始章 その4

 適当に時間を潰してからアントワーヌ航空の社屋を訪れると、ノクトが待ち構えていた。昨日の冷静さを欠いた様子とは打って変わって、落ち着いているように見えた。

「来たな、竜」

「ヴァーミリオンだ。名前くらい覚えられないのか、人間?」

「お前は試験に落ちて不採用になり、今日限りで俺の人生から消える。覚えておく意味がないな」

 このときもまた、おれは少し感心していた。ノクトは平然とおれを挑発し、恐れる様子を微塵も見せなかった。離れたところからこちらを伺っているエミリーやほかの事務員たちの不安げな視線など、意に介する気配もない。

「一つ忠告してやる。蛮勇はほどほどにしておけよ、ノクト」

 おれが急に名前を呼んだことにノクトは戸惑ったようだったが、無視して先を続けた。さすがに理解しているが、こいつはおれを嫌っていて、穏当に会話するのは難しい。

「脅す訳ではないが、おれはお前を簡単に殺せる。同じことができるやつはいくらでもいて、お前がいつ、そういう連中に出会うか分からない。よく知らない相手を無闇に怒らせない方がいい」

「脅迫か」

「違うと前置きした。付け加えると、おれは安い挑発に乗せられるほど短絡ではない。これ以上は時間の無駄だ」

 アトラスがもの問いたげな目つきで見てきたが、やつのときは別問題だ。あの時点で、やつとの間には深い確執があり、おれ自身の精神状態もかなり悪かった。

 おれの忠告を聞き入れたからかは分からないが、ノクトは実技試験の説明を始めた。目には敵意を宿したままだったが、試験官としての仕事はきちんと果たすつもりらしい。

「本来なら飛行機の操縦免許を取得していることをもって、基礎については問題ないと判断するところだ。しかし、アトラスさんの保証があるからといって、一切の実績がない者を安易に信用することはできない。そこで、今回は俺も同乗してお前の一挙手一投足を確かめることにした」

「好きにしろ」

「お前に断る権利はない。試験内容自体は通常通り、高度を保って所定のコースを安定飛行できること、急旋回などの緊急措置が取れること、通信士と適切な意思疎通ができることなどを確認する」

 飛行の安定性のような項目は、飛行機に搭載された計器が測定する飛行記録を基に評価されるという。そのため、通常なら試験官は同乗せず、管制室で試験を監督するらしい。万が一、おれがまともに操縦できなければ墜落事故の巻き添えになるのだから、ノクトはなかなかの果断を下したと言えるだろう。

 それにしても、ようやくだ。社屋を出て格納庫に向かいながら、おれは胸の高鳴りを感じていた。

 見上げた空は一面の快晴で、まるで祝福のように澄み渡った青色がどこまでも広がっていた。

 最後に空を飛んでから、どれほどの歳月が過ぎ去ったのだろう。実際のところはそこまで長い期間ではないのかも知れない。しかし、生きながら地獄に落とされたような日々だった。地に伏していた間、おれは無気力で厭世的、否応なしに続く生に辟易していた。

 それも今日で終わる。

「楽しみか、ヴァーミリオン?」

 アトラスに呼びかけられたが、おれは沈黙を返した。柄にもなく浮わついた心地でいることは知られたくなかった。

「口に出したからって、楽しみも喜びも減ったりしないぜ?」

「確かめてみたいとは思わないな」

「ま、それはお前の自由だ」

 早朝に見学した飛行機の傍らにジャンが立っていた。彼は手を挙げておれに合図を送った後、ノクトに話しかけた。

「指示通り、座席を一つ取りつけてあります」

「助かる。急な頼みで悪かったな」

「いえ、問題ありません」

「ところで」

 ノクトは目を細め、疑るような声音で先を続けた。ジャンはわずかに顔をしかめたが、淡々と応じていた。

「君はヴァーミリオンと懇意なのか?」

「今朝が初対面です」

「それにしては親しげじゃないか。君は割と気難しい方だと思っていたが」

「悪いやつではないと思ったので。何か問題が?」

「すまない、気を悪くさせるつもりはなかった」

「あんたがヴァーミリオンを嫌ってても不思議じゃねえが、試験は公正にやってくだせえよ」

「心得ている」

 おれたちは無言で飛行機に乗り込み、各々の座席に着いた。ノクトは操縦席のすぐ後ろに座っていて、背もたれ越しに鋭い視線が突き刺さってくるように感じられた。試験官は一切発言しないことになっているというが、これでは背後から小言を言われているのとあまり変わらない気がした。

 風防から外を見る。滑走路へ続くシャッターは開けられていて、機首は既にそちらに向けられている。長々と続く滑走路を真っ直ぐに進んだ先で、飛行機はおれをずっと待ち望んだ空に揚げる。

 期待に胸がおどり、座席のベルトを締めるのももどかしかった。手順に則り、操縦桿やペダル、計器類の確認をする間も、気が逸るばかりだった。自分の準備を終え、通信機の点検をしているであろうアトラスに状況を尋ねた。

「問題ない。いつでも発進できるぞ」

 飛行中の意思疎通のためのヘッドセットを着用し、ペダルのロックを外す。ペダルを軽く踏み込むと発動機が作動して機体の電気系統に息が吹き込まれ、プロペラが小気味よく回り始めた。おれは通信士に、飛行士として最初の指示を出す。

「管制へ伝達。ヴァーミリオン及びアトラス、これより試験飛行を実施する」

「了解」

 背後から通信機を打電するカシャカシャという音が響いた。

「伝達完了……管制より発進許可」

「了解。発進する」

 ペダルの踏み込みを強めるとプロペラの回転が速まっていき、十分な推進力を得た飛行機は前進を始めた。最初はゆっくりと、格納庫を出て滑走路を走りながら次第に速度を増していき、翼は揚力を得て機体を空に向かって押し上げる。

 おれは操縦桿を手前に引いてエルロンを動かし、機首を上に向けた。いくらか浮いているだけだった飛行機は急速に上昇を始め、瞬く間に上空に達した。

 風防から見える光景は空の青色、ただ一色に染まった。それは地上から見上げる空の青さとは、決して同じものではなかった。

 機体を緩く旋回させながら、おれは感じ入った。

 空を飛んでいる。

 もう二度と飛ぶことはないと諦めていた空を、おれは飛んでいる。

 突き上げるような歓喜と包み込むような温かさが胸の内に広がり、おれの感情は自分でも訳が分からなくなるほどに、ぐしゃぐしゃだった。

 知らぬ間に涙が流れ出す一方、腹の底から笑いが込み上げてきた。後ろにいるアトラスやノクトは、ぎょっとしたことだろう。ヘッドセットから聞こえるアトラスの声には、不安げな響きがあった。

「おい、ヴァーミリオン。少し落ち着け」

「これが冷静でいられるものか! おれは空を飛んでいるんだ、最高の気分だ!」

 おれは目元を拭い、なおも笑い続けた。アトラスをしばらく待たせた後で、ふと冷静になり、咳払いをした。

「すまない。少々、気が昂っていた」

 内心の興奮は冷めやらなかったが、さすがに少しは落ち着いたところで、試験の最中だということを思い出した。気が触れたように笑い続けたことや今も行っている無意味な旋回は、減点対象になるのかも知れない。ついでに言えば、アトラスから注意を受けたことも。

「俺は一切、助言できない。自力でやるしかないからな。頼んだぜ」

「任せておけ」

 その宣言通り、おれは所定の飛行パターンを危なげなく消化していった。数時間後、試験項目を全て終えたときには、飛行機は街のかなり西の空を飛んでいた。眼下に見えるのは特徴のない平原や低山ばかりだったが、それを上空から眺めること自体が懐かしく、喜ばしかった。

 ここに至って、おれは真に理解する。単なる機械の枠に留まらない飛行機の偉大さを。視覚的な偉容という意味ではほかの人工物に劣っていようとも、翼のない者を空に導く偉業を果たす、それに勝るものはない。

 もちろん、空に生きる身の上としてのひいき目はある。そも、偉大さは優劣を競うものではない。それでもなお、おれにとってこれ以上のものはないのだという確信があった。

「試験の全行程を完了した。これより帰投する」

「了解……管制への伝達、完了」

 おれは機首を飛行場の方に向け、気分よく帰路についた。そのとき、飛行機が激しく揺れた。体感では、機体に外部から強い衝撃が加えられたようだった。何とかバランスを取り戻そうとしながら機外に目を走らせると、近くを飛ぶ巨大な鳥の姿が見えた。

「ロック鳥だ、急いで離れろ」

 同じものを目にしたらしいアトラスが、その正体を言い当てた。ロック鳥は育ち切れば竜に匹敵する大きさになる巨大な魔物だが、今、近くを飛んでいるやつは飛行機と同じくらいの大きさしかない。巣立ったばかりの若鳥なのだろう。魔物とはいえ巨体以外にこれといった能力がある訳でもなく、少しばかり小賢しいだけの普通の鳥だ。

 飛行機に乗っているこちらからすると襲われたように感じるが、ロック鳥としては攻撃の意思などなく、物珍しさから小突いてみただけなのだと思われる。敵意も魔力もなく、おそらくは上方の死角から接近されたので、気づくことができなかった。しかし、おれは油断していなかったとは言えない。飛行への陶酔によって、冷静さをやや欠いていたのは間違いない。

 機体は平衡を取り戻し、ロック鳥から距離を取り始めたが、怪鳥は後を追ってきていた。しばらくすれば飽きて離れていくかも知れないが、それまでは危険な状況が継続する。ロック鳥がその気になれば、飛行機を墜落させるくらい、容易いことだ。

「すまない、おれがもっと早く気づいていれば」

「自分を責めるな。こんなのは不幸な事故だ。死角からの攻撃に常に備えるなんてのは無理な話だからな。それに、先んじて発見していたとして、向こうの方が速いんだぜ」

 ヘッドセットから聞こえるアトラスの声は極めて落ち着いていた。やつはこうした状況に何度となく遭遇し、切り抜けてきたはずだ。その経験の為せる業なのだろう。それはおそらく、ノクトにも当てはまる。

「ヴァーミリオン、試験のことは忘れて、俺の指示に従って操縦しろ。アトラスさんは管制に伝達を。じきに無線の届く距離になるはずです」

 妥当な判断だとは思うが、気に入らなかった。力不足で当然だから、できなくてもいいという扱いは、おれにとってありがたいものではない。

「おい、ノクト。おれには対処できないとでも?」

「お前の技量は確かに高水準だが、経験不足はどうにもならない。無事に帰還できる可能性の高い方法をとるだけだ」

「ならば、おれに任せておけ。おれにはおれのやり方がある」

 ノクトから反論があると思ったが、その前に再び機体が激しく揺れた。一回目よりも強い力で翼の左側を踏みつけられたようで、飛行機はほとんど垂直に近い角度まで回転し、急速に高度を下げていった。大きく円を描いて旋回しながらロック鳥の姿を探すと、どこかへ飛び去っていく後ろ姿が見えた。それと同時に、飛行機の翼の一部が折れて落下していくのが目に入った。

「不時着する。それでいいな、ノクト」

 おれの呼びかけに対して、ノクトからは返事がなかった。おれは機体を水平にしようと苦闘している状態で、振り返って確認する余裕はなかった。代わりにアトラスから応答があった。

「気を失ってる。さっきの揺れで頭を打ったんだろう。今は気にするな。帰還することだけに意識を集中しろ」

 機体は水平に近づいていたが、絶えず左に傾いていく上に右のエルロンしか使えなくなったので、徐々に高度を下げながら旋回を続けるしかなかった。

「この状態で、帰還だと?」

「そうだ。俺の経験上、この飛行機はまだまだ飛べる。どこに降りるのも危険なことに変わりはないんだから、失敗したときの救助が早くなるように、飛行場まで行った方がいい」

「いくら何でも無茶だ」

「可能だ。お前のやり方があるんだろう? 俺の真似をする必要はない。魔術でも何でも、上手く使えばいい」

 魔力の塊のような生き物である竜は概して優れた魔術師だ。各々の性質によって得意とする魔術は異なり、おれの場合は風魔術に高い適性がある。〈暴風〉などと呼ばれるようになったのも、それが理由だろう。

 風魔術で機体の姿勢を制御すればいい、とアトラスは提案していた。竜の姿で飛ぶときにはよくやっていたことだ。飛行機でも似たようなことは可能だろう。しかし、どれほど精密に操縦したとしても、自分の体と全く同じとはいかない。第一、飛行機には竜体ほどの強度がない。制御するつもりが破壊してしまっては元も子もない。おれは機体の周囲にゆっくりと渦を巻く気流を生じさせ、慎重に加減を施しながら、操縦桿を傾けることなく機体に水平を保たせようとした。

 それは非常に神経を使う作業だった。今まで、おれは大雑把な感覚でしか魔術を行使したことがなかった。繊細で柔らかな仕方などおれの領分ではなく、続けるにつれて、脳が締めつけられるような圧迫感のある頭痛がするようになった。飛行機自体に魔術的な機構が組み込まれていれば、それを媒介にすることで多少は楽ができたかも知れないが、ないものはない。

「いいぞ、この調子だ。あとは、とにかく真っ直ぐ飛ばせ」

 アトラスの声には励ますような響きがあった。おれは眉間にしわを寄せて集中を保ちながら、機首を飛行場の方角に向けた。それから一時間ほど飛ぶと、遠目にアントワーヌ航空の社屋が見えた。気づくと燃料タンクのメモリはほとんどゼロを指していて、かなりぎりぎりの帰還だった。手順通りに滑走路に降りるのも簡単ではなかったが、ここまでの飛行で風魔術による姿勢制御に慣れてきたおかげか、危なげなく着陸することができた。

 飛行機を完全に停止させ、発動機のペダルをロックした。おれは一息つきたい気分だったが、そうも言っていられなかった。

「ヴァーミリオン、ノクトを運び出す。手伝え」

 急いで座席ベルトを外して後ろを確認すると、ノクトは意識のないまま、ぐったりとした様子で座っていた。打ちつけたであろう額から少なくない量の血が流れ出て、顔の半分ほどを覆って固まりかけていた。

「お前を焦らせないように黙ってたが、まずい状態かも知れない」

 おれとアトラスでノクトを飛行機から運び出し、駆けつけてきた救護の者たちに引き渡した。本来なら試験結果はすぐに伝えられるはずだったが、おれはひとまず帰宅するように言われ、状況が状況だったせいで、ジャンとの約束も流れてしまった。

 その日は夜通し目が冴えていて、一睡もすることができなかった。待ってもアトラスは帰宅せず、明け方にはやつから借りた航空史の本を読み終えてしまい、することがなくなった。気晴らしに少し歩こうかとドアを開けたところで、ちょうど訪問してきたらしいノクトに出くわした。

「出歩いて大丈夫なのか」

「出血の割に、大した怪我じゃなかったらしい。だがまあ、そういうのが分かるのは検査を受けられたからだ。お前のおかげでそれを早められた。礼を言う、助かったよ」

 ノクトは手に持っていた封書をおれに差し出した。

「そして、おめでとう。お前は全ての試験に合格した。今日からアントワーヌ航空の一員だ。歓迎するよ」

「本当か? 昨日までの刺々しさはどうした」

「それは忘れてくれ。俺はお前を認めたんだ。正直なところ、感情面でやや不安なところはあったが、その辺りはアトラスさんが指導してくれるだろう」

 当のアトラスは、おれの合否や今後の扱いに関する夜遅くまで続いた会議の後、会社の仮眠室に泊まっているという。アトラスの話になってから、ノクトの態度はいくらか硬化していた。彼は腕を組み、挑戦的におれを見据えた。

「アトラスさんがまた俺と組みたいと言ってくれるように、実力でお前を打ち負かす。覚悟しておけ」

「……負けるつもりはない」

 認めると言った口で妙な対抗意識を表明されたことに、おれは小さくため息をついた。おれはアトラスの相棒の座を巡って争いたいのではなく、単に何であれ敗北することが気に入らないだけなのだが、どうにも誤解されているような気がしてならなかった。

 とはいえ、競う相手がいるのはいいことだ。超えるべき壁があってこそ力も入るというもので、ノクトが優れた技量を有しているほど、おれにとっては張り合いがあってありがたい。

 わざとらしく不敵に笑ってみせると、ノクトは怪訝な表情を浮かべておれを見た。

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