトラスはまだなのか。そう思って空を見上げると、ちょうど遠くに朱色の飛行機が見えた。もう一度、合図の光を打ち上げて、飛行機が確実にこちらに向かうように誘導した。飛行機は滑らかな航跡を残しながら向きを変え、操縦が安定していることをうかがわせた。相変わらずの吹雪だが、この程度の視界不良、勘の戻ったアトラスなら、ものともしないだろう。

 ゆっくりと下降を始めた機体を見つめて、おれは飛行機の名前のことを考えていた。そのとき、頭の中に直接、アトラスの声が響いた。おそらく、機体に残留していたおれの魔力を転用して思念を送ってきたのだろう。おれの方からも思念を送れば、通信機なしでも距離を隔てて会話できる。魔力の経路をつないだことのある間柄だからこそ可能な芸当だった。

「ヴァーミリオン、状況は?」

「二人とも生きているが、予断を許さない状態だ。急いでくれ」

「分かった」

 着陸までには少し間があるが、その後は慌ただしくなるだろう。その前に話しておきたいことがあった。

「こんなときに言うことではないかも知れないが、飛行機の名前を決めた」

「何て名付けるんだ?」

「ラトルーネイア」

「聞き慣れない言葉だな」

「古い言葉で、転換点という意味だ」

 転換点、切り換わるところ。おれにとって、飛行機の本質はそういうものだ。飛行士として空を飛ぶ日々を通じて、おれは変わった。その中心には言うまでもなく飛行機があった。

 飛行機は転換する。その翼は絶望を希望に転じる。

 救済をもたらす僚友が訪れる。

 ラトルーネイア号が白い闇を朱色に塗り替えていく様を眺めて、おれは思わず笑みを浮かべていた。

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