転章 その2

 銘を与えられないまま、朱色の飛行機は北の空を目指して飛び立った。おれにもアトラスにも、焦りはない。気持ちだけ急いだところで得られるものはなく、それどころか普段ならしないような失敗を犯すことになりかねない。目指す平原までの航路は把握している。まずは速やかにそこまで辿り着くことだ。

 改めて機内の様子を観察すると、発動機につながる魔力の経路が敷かれていることが分かった。考えなしに魔力を放出するだけで、発動機へと送り込まれていくらしい。

「噴射機構への魔力の充填が済み次第、加速する」

「試運転くらいしてほしかったが、仕方ない。慎重に扱えよ、少しでも怪しいところがあれば、すぐに止めろ」

 実際に使用するとどうなるか誰も確かめていない機能を試すには、いい状況とは言えない。とはいえ、設計通りに動くのなら、現状の役に立つのは間違いなかった。

「今のうちに詳しい状況を聞かせろ。北の平原で二人が行方不明、だけでは大雑把すぎる」

「ああ」

 アトラスによると、問題の地上班には五人の人員がいて、朝早くから地形の調査や測量を行っていた。夜から雪が降る予報が出ていたので、夕方までには作業を終えて戻る予定だったが、昼にもならないうちに降雪が始まった。その時点では雪の降り方は穏やかだったが、彼らの判断は早く、早々に作業を中断して帰還しようとした。

 粉雪は一時間もしないうちに猛吹雪に変わり、遮るもののない平原では足を止めて隠れることもできなかった。吹雪が視界を覆い、寒さが体力を奪う中、彼らは歩き続けた。前を歩く者の背も見えない状態で、互いの体を結ぶロープだけが、仲間の存在を知らせていた。

「苦闘の末に吹雪の平原を抜けるまで、ロープが途中で切れてることには気づかなかったそうだ。無事だった三人は、僚友の遭難を知らせるために大急ぎで戻ってきた」

「はぐれた二人が、マーカスとウェインウェインだな。そいつらは今も平原にいるのか?」

「分からない。が、帰ってきてないのは確かだ。各自が短距離用の通信機を持ってたらしいが、通信連絡もないそうだ。平原では雪が降り続いてる。最悪の事態を想定する必要がある」

 既に遭難から数時間が経過している。吹雪の中に取り残された人間は、どれほど長い時間を生き延びられるのだろう。寒さを想定した装備を持っていたはずだが、それでも限度がある。詳しく聞くと、マーカスは人間だが、ウェインウェインは狼の獣人だという。獣人は人間と動物の中間のような姿形の者が多く、狼の獣人なら寒さには一定の耐性があると思われた。エミリーには酷な話だが、二人のうちのどちらが生還する可能性が高いかといえば、ウェインウェインの方だろう。

 もちろん、エミリーとの約束を違えるつもりはない。連れ帰ると言った以上、それは絶対だ。面識のないマーカス個人に対して思うところは一切ないが、むざむざ死なせては彼女が悲しむ。見ず知らずの人間とはいえ、間接的におれにも影響が及ぶのなら、見過ごす訳にはいかなかった。

 アトラスの口にする僚友という概念は、おれにとって感覚的に捉えることが難しいものだった。仕事仲間というほどの意味の言葉だが、やつはそこにそれ以上の意味を見出しているように思う。やつ自身、マーカスやウェインウェインと特に親しい訳ではないだろう。それでもなお、ともすれば自らが危険に巻き込まれる可能性のある救出行に出ることを少しも厭わない。それは、仕事だから当然だといって片づけられるようなものではない。

 目指す平原までは、まだ距離があったが、周囲には雪が舞うようになった。機内の温度も下がり始め、心なしか操縦桿の動きが悪くなっていた。エルロンが凍結しかけているのかも知れない。低温は飛行機にとっていいことではなかった。プロペラが凍りつくようなことがあれば、推進力を失った機体は地上へと真っ逆さまに落ちていくしかない。

 平原に着いてからも厄介なものだろう。吹雪が作り出した一面の銀世界の中から小さな人影を探し出さなければならない。雪が降り続き、次第に日も傾いていく中で、しかし一晩も待つことはできなかった。雪原の遭難者が次の夜明けを迎えられるとは思えない。

「魔力の充填は完了だ。加速する、舌をかむなよ」

「了解だ。おそらく、何時間か節約できるな」

 おれは手を伸ばして、計器類の横に後付けされたボタンを押した。噴射機構の内部に刻印された術式に魔力が通い、火と風の複合魔術が起動する。実際の現象としては、何のことはない。ただただ勢いよく、吹き出し口から激しい炎が吐き出された。その反作用を受けて、飛行機は前方へと強力に推し出された。

 急激な加速はある種の暴力だ。一瞬、おれとアトラスの体は押し潰されそうなほど強い力で座席に押しつけられた。飛行機はかつてない速度で飛んでいたが、充填された魔力の残量は瞬く間に減っていった。

「これは最大出力に振り向けすぎだな。もうちょっと調整しないとな」

 アトラスは冷静に分析していたが、おれはそれどころではなかった。速く飛ぶということはそれだけ風や空気抵抗の影響を受けやすいということであり、その影響に対する見込みが甘かったことを実感させられていた。機体の姿勢制御は困難を極め、空中分解するのではないかというほど酷く軋んだ。困ったことに、ひとたび加速してしまうと、噴射機構が魔力を使い切って自然に減速するまで、この状態から抜け出す方法がないようだった。速度はおれの求めたことではあったが、ジャンの安全上の配慮にも見落としがあったと言わざるを得ない。

 空気の流れに干渉する方法ならあるが、魔術で風を起こして飛行機を安定させようと思うなら、それなりの慎重さが求められる。歯を食いしばって操縦桿と格闘しながらでは、それは容易なことではない。試みようとは思ったが、少しでも集中を切らせばどうなるかと思うと、安易な判断はできなかった。幸運にも次善の策があったので、おれはすぐに頭を切り替えた。

「アトラス、機体を魔術で防護しろ。風の影響を和らげるだけでいい。この状態では、おれが自分でやるのは厳しい」

「俺は魔術なんて使えない。知ってるだろ」

「痛むと思うが我慢しろ」

 おれはアトラスに対して、魔力の経路を強引につないだ。やつの波長に合わせて無理やり押し込んだだけだが、一時的に魔術を使うことができるようになるはずだった。竜と人間では魔力の質が異なる上に、アトラスは魔力を蓄える器が貧弱なので、やつの身体的な負担は小さくない。しかし、背に腹は変えられなかった。少なくとも、分解しながら墜落するよりはいい。

 背後から苦痛に呻く声が聞こえてきた。やつを痛めつけたい訳ではなく、できればこんなことはしたくなかった。それでも、今のおれたちに必要なのは適切な状況判断と最適な行動であって、思いやりではない。アトラスはこういうものを使命感と呼ぶが、正直なところ、合理性との違いが分からなかった。

「やれそうか?」

「ヴァーミリオン……お前、無茶苦茶だぞ……」

「……さすがに悪いとは思っている。ある程度、減速するまでしのげればいい。大概の魔術の理論は知っているだろう?」

「まあ、な」

 息も絶え絶えの様子だったが、アトラスの声からは自信が感じられた。やつが無理だと言わないことであれば、任せても問題はない。そういうことに関して、おれはやつを信用している。やつが自らできると言ったことをし損じる可能性は、万に一つもない。

「それでは、任せたぞ」

 無色透明な風を目で捉えることはできないが、雪の白い結晶の舞い方で、機体の周囲の気流が安定したことが分かった。風防を半ば白く覆っていた雪は、それ以上は飛行機にぶつかるのをやめて、後方へと流れていくようになった。機体を囲むように作り出された空気の層が風を防ぎ、飛行機の姿勢を安定させていた。アトラスはやはり、魔術師として優れた素質を持っていた。今までは術者としてそれを発揮する機会がなかっただけのことだ。

 機体の激しい揺れが止まり、次第に速度も落ち着いてきたところで、魔力の接続を切った。地上の地形を見た限り、目指す平原まで、あと一時間はかからないだろう。今のうちにアトラスを少し休ませておくべきだった。おそらく、やつは気を失うほどの苦しみを味わったのだから。

「アトラス、無事か」

「かろうじて、だな」

 やつの声には苦しげな響きがあり、色濃い疲労が感じられた。休息をとるように伝えると、やつは断った。

「そろそろ、通信機が通じる可能性のある距離だ。悠長に寝てられるか」

「無理はするな。貴様の体が焼き切れていてもおかしくなかった」

「それでもやらなきゃならないときってのがあるんだ。お前はそうしたし、俺もそうする」

 これが自らに課された使命だと言わんばかりに、アトラスは決然と作業に取りかかった。見なくとも分かる。凄みのある気配が背後から伝わってきて、おれは改めて、使命というものについて考えさせられた。

 使命は義務と似ている。どちらも、それをしなければならない、という性質のものだ。義務は行動を縛るものであり、他者や社会、ときには自らの良心によって生み出される。アトラスの使命感は、そうしたものとは異なる。やつは自身が正しいと信じることを、その信念のみを根拠にして、自らの使命としている。おれがこんなことを知っているのは、飛行機の操縦技術に関する記憶を渡された際、やつの信条の片鱗に触れてしまったせいだった。

 程度はともかく、おれは影響を受けてしまったのだろう。思想のように掲げる必要は見出せないものの、理解できないことではないと感じている。おれはアトラスを通じて人間というものを学んできた。だから、やつが心身を削ってでも進まなければならない理由は分かる。

「僚友のため、ということか……」

 おれのひとり言に答えが返ることはなかった。飛行機は分厚い雲の下、猛吹雪の中に突っ込み、視界が白く染まる雪の空を飛び続けた。

 北の平原の上空に至り、おれは高度を下げて地上に目を向けた。地上班が設置した標識がどこかにある。それは航空写真上で判別して位置を特定できる大きな構造物なので、飛行機からでも見分けられるはずだったが、雪に埋もれている可能性もあった。見つけられれば、そこを起点にして、マーカスとウェインウェインの足取りを追うことができるかも知れない。もっとも、この降雪では雪の上に足跡が残っていることはないだろう。どれほどの幸運に恵まれたとしても、このまま上空から眺めているだけでは、わずか二人の小さな遭難者を発見することはできない。

「アトラス、通信はどうだ?」

「だめだ。雪のせいでかなり入りが悪いし、そもそも彼らが通信を試みてるかも分からない」

「降りて探すか? 地面は雪に覆われているが、障害物はない」

「滑走路がないんだ、離陸できなくなる。機会は一度限りで、下手すれば俺たちまで遭難しかねない」

 飛行機が飛び立つ際には、翼が十分な揚力を得るまで地上を走らなければならない。この積雪では、どれほど開けた平原であっても、滑走路の代わりにすることなど不可能だった。

「機内で風雪をしのげば、一晩くらいはもつはずだ」

「的外れなところに着陸したら、それまでだ。そんな賭けはできない」

「ならば、ほかの賭けをする。操縦を代われ」

 返事は沈黙だった。絶句しているのかも知れない。白い雪原と灰色の曇り空の間にあって、聞こえてくるのは雪と風の奏でる狂詩曲だけだった。

 アトラスは負傷が原因で飛行士を続けられなくなったが、それは飛行士に求められる身体要件を満たせなくなったためだ。あくまで資格の上で不適格とされただけであって、片手でも操縦桿を握ることはできる。やつは律儀に規則を守っているが、全く操縦できない体になった訳ではなかった。

「俺は操縦できない」

「待たせた挙句がそれか、腑抜けめ。理由はなんだ?」

「知ってるだろう。片手が使い物にならないからだ」

「規則ならおれも承知しているが、そんなことを言っている場合ではない」

「そうだとして、操縦を交代してどうするつもりだ?」

「おれは飛び降りて地上を捜索する。遭難者を見つけたら合図するから、近くに着陸しろ。合図がなければ、おれのことは放っておけ。少なくとも、おれが凍死する心配はない」

「無茶だ。お前が無事に済む保証はない」

 アトラスにはさらに言い募ろうとする気配があったが、それ以上、引き止める間を与えなかった。素早い動きでやつの手をかわしてドアを開け、おれは空中に身をおどらせた。

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