序章 風に舞う

序章 その1

 おれは飛行士として正式に雇われることになったが、いつでも自由に飛行機を飛ばすことはできなかった。会社の所有物を仕事で使用することになるので、あまり好き勝手はできない。

 空が飛べるのなら、何でもいい。そう思っていたが、最初の一週間は全く飛ぶことができなかった。新人研修と称する講義や説明やらに時間をとられ、おれは次第に不満を募らせていった。

「次に飛べるのはいつなんだ」

 噛みつくように問い詰めると、アトラスはなだめるように鷹揚な言い方で、もう少しだけ待て、研修で学んだことをよく理解しておけ、と言った。その場で理解して記憶しているので、復習の必要などない。

 アントワーヌ航空は現在、大陸全土を網羅した地図を作成する国際プロジェクトに参画している。このプロジェクトは戦争からの復興と国家や種族を超えた連帯を象徴するものであり、大陸中が注目する大事業だという。

 大まかに言えば、飛行機で上空から写真を撮影し、それを基に地図を描いていくだけなのだが、作業はいくつかの工程に分かれている。それぞれの工程に専門的な技術が必要とされることもあって、関連産業の活性化にもつながっている。

 特におれが関わるところで言えば、飛行機と写真機。飛行機は先の戦争中に著しく発展したもので、経緯はどうあれ役立つものは活用していく方針だという。写真機について詳しいことは知らないが、今回のプロジェクトのためにどこかの魔術師が新たな機構を考案したらしい。

「なんと、それはアトラスさんの仕事なんだ」

 もったいつけて説明したノクトが、まるで自らの手柄のように得意げにしていたことを思い出す。自力で魔術を行使することができない身の上で、アトラスがその分野の仕事をすることがあるとは意外だったが、知人の魔術師から頼まれてのことだったという。

 飛行機から地上の写真を撮影する際には、一枚一枚の写真にほどよい範囲が写るようにして、連続する二枚の写真が重なる部分だけを地図に描く。それは飛行機と地上の間にかなりの距離があり、写真の端に向かうほど、写ったものが外側に倒れる、その現象の補正のためだった。撮影範囲が重なる二枚の写真を使って立体視することで、擬似的にだが、描画範囲の全体を真上から見ている状態にすることができる。

 これを上手く実現するには、飛行速度に応じて間隔を変えながら連続してシャッターを切る必要があり、それに加えて、一枚一枚の写真の撮影時の飛行高度なども記録しなければならない。アトラスの考案した機構はそうした一切を自動的に行うもので、魔術機構でありながら術者を必要としない。事前に魔力が充填してあれば誰でも作動させることが可能で、充填の方法にはどこか別の国の技術者が開発した魔力電池とかいうものが使われているという。

 この辺りの説明を聞いていて、いっそのこと地図の描画も魔術機構で自動化してしまえばいいのではないか、と疑問に感じた。なぜかそれは手作業で行われることになっていて、それについてアトラスに尋ねたことがある。

「言うほど簡単じゃない。紙に印刷された情報を読み取るだけなら、どうとでもなるだろうが、二枚並べて立体的に見るなんてのは視覚ありきの話だ。実現するには眼球を再現する魔術が必要だろうな。そこから、架空の目だけに映っているものを描画する仕組みも構築しなけりゃならん。仮に機構を組めたとしても、眼球の部分は常に微調整が要る。そんな繊細なものを運用するのは骨だろうな」

 それに、とやつは続けた。

「その仕組みだと、ごく一部の優れた魔術師にしか扱えない。それは大陸中の共同作業という理念に合わないんだよな。ま、情勢を考えれば、みんなで手間暇かけて苦労するのが、むしろ正解だ」

「撮影用の機構の方はいいのか?」

「俺は基礎を設計したが、その先の開発に関わった魔術師や技術者は大勢いるし、十分な数を製造するには国際的な協力体制が不可欠だった。専門的な設備や特殊な材料を全て自国だけでまかなうのは、どの国にとっても難しい。そういうところでしっかり助け合ったんだ」

 正直なところ、国際社会がどうたらこうたらという話に興味はない。国家も種族も超えた協調がどれほど広がっても、竜がそれに加わることは永久にない。おれたちは同族ともなれ合わず、あらゆる物事に個として対峙する生き物だ。そこから外れつつあるおれは、まだ自分が竜と呼べる存在なのか、あまり確信できなくなってきている。だからといって、おれが人間になるということもない。自己認識に下らない揺らぎが生じているのは、きっと空を飛べていないせいだ。

 苛立ちに耐えながらさらに待つこと数日、ようやくそのときがやってきた。

「お前の初仕事が決まったぞ」

 アトラスの言葉が耳に届いた瞬間、空への期待に胸が高鳴り、おれは食いつくように反応していた。

「いつだ」

「三日後だ。撮影地域は、お前がいた山を含む山脈の辺り一帯。常に強風が吹き荒れて飛行困難な空域だが、問題ないな? お前はあの辺りに詳しいからってことで推薦したんだが」

「おれはあの山に墜落しただけだ。飛び慣れてなどいない。それを期待していたのなら、当ては外れたな」

「そうか。ま、どちらにせよ、お前なら能力的に問題ないはずだと判断されたからな。撮影に行くことに変わりはない」

「それはいいが、なぜ三日も待たされる。おれは今すぐにでも出発できる」

「気象条件の都合もあるし、機体の整備もある。それに、対空標識を設置する時間も必要だ。人里離れた山岳地帯なもんだから、少し難航したらしい」

 最終的に地図を作成することを目的としているので、写真上の特定の地点の地理座標を把握する必要がある。そのために用いられるのが対空標識で、実際に測量した標識の座標と地図上の座標を対応させることで、写真を地図に落とし込む。要するに上空からも見える大きな目印が必要ということで、街中なら建築物で代用することもできるが、山中には都合のいい目印がなく、撮影前に設置しなければならない。

 空が飛びたいだけのおれにとって、地上での作業は地味に感じられて仕方がないが、地図を作る上では欠かせない工程だった。標識の設置や測量だけでなく、上空から写した写真では確認できない細部の調査なども地上班が行っている。その重要度を思えば、決して飛行機だけがプロジェクトの主役ではないらしい。

「三日が限度だ。それ以上は待たない」

「その場合、お前も地上班の仕事を手伝わないとな」

 三日が過ぎ、早朝、おれとアトラスは予定通り航空撮影のために飛び立った。今回の飛行機は試験のときの機体が旧時代の遺物に思えるような最新型だったが、飛行という本質に変化はなく、基本的な操縦方法も同じだった。

 上空へと高度が上がるほどに気持ちが昂るのを感じたが、あまり感情的になるのはよくないので、歓喜は内心に残しておき、努めて冷静を装った。

「今日は笑い出さないのか?」

 アトラスに茶化すような口ぶりで言われ、やつには見抜かれているのだと分かった。おれはそれに答えず、仕事に取りかかった。

「計画に従い、天嶮山脈に向かう」

「了解」

 おれの寝ぐらがあった山を含む山脈は、人間どもから天嶮山脈と呼ばれている。古くから非常に険しい山脈として知られ、いくつもの高山が連なる様から、神々の頂とも言われていたという。もちろん、実際に神々がいる訳ではなく、遭遇することのある生き物といえば野生動物や魔物くらいのものだった。

 街のかなり東に位置する山脈に辿り着くには、陸路では一週間ほど要するが、飛行機で空を真っ直ぐに飛べば数時間で済む。着陸できるような場所はないので交通手段にはならないが、上空から地上を撮影する分には何の不都合もない。

 おれもアトラスも空を飛ぶこと自体を楽しみに感じるので、互いに黙ったままでも少しも気詰まりではない。とはいえ、数時間の行程ともなれば口を開きたくなることもあった。

「少し気になっていたんだが」

「何がだ?」

「三日前の時点で、今日は晴れると予測していたな。あれはどういう仕組みだ。おれの知らない魔術でもあるのか?」

「魔術じゃあない、科学だよ。各地の気象状況を観測して分析することで、先の天候を予想できるんだ」

「雨に煙る風景がいつ見られるか分かるのか。それはいい」

「大抵の人間は、いつ晴れるのか知りたがるけどな。竜にとっても、雨天を特別に好む理由はなさそうだが」

「竜がどうとかは関係がない。おれの趣味だ」

 おれたちは都市から山脈へ向かう航路を飛んでいる。眼下では次第に建物が疎らになり、開けた土地が少なくなり、やがて人間の活動の痕跡は森林に呑まれて消えていく。上空ではどこを飛んでいても慣れ親しんだ空を見られるが、地上は変化に富んでいた。人間の街に住むようになる前、空に生きていたかつてのおれには、大地の上での多少の差など意味のあるものには思えなかった。今なら、それは単に地上のことをほとんど顧みたことがなかったからだと分かる。

 大地には多くのものがあり、多くのものがいる。人間ばかりの土地もあれば、魔物や幻想生物が棲む地域もある。野生動物の生息地もあれば、植物が支配的な土地も存在する。

 人間は土地を拓き、道を敷き、建物を建てて街を作る。幻想生物には仲間同士で集まって集落を作るものもいれば、他者を寄せつけず個として自然の中に生きるもの、逆に存在するだけで土地を荒らしてしまうものもいる。ほかの生き物たちにしても、それぞれの生態に沿って大地に暮らしている。

 空を飛ぶ鳥でさえ、竜でさえもが、地上で眠る。命あるものはみな、土地に根ざしている。

 ひとたび大地に向き合ったなら、空から地上を見るだけでも、そこに何者がいるのか知ることができる。この大地は生きとし生けるものたちの土地であり、有形無形を問わず、彼らはその痕跡を作り続けている。

 次第に風が強く吹くようになり、おれは目的地が近づいていることを知った。天嶮山脈の周辺は苛烈な強風が吹き荒れる飛行困難な空域だと聞かされていたが、自らの翼で飛べた頃、強風ごときで飛ぶのが難しいと感じたことのないおれは、どこか話半分にしか思っていなかった。そこに飛行機で接近している今、否応なしにそれが誤りだったことを実感させられていた。

 吹き荒ぶ風が機体を揺さぶり、安定した飛行姿勢を保つのも一苦労だった。操縦桿を細かく動かして微調整しながら、おれの額からは嫌な汗が流れていた。翼を強く羽ばたかせるつもりで力を込めて発動機のペダルを踏みしめても、プロペラが生み出す推進力が増すことはない。機械の仕組みは冷徹なもので、意思の力で限界を超えられるものではない。推進機構としてのプロペラには適切な回転数があり、自ずと出力には限りができてしまう。それ以上の力で吹きつける風を易々と切り裂いていくことはできないのだった。

 それでも、絶えず強風に吹き流されながらも、飛行機は前へ前へと飛び続けた。やがて、見覚えのある山脈が眼前に広がっていた。その全景は墜落したときに目にしたかどうかだが、何かしら記憶に残っていたのだろう。ここが天嶮山脈、ある意味では懐かしいと言えなくもない山々だった。

 本来、空に生きる竜に地上の故郷はない。大地のどこかで生を受けはするが、その地に対する思い入れを持つことはない。しかし、ここはおれの故郷だった。長く留まったからではなく、おれが死に、再び生を受けた場所だからだ。アトラスに撃ち落とされ、そして、やつの誘いに乗った。蘇ったおれが生きる場所は空だけではない。土の上を歩くものはみな、どこかで故郷とつながっている。

 天を衝く山々の上空を飛びながら、おれは地上に思いをはせた。故郷なのだと思っておきながら、ここがどのような土地なのか、おれは知らない。この空域、この地の空のことも知らない。

 ここはかつて、死を待つだけの牢獄だった。その当時のおれが精神の目を開くことなどなかった。死にゆくものは漂白されていく。何を見たとしても、結局は何も見ることができなかっただろう。目を覚ました今なら、きっと違っている。

 知りたい、と思った。

「アトラス」

「どうした?」

「仕事にかかる前に、少し時間をくれ。おれはこの地と空のことを、あまりにも知らない」

「いいぜ。ただし、帰りの燃料が足りなくならないように気をつけろよ」

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