始章 その2

 おれはアトラスに連れられて、建物の最上階まで上がった。初めて聞かされたことだが、竜を飛行士に誘うという行動は社長のテグジュペリから許可を得た上でのものであり、やつの独断ではなかったという。

「テグジュペリさんは優秀な飛行士だった。墜落事故で負った怪我のせいで操縦はできなくなったが、今でも心は空にある。だから、俺たちのことも分かってくれるはずだ」

「だといいがな」

 アトラスは社長室のドアを叩き、どうぞ、と応答があるのを待って、室内に入った。おれはやつの後に続いた。広い部屋の中には来客用と思しいソファがあり、社長の執務用のデスクがあり、大きな窓があった。遠目に見ただけだが、窓の外には飛行場が見えるようだった。三方の壁の全面に書棚が据えられて数え切れないほどの本が並べられ、ところどころで本の代わりに飛行機の模型が置かれていた。

 おれたちに背を向けて窓の外を眺める人間がいて、そいつがテグジュペリなのだと思われた。

「テグジュペリさん。ヴァーミリオンを連れてきました」

 アトラスに呼びかけられて、テグジュペリはおれたちに向き直った。壮年の男の顔には大きな傷跡があり、歩くときには脚を引きずっていた。しかし、そんな些細な特徴よりも印象深かったのは、そいつの体に染みついた空の気配だった。テグジュペリが正真正銘、空に生きた人間であることは疑いようがない。

「本当に連れてくるとは驚いたよ、アトラス」

「無理だと思っていたんですか?」

「さてね。私は君ほど、そちらの彼のことを知らない」

 テグジュペリはおれに近寄り、片手を差し出してきた。その顔にエミリーのような怯えはなく、厳然としていながらも穏やかな色があった。

「よろしく、ヴァーミリオン君」

「ああ。よろしく」

 勧められるままソファに座ると、テグジュペリが向かいに腰を下ろした。彼はアトラスに、ノクトという人物を呼んでくるように言った。

「製図室かどこかにいるはずだ。探してきてくれ」

「分かりました」

 アトラスが出ていくと、テグジュペリは元から厳しかった表情をさらに険しくした。彼は深刻な調子で一つの問いを投げかけてきた。

「これだけはアトラスのいないところで聞いておきたい。他意はないから気を悪くしないでもらいたいが、君はアトラスが〈竜墜〉と呼ばれていることは知っているか?」

「聞いたことはない」

「この二つ名について、どう思う?」

「気に食わないが、おれが撃ち落とされたことは事実だ。それを表す呼び名があるからといって、特に思うことはない。もっとも、やつ自身が吹聴しているのなら話は別だ」

 おれたちは死闘の果てに、互いへの敬意を抱いて墜落した。結果だけを見て他人がアトラスを称賛するのはどうでもいいが、自ら率先して自慢しているのだとしたら不愉快だ。テグジュペリはおれの回答を吟味しているのか、しばらく黙ってうつむいていた。

「彼が君との戦いについて人に話すことは滅多にない。私にはそれを聞く機会があったが、互いの誇りをかけた決闘だったのだという印象だ。少なくとも、君を貶める言葉が彼の口から出たことはない。誰が〈竜墜〉と言い始めたのか分からないが、彼自身でないことは、私が保証しよう」

「そうか。ならば、おれから言うことはない」

「君は理性的なのだな。竜だから凶暴だと決めつける訳ではないが……」

「個体差がある。人間にも色々な者がいるだろう。同じことだ」

 テグジュペリがうなずいて何か言いかけたとき、ノックもなしにドアを開いて、足音荒く室内に踏み入ってきた人間がいた。そいつの後ろにアトラスが続いていたが、何やら困惑している様子だった。

「お話中に失礼します、社長」

 その人間は敵意も露わにおれを睨みつけてきた。こちらとしては関心のない相手だったので無視しておくことにしたが、あまり効果はないようだった。テグジュペリはそいつの方を見ずに眉根を寄せていた。

「ノクト。確かに君を呼んでくるよう、アトラスに言った。すぐに来てくれたのはいい。だが、その態度はどういうつもりだ?」

「どうもこうもないですよ。アトラスさんの相棒は俺です。竜なんかに俺の席を譲るつもりはありません」

 ノクトは噛みつかんばかりの勢いで、アトラスがその肩をつかんで引き止めていた。

「落ち着けよ、ノクト。大騒ぎするようなことじゃないだろ」

「アトラスさんが俺を切り捨てようとするせいです。大人しくしていられると思いますか?」

 アトラスは抵抗するノクトを無理やり座らせ、テグジュペリに頭を下げた。

「すみません。ノクトにはもう少しきちんと話しておくべきでした」

「それは否定できない。彼に限ったことではないが、君と組むことを強く希望する飛行士は多いからね。君は自分の影響力を認識した方がいい」

「今の俺は通信士です。飛行訓練の教官じゃありません」

「もちろん、君の意向も承知している」

 テグジュペリは押さえつけられたままのノクトに顔を向け、重々しく言葉を投げかけた。

「君は自分の実力が十分にあるのだから、必要もないのにアトラスに頼ろうとするのはやめなさい。そんなものは彼に対する尊敬ではないよ。そして、ヴァーミリオン君のことだが、彼自身に対して何か不満があるのか?」

「アトラスさんと社長の決めたことにいつまでも抗議するつもりはありません。不満はあっても、受け入れます。ですが、竜はいただけません。飛行機の操縦なんてできるはずがないでしょう」

 ノクトは再度、おれを睨みつけてきて、こちらとしてもさすがに気に食わなくなってきた。話を聞いていた限りノクトは飛行士で、元々は通信士となったアトラスと組んでいた。だが、アトラスがおれを連れてきたことで自分が見捨てられたと感じているらしい。

 おれとは無関係なところで人間どもがどのような確執を抱えていようが知ったことではないが、それが原因で、おれが飛行士としてやっていくのを妨げようとするなら、無視することはできない。

「できるかどうか、すぐに見せてやる。実技試験があるんだろう? 見学しておけよ、人間」

 ノクトは返事をせず、鼻で笑った。その様子を見ていたテグジュペリは、ため息をついてから諭すような口調で話しかけた。

「君を呼んだのは、面接への同席と実技試験の監督をやってもらおうと思ったからだったが、やめておくことにする。君の不満も分かるつもりだ、頭が冷えたらこのことを省みておきなさい」

「……分かりました」

「待て。おれは自分の言ったことを守る。見せてやると宣言したからには、必ずそうする。それに、見下されて大人しく黙っている趣味はない。試験の監督はそいつにやらせろ」

「吠え面かく覚悟をしておけよ」

 そう言い残して、ノクトは足早に出ていった。腹の立つところはあったが、少なくとも、あいつは竜を相手取ることに対して怯えなかった。その点は少しだけ評価してやってもいいと思う。

「本当にそれでいいのか、ヴァーミリオン君?」

「構わない」

「分かった。彼にとっても公正さを示す機会になるだろう。代わりにという訳ではないが、面接については私とアトラスで行う。今からやってしまおうか、それとも心の準備をする時間がほしいか?」

「不要だ。始めてくれ」

「いいだろう。では、これからいくつか質問するから、思ったことを何でも気楽に話してくれ」

 アトラスはテグジュペリが座っている方に移動し、おれは二人と向かい合った。気楽にというのが言葉の綾だということくらいは分かる。人間相手に緊張することなどないが、この場での受け答え次第では飛行機を操縦する機会が得られないので、おれは抜かりなく構えていた。

「最初にアトラスから相談を受けたとき、私は君が彼の提案を断ると予想していた。この話を受けることに決めた理由を話してくれ」

「もう一度、空を飛ぶためだ。そのためなら、おれは大抵のものを差し出すことができる」

「君は何と引き換えにして、この場にいる? 矜持か?」

「違う。やつの誘いに乗るために何かを諦める必要などなかった」

 おれは竜としての誇りを捨てていない。ただ戦場で目見え、痛み分けに終わった好敵手と再会しただけのことだ。敵対する立場ではあったが、アトラスのことは戦友と呼んでもいいだろう。

「君は時々、あの山脈の上空を通過する飛行機から目撃されていた。情報を総合すると、随分と長い間、ひと所から動かなかったようだが、それは君の矜持に適う行動だったのか? もちろん、アトラスが君に会いに行けたのは君が移動しなかったおかげだが」

 翼を失ってからというもの、おれは失意に沈んでいた。アトラスが現れるまでの数年に渡って、悲嘆に暮れ続けていた。その上、自分が悲しんでいることすら心の奥に追いやって蓋をしていた。残された永い生をやり過ごすには、どこまでも精神を鈍磨させなければならなかった。思い返してみると、その期間の記憶は途切れがちで、おれが何もかもから目を逸らしていたことは明白だった。

 おれは質問に答えなかった。矜持を問題にするべきではないときもあると口に出すことは、それこそ自らの誇りを汚すことに感じられ、発するべき言葉はおれの中のどこにもなかった。

「その沈黙が君の答えということでいいか?」

「ああ。好きに解釈すればいい」

「そうしよう」

 質問が途絶え、テグジュペリは次に聞くことを考えているようだった。ふと窓の外に視線を向けると、離陸した飛行機が空高く飛び立つのが見えた。空は透き通るような青さだった。不意に、かつて知っていた蒼天の下を舞う喜びが胸に灯って、おれは息が苦しくなった。テグジュペリが再び喋り始めたので、彼の方に意識を集中して、空のことは一時的に締め出そうとした。

 しかし、ひとたび蘇った憧れはそう簡単に消してしまえるものではなかった。

「飛行士を志すのが空を飛ぶためだということは、先の答えから十分に伝わってきた。だが、竜と飛行機とでは全く異なった飛び方になるはずだ。両方を知る者は世界中を探しても見つからないだろう。君はその差異を考慮したのか?」

「知らないことは勘案できない。おれに分かるのは、未知とは挑むものであって、恐れるものではないということだ。この世に大地と天空以上の隔たりなどない。その両端を行き来する身の上で、それより小さな違いに拘泥する必要があるとは思えないな」

 テグジュペリは小さくうなずいたきり何も言わず、促すようにアトラスの方を見た。アトラスとは既に散々話をしたと思っていたが、やつは淀みなく質問を繰り出してきた。

「今さら、お前の意向を確認する必要はない。内心で何を考えているか問い質すつもりもない。俺から聞くことは一つだけだ。ヴァーミリオン、お前は飛行士として何を目指す?」

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