序章 その2

 飛行機の周囲を取り巻く激しい風、眼下には険しい山脈。山肌を覆う植生は変化に富むが、ほかの生き物の侵入を拒むように鬱蒼としている。およそ開拓できるような森林ではなく、高所まで登れば木々はまばらになるものの、切り立った崖や深い渓谷が多くなる。開けた場所もありはするが、そういうところには大型生物が棲みついている。

 ただでさえ厳しい土地だったが、その上、魔力の流れも酷く乱れていた。以前からそうだったのか心当たりがないが、それを言えば、この辺りで常に強風が吹いていたという印象もなかった。聞けば空を連想する風の音を、無意識のうちに拒絶していたせいかも知れないが。

 改めて見れば、ここは自然豊かな山脈でありながら、多くの生き物にとって過酷な魔境なのだった。生息している魔物の気配を感じることがあったのを覚えているが、竜に恐れをなしていたらしいあの連中にしても、この地で生き抜く強かさを秘めていたのだろう。野生動物でさえもが、環境に適応したのか随分と強靭そうな体つきだったことを思い出した。

 おれの寝ぐらがあったのは、天嶮山脈でもひときわ高い山だったらしい。というのは、目に見えるのではないかと思うほど明らかな痕跡が残っていたために分かったことだ。さすがに上空からの目視で当時の寝ぐらは見つけられないと思っていたが、おれの体から染み出た魔力が色濃く残留していたのか、身に覚えのある波長を感じとれた。

 その波長は山脈から吹き上がって上空を乱れ飛び、勢いそのままに空気の流れを乱して風を巻き起こしていた。どうやら、おれは知らない間に、この辺り一帯に少なからぬ影響を与えてしまっていた。

「ちょっと確認したいんだが、アトラス、この空域で強風が吹くようになったのはいつからか分かるか?」

「元からそういう傾向はあったらしい。が、俺も人づてに聞いただけだが、終戦の頃から特に凄まじくなったそうだ」

 やつは突然、声を上げて笑い出した。おれと同じ発想に至ったのだろう。こちらとしては苦い顔をするしかない。

「まさか、お前が原因だったのか。いや、今まで思いつかなかったのが不思議なくらいだ。不貞寝しながら垂れ流した魔力が一帯を汚染したのか?」

「貴様、もう少し言葉を選べ」

「悪い悪い。そうだな、学術的に言い直そう。竜が長く留まる土地は彼らの支配下に置かれる。彼らはそれを意図的に行うのではない、ただ彼らの強大な存在そのものがそれを為さずにはいられない。そういう学説があるんだが、それを実際に目撃することになるとはな」

「当時のおれは弱っていた。現象としては起こり得るとしても、数年程度でそこまで影響があるものか?」

 竜がしばらく滞在するだけで環境が劇的に変化するのなら、おれたちは遥か昔に大陸中を荒らし尽くしてしまっていたはずだ。

「お前の影響を受けやすい土地だったとか、何らかの条件があるのかもな。だが、こう言っておこう。さすがは〈暴風〉のヴァーミリオン、どんなときでも風を巻き起こさずにはいられないってことか」

「それを言うなら、〈竜墜〉のアトラスの仕事が中途半端だっただけだろう。貴様がおれを仕留めていれば問題なかった」

「それは分からないな。竜は亡骸になっても強い力を宿すものだ」

「屍竜の支配地になるよりは穏当だったか」

 現におれがこの地を支配しているのなら、状況はもう少しよかったかも知れない。しかし、おれは故郷を離れた身だ。今さら、おれが変えてしまった山脈の環境を元に戻すほどの影響力を行使することは難しい。おれが原因で生じた変化は、既におれとは関わりなくひとりでに循環している。

 ここはさながら、王を失った土地だった。

「推測になるが、おれが留まっていたことで活性化した魔力流が、おれが去った反動で乱れているのだろう。そうでもなければ、ここまで荒れた状態になるとは思えない」

「お前の責任って訳じゃないだろう」

 責任という点に関してはアトラスの言葉に同意するが、このまま見て見ぬふりをするのは気が咎めた。それこそ竜でもなければ、この空域を飛ぶのは容易なことではない。このまま放置すれば、おれは、ほかのものたちがこの地の空を飛ぶことを妨げる悪しき竜になってしまう。それは気に食わなかった。

「おれがこの強風を治める。その方が仕事にも好都合だろう?」

「それはそうだが、手段はあるのか?」

 アトラスの口調は懐疑的だったが、反対するつもりはないらしく、やつはおれの答えを待つように黙った。おれは少し考え込んだが、結局は最初の直感に従って単純な答えを選んだ。

「誰が帰ってきたのか分からせてやればいい」

 おれは操縦桿から手を離し、飛行機が風に流されるに任せた。機体は右に左に吹き飛ばされ、座席にベルトで固定されていなければ、おれもアトラスも壁に叩きつけられていただろう。

 この乱気流は荒れ狂う魔力流が引き起こしたものだ。風を直接に操ることは困難だが、元々は自分のものだった魔力を再び制御することなら不可能ではない。完全に治めることはできずとも、安定させることはできるはずだった。この空域を飛ぶものにとって、風向の定まらない荒れた気流に比べれば、一方向に吹き続ける強い風の方がよほど御しやすい。

 おれは機体の外に不可視の腕を伸ばす様を思い描き、実際に腕を動かした。おれが手を握るのに合わせて、拡張された実体のない手が風と魔力の流れを掴む。掴んだものを強く引き寄せると、おれの意に従って空気の流れが変わった。

「すごいな、風を掴んだのか」

「正確には風と混ざり合った魔力だ。それを動かすことで、風も一緒に引きずられてくる」

「風そのものは難しいか。どっちにしろ、人間の魔術師に真似はできないな」

「魔力量次第だが、貴様なら一瞬で干からびるだろう」

「そもそも魔術が発動しないから、その心配はない」

 操縦桿が不安定にぐらぐらと揺れるのは意に介さず、おれは風を繰る腕を止めなかった。ひときわ強い風にあおられた飛行機は飛び続けるのが困難なほどに傾き、ほとんど曲芸のような状態になっていた。

 空気の流れに沿って飛んだ結果がこれであり、風に飛ばされただけだと言った方が実態に近い。しかし、風に舞うとはこういうことであり、流れに逆らおうとしても上手く風に乗ることはできない。

「これはこれで面白いと思わないか?」

「そうだな。だが、気をつけろ、このままだと墜落する」

 アトラスに警告されるまでもなく、その危険があることは承知している。おれは両手で風を引き上げ、飛行機の下に上昇気流を起こした。何の制御も受けていない機体は風の吹くまま、空の高みへと押し上げられた。

 操縦桿で飛行機の姿勢を調整するのは、機体を風に乗せるためだ。今、おれは風の方を制御して機体を運ばせようとしている。何度か流れを従わせることで勝手が分かってきたので、燃料を温存するために発動機を停止させた。

「アトラス、不安か?」

 やつはこの期に及んでおれのやり方に反対しないが、さすがに内心では思うところがあるのではないだろうか。自らの翼で空を揺蕩うのに近い感覚で飛んでいる状態になったことで、おれには心情的な余裕が生まれていた。少しくらいはやつのことを気遣ってやってもいい。

「お前を信頼してる。不安なんかないさ」

 何となく不本意なことに、やつの声には心からの信頼が聞き取れた。こちらとしても、いくらかの敬意はあるのだが、おれたちが互いに差し出すものに釣り合いが取れていないのは、借りを作るようで嫌だった。

「そうか。ならば、少しの間、貴様に竜の飛び方を味わわせてやろう」

 おれは機体の両翼に沿うようにして、魔力で編み上げた竜の翼を生じさせた。不可視の翼を羽ばたかせ、機体を自らの体のように運ぶ。この方法で長時間の飛行はできない。そもそも、この空域の風が多分に魔力を孕んでいるからこその芸当だった。

 見えない翼で飛びながら風を捕まえ続け、周辺一帯を駆け巡った。心地よい疲労を感じ始めた頃には、天嶮山脈上空の乱気流は消えてなくなっていた。相変わらず強烈な風が吹き、地上と空の間で濃い魔力が循環していたが、以前ほどあらゆるものを拒絶する空域ではなくなった。

 魔力で作った翼と腕を消して、ひと仕事を終えた気分に浸りながら発動機を作動させた。プロペラが小気味よく回転して、飛行機を前へと進める。風を受けるエルロンの角度によって、機体は旋回を始めた。

「なかなか楽しかった。そろそろ帰るとするか」

「待て、ヴァーミリオン。仕事を忘れるな」

「冗談だ」

 もちろん、本来するべきことが何かは覚えている。風を調律する間に太陽は中天に移り、おれは魔力の消費が激しかったので腹が空いていた。携行食の乾パンを取り出して口に押し込む。石のように硬いと言われる社給品だったが、おれは平然と咀嚼した。

 この後は、事前に計画した飛行コースに従って飛行機を飛ばしながら、地上の写真を撮影する。予定していた撮影開始地点からかなり離れたところまで飛んできてしまったので、まずは開始地点に移動しなければならない。その移動の間くらいなら、今の心易い気楽さを感じていても構わないだろう。

「アトラス、風が強く吹く空は好きか? おれとしては、挑む価値があるという点で、強風や嵐にはかなり惹きつけられるものがある」

「強風にも凪いだ空にも、それぞれの魅力がある。ちなみに俺は、雲が白く光って見えるくらいの、ほどよい曇り空が一番好きだ」

「雲間から射す光、あれはいいものだ」

「つくづく気が合うな」

 空も大地も生き物も、色々な顔を持っている。その全てが素晴らしいということは決してなく、時として恐ろしいものにもなり得る。とはいえ、誰もが同じように感じることも決してなく、そこには嫌悪もあれば畏怖もあり、失意もあれば愛もある。

 そんな多彩な違いの中で、同じ思いを抱く相手に出会うことは、きっと喩えようもなく幸運なことなのだと思う。ともすれば孤立と排斥に向かう竜にとって、これは得難いものだった。

 人間たちに混ざって暮らすようになってから、おれはまだ短い時間しか過ごしていないが、彼らから学ぶことは少なくないと感じている。竜とは異なる生き物だからといって、彼らと関わることが無益になりはしない。しばらくの間、風の流れに身を委ねるように、おれは彼らの間を漂流することだろう。

 思えば、アトラスは風のようなやつだ。気ままに空を吹き流れる、かつての宿敵にして、飛行士としての先達。今のやつがおれにどのような顔を見せるのかといえば、それはおれの受け取り方次第だ。雲の間に一筋の希望を見出すか、それが地に落とす暗い影に視界を奪われるか。降り続く雨は来るべき災禍の兆しか、空がもたらす約束の恩恵か。

 さて、少しは真面目に仕事をしてやることにしよう。そう思って、おれは操縦桿を握る手に力を込めた。

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