始章 その3
「少し考えさせてくれ」
正直なところ、かつてのおれが空を飛ぶことに目的などなかった。好きなことを好きなようにやっていただけのことで、何らかの理由や意味があった訳ではない。今になってそれに変化があるのか、もしくは何も変わっていないのか、どちらにせよ自覚はない。
二度と飛ぶことはできないと諦めていた。それが覆されたことによって、長らく心に立ち込めていた霧が晴れたような心地はある。それは雨上がりの雲間から射す陽光のようであり、厳しい冬の終わりに吹き始める春の風のようでもあった。あの日を境に、体内に温かい血の通う感覚が戻り、世界が色づいて見えていた。
これだけのことがあってなお、全てが以前と同じになると考えるのは難しい。大切なものを一度は失ったことで、二度目の機会に対する想念には並々ならぬものがある。
おれは空を飛び続け、いずれは空で死にたい。
「果てだ」
どこまでも、どこまでも。命ある限り、果てしなく広い空の終わるところまで。そこに辿り着く前におれの方が終わることになっても、それはそれで構わない。目指すことにこそ、進み続けることにこそ、意味がある。
「いい夢じゃないか」
アトラスが感じ入ったように目を閉じた。おれは具体的なことを何も言わなかったが、やつなりに似たようなことを思っているのかも知れない。
「だが、職業人としては、あまりよくないかもな」
「おれは竜だ。人間の尺度に当てはめるな」
「分かってる。だからこそ、本心が聞けたんだということもな」
やつは面接の終了を宣言して、ドアの外にいるように言った。おれは言われた通りに部屋を出て、しばらく待った。テグジュペリ相手には畏まっていたのか、社長室から出てきた途端、アトラスは気の緩んだ雰囲気になった。
「お疲れさん」
「疲労はない。次は実技か?」
「それは明日の予定だ。すぐに受けられるのは運がいい。お前さえよければ、今日のうちに筆記試験も受けられる。試験問題は用意があるからな」
それからすぐに筆記試験を受けた。設問を読み、答案用紙に回答を記入する。難易度の高い試験だという話だったが、アトラスから提供された知識は確かで、おれが回答に苦慮することはなかった。人間にとってどうなのかは知らないが、竜の記憶能力をもってすれば容易な試験だった。
この日の残りの時間はアトラスの住居の掃除をして過ごすはめになり、夜遅くまでかかったが、翌朝はかなり早い時刻に目が覚めた。先に飛行場に行っていると書き置きを残して、おれは人気のない街を歩き始めた。
都市には人間によって建てられた数え切れないほどの建物が並び、彼らの生活が根ざした場所であることを実感させられた。竜の姿をしているときならそれほどの大きさには感じられない建築物も、人間の姿をとっている今は見上げるほどの高さになっていた。
見る者を圧倒する偉容とは単純な巨大さなどではなく、それそのものが持つ存在感によるものだ。天に瞬く星々、霧に覆われた遥か高き霊峰、広大無辺の砂漠に大海。どれも見るべき価値のあるもので、おれの空の旅にはいつも、そうした風景が共にあった。
ふと、かつての友を思い出す。最後に会ったのは、おれが翼を失って少し経った頃だった。彼女は共に巡った空の思い出を語り、身も心も失墜したおれを見限って去っていった。
今のおれを見て、スカーレットは何と言うのだろう。そんなことを考えながら歩き進むうちに、アントワーヌ航空の所有する飛行場に到着した。
飛行場は金網と柵で囲まれ、立ち入るには検問で警備員の確認を受けなければならなかった。前日のうちに渡されていた仮の社員証を見せると、警備員は怪訝な顔をしながらもおれを通した。おそらく、おれの外見が会社に雇われて仕事をする人間としては若すぎるのだろう。
格納庫に向かい、出入り口のドアを開けて中に入ろうとしたところで、背後から呼び止められた。振り返ると、人間離れした巨漢が立っていた。魔力の波長を探った結果、この男は人間ではなく鬼だということが分かった。
「おい、クソガキ。どっから入ったか知らねえが、ここは遊び場じゃあない。とっとと失せな」
「おれが本当に子どもだったら、貴様を見た瞬間に気を失ってもおかしくない。鬼は比較的、人間と親和性のある幻想生物らしいが、貴様はどうやっても怖がられる部類だろう」
鬼は傷ついたとでも言うように顔を曇らせ、帽子を被った額をしきりに撫でさすった。そこには本来なら角が生えているはずだが、それらしいものは見当たらなかった。鬼はすぐに強面に戻ったものの、当初ほどの気勢はなくなっていた。
「何者だ、何の目的でここにいる?」
「おれはヴァーミリオン、竜だ。今日、飛行士の実技試験を受けることになっている」
「試験のことは聞いてたが、竜だと? 誰がそんなこと決めやがった」
「アトラスとテグジュペリだろう。そんなことより、貴様こそ何者だ」
「俺は整備士のジャンだ。初めに言っとくが、俺は竜が嫌いだ。お前らは、せっかく俺が整備した飛行機を気軽に墜落させやがる」
「戦時中の話か? それなら、おれにも当てはまるが」
「それより前からだ。そりゃ事故のときもあったんだろうが、回収された残骸から見て、明らかに攻撃を受けてたときもある」
「ならば、竜で一括りにするな」
ジャンは帽子を脱いで前髪をかき上げ、元は生えていた角が根元で折られた傷跡を見せてきた。
「戦争が始まって、俺は鬼どころか幻想生物で一括りにされた。少しでも周りを不安にさせないよう、角は自分で折った。お前の言った通り、大して効果はなかったがな」
「自らの怒りの不当さが理解できるなら、これ以上、不毛な議論を続けさせてくれるな。おれは飛行機を見にきただけだ。壊すつもりはない」
「嘘だったら承知しねえ」
おれはジャンの後に続いて格納庫に入り、数時間後に自分が操縦することになっている飛行機を目にした。
一言で言えば、単葉のプロペラ機だ。
目測では、機体の全長は八メートルほどで高さは三メートル弱、ひと続きになった翼の両端を結ぶと十四メートル近くある。基本的には二人乗りで、詰め込めばさらに二人ほど乗れそうだったが、そもそも旅客輸送を目的とした機体ではないだろう。人間にしろ貨物にしろ、積み込んで運ぶには機内の空間が不足していた。
とはいえ、おれが最もよく知る種類の飛行機、かつて何度も遭遇した戦闘機と比べると、それなりの大きさだった。速く飛び、敵を撃つのとは異なる用途が与えられていることは明白で、何となく探してみたが機銃は付いていなかった。
「これは新人の訓練用に残してある引退した機体だ。だが、だからといって軽視するんじゃねえぞ。俺はどんな飛行機でも、心血注いで整備してる」
「当然だ。これに乗って空を飛ぼうというのに、軽く見る訳がないだろう」
機体の主材料は木材で、補強のために薄い金属板で覆われていた。塗装はところどころが剥げ、剥き出しの金属の表面には変色が見受けられた。ジャンがどれほど丹精込めて手入れしていたとしても、さすがに経年劣化は避けられないらしい。
外からは見えないが、内部には液体燃料の燃焼によって稼働する発動機があり、その回転が機体の前面にあるプロペラに伝わって推進力を生み出す。発動機の回転をそのままプロペラに伝えるのでは、効率よく推進力を生み出すことができないので、歯車を組み合わせた減速機構によって、プロペラが適切な回転数になるように発動機の回転を減速させて伝えている。
「内部の仕組みも見せてくれ」
「興味があるか。ちょうど、分解整備する機体がある。試験の後にでも見学に来るといい」
「おれが来る前に始めるなよ」
「少しは待ってやるさ」
ジャンはいくらか気をよくした様子だった。この機を逃さず、おれは機内に入る許可をとった。
飛行機に乗り込み、機内を見回した。前方には操縦席がある。強化ガラスで作られた風防からは、今は格納庫の壁しか見えていない。空高く飛び立ったとき、そこからはどのような景色が見えるのだろう。風防の下には計器類が並び、計器と座席の間に操縦桿が突き立っていた。操縦桿は両翼のエルロンと連動していて、機体の傾きを調整することができる。操縦席の足下にはペダルがあり、これを踏み込んで発動機の回転を調節する。
機内の中ほどにはもう一つの座席があり、通信機などの機械が置かれている。こちらが通信席であることは分かるが、アトラスからは通信士の具体的な技能に関する知識を受け取っていないので、詳しいことは分からなかった。
おれは飛行機から降り、改めて機体を眺めた。仕組みは知っていても、このような人工物が空を舞うことは不思議に感じられた。
「飛行機はただの機械なんかじゃない。翼のない俺のような者にとっては、空への憧れそのものだ。こればっかりは、生まれつき飛べる竜には、あまり理解できない感覚かもな」
ジャンが背後からおれにかける声には、最初のときよりずっと温和な響きがあった。彼は心底から飛行機が好きなのだろう。もっとも、自ら操縦していないことを考えると、好きなのは機械全般なのかも知れない。それはともかく、彼には何の他意もないのだから、咎めるつもりはない。
「分かるさ。おれはもう、自力では飛べない身だ。失ったものに焦がれ続ける苦しみは、初めから手の届かないものに憧れるより、ずっとたちが悪い」
「……悪かったな」
「気にするな。一つ白状すると、自分の翼で飛べた頃のおれは、飛行機など人間の作った愚かしい機械に過ぎないと思っていた」
「じゃあ、お互い様だ」
おれたちは握手を交わして別れた。気が逸って飛行場に来てしまったものの、実技試験まで数時間あり、することがなかった。どうしたものかと思いながら飛行場を出ると、ちょうど道の向こうからやって来るアトラスの姿が見えた。
「見学はできたのか?」
「ああ。特に問題なかった」
「そうか。じゃあ、朝食にしようぜ。急いで追ってきたから、食ってる時間がなかったんだ」
やつは眠たそうにあくびをして、おれの返事を待たずに来た道を引き返し始めた。おれはその後に続いて歩きながら、あの飛行機を操縦して空を飛ぶところを思い描いていた。
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