始章 竜の帰還

始章 その1

 結局、アトラスが居を構える街までは一週間かかった。その街にはやつが所属するアントワーヌ航空の本社があり、郊外には会社の所有する飛行場があるということだった。

 人間の街に立ち入るのは初めての経験だったが、街の様子になど微塵も興味が湧かず、早く飛行場に行きたかった。方角さえ分かっていれば何とかなると思い、駅舎を出て雑踏の中へ突き進もうとしたが、アトラスに引き止められた。

「一度、自宅に寄らせてくれ」

「飛行場が先だ」

「荷物を置くだけだ。それに、今日は飛行機に乗れない。まずはお前を飛行士として登録する必要がある。飛行場を見学させてやってもいいが、先に本社に行くからな」

 飛行場には整備の行き届いた飛行機が何機もある。準備万端のそれらの中から一機選んで、適当に乗り込んでしまえばいい。そんなことも考えたが、アトラスからは操縦技術だけでなく航空管制などの知識も渡されたので、やつの言い分は理解できた。

「規則を守れない者が飛行士として認められることはないのだろうな。長く続けるには、適切な手続きを経ておくべきか」

「ああ。分かってるならいい。てっきり、適当に一機奪えば手っ取り早いとでも言い出すかと思ってたよ」

 それが図星だということは、やつも気づいているのだろう。にたにたした笑みが鬱陶しかった。おれは話題を反らすことにした。

「……貴様の自宅とは、魔術師の一族の家か?」

「まさか。先祖代々の屋敷はこんな都会からは遠く離れてる。どのみち、俺の居場所はないがね。俺の自宅は普通の集合住宅だ」

 街までの道中で聞いたところでは、アトラスは生来の魔力保有量の少なさが仇となって魔術の行使に問題を抱え、一族からは追放同然に扱われているという。やつが気にする様子はなかったが、家のことに言及したのは無神経だったのかも知れない。

「聞き忘れていたが、おれの住居はどうなる?」

「会社の宿舎に入る手もあるが、俺の目が届かないところにお前を野放しにするのもな。それに、実態がどうあれ、お前の外見は少年だ。保護者なしって訳にもいかないだろう」

「要するに、貴様と同居しろ、と?」

「まあそうなる」

 アトラスの自宅はそれなりに広く、人間が二人暮らすには十分な空間があるようだった。必要最低限の家財しか置いていないというが、おれは人間の暮らしに必要な物には詳しくない。

「使い道のない客間があるから、そこをお前の部屋にしてやるよ。見てみるか?」

 案内された客間ではテーブルと椅子、ベッドや棚が埃を被っていた。最後に使用されたのがいつのことかは分からないが、人間の基準で考えると、客人を宿泊させられる状態ではないだろう。

 おれは寝ぐらに対するこだわりなどないが、わざわざ薄汚れたところを選びたいとは思わない。おれを連れてくることも自宅に住まわせることも決めていたことだろうに、その辺りの準備はよくないようだった。

「掃除しないとな」

「掃除してから見せるべきだったと思うが」

「別にいいだろ。お前は気にしてないんじゃないか?」

「ほかに選択肢はないからな。だが、薄汚いと分かっている場所に寝泊まりするつもりはない」

「仕方ない。夜までに掃除するから、お前も手伝え」

 アントワーヌ航空の本社は郊外の飛行場にほど近い街外れにある。社屋に向かいながらアトラスが説明してきたところでは、おれは飛行士として会社に雇用されるためにいくつかの試験を受けなければならない。

 入社試験は筆記、実技、面接の三つからなり、その全てで高い評価を得なければならないという。

「筆記と実技は、おそらく問題ない。お前の場合は状況も特殊だから、仮に不合格でも一回くらい再試験を受けさせてもらえるだろうしな」

「貴様の知識に基づく以上、貴様が実は極端に非常識だというのでもない限りは通過するのが当然だ。面接というのは何のためにあるんだ? 知識と技能を確認すれば十分だろう」

「人間社会で働くってのは、そう単純なことじゃない。面接は人物査定だ。お前がどういうやつなのか、どうして飛行士になりたいのか、とか、そんなことを聞かれる。正直言って、これは不安なところだ」

「なぜだ」

 珍しくアトラスは答えを口にする前に少し迷う様子を見せたが、結局は口を開いた。

「これは本当にどうしようもないことだから言いたくないんだが、お前に人間の常識を求めても無駄だろう?」

「愚問だな」

 おれは竜だ。人間の姿をとり、ある程度は人間社会で通用する一般的な知識があるからといって、人間そのものではない。常識を問われたところで、前提とする感覚からして別物だ。

「まあ、元々、お前が竜だってことを会社に隠すつもりはなかったから、少しおかしなことを言うくらいなら酌量してもらえる、と思いたい」

「言っておくが、人間どもに合わせた受け答えをするつもりはない。おれはおれ自身の言葉でしか語らないからな」

「それでいい。テグジュペリさんなら分かってくれる」

 アントワーヌ航空本社の社屋は街中で見かけたどの建物よりも大きかった。空を衝く十五階建ては、最新の建築技法によって実現されたものだという。どれほどの大きさや高さのある建物でも、中に入ってしまえば箱に閉じ込められることに変わりはないと思うが、屋上から空を見上げるのは気分がよさそうだった。

 社屋の中では大勢が忙しく働いていた。大半は人間だったが、よく見ると獣人の姿もあった。この人数をきちんと見分けられるようになるには少し時間がかかるだろう。そのうちの一人がアトラスの姿に気づき、駆け寄ってきた。

「戻ったんですね、アトラスさん」

「やあ、エミリー、久しぶり。テグジュペリさんはいる?」

「はい。少し前に外出から戻られたので、今は社長室にいらっしゃるかと」

「分かった。ありがとう」

 エミリーという人間の女は、おれに物珍しそうな視線を向けてきた。何か言いたいことがあるのか口をぱくぱくと動かしていたが、結局、おれに話しかけてはこなかった。

「アトラスさん。誰ですか、あの美少年は」

「ヴァーミリオンだ。名前を聞いたことはあると思うけど、〈暴風〉のヴァーミリオンだよ」

「えっと……ヴァーミリオンって、戦時中にアトラスさんが戦った竜ですよね。彼がその竜なんですか、どこかの王子様とかじゃなくて?」

「その通り」

 エミリーはおれに怯えた表情を向けつつも、気丈な様子で話しかけてきた。アトラスとエミリーの会話が聞こえていたのか、周囲からも恐怖や好奇、猜疑の目を向けられているのが分かった。

「初めまして、ヴァーミリオン……さん。私はエミリー、アントワーヌ航空の事務員です」

「ヴァーミリオン。竜だ。人間が勝手に付けた二つ名のことは知らないが、好きに呼べ。お前たちに興味はなく、危害を加えるつもりもない」

 後半は周りで聞いている連中全員に聞こえるように声を張った。おれは飛行機に乗って空を飛びたいのであって、人間の街を破壊しようという魂胆はない。連中がどう思ったとしても関係はないが、おれは空を飛ぶにあたっての障害を自ら生み出すほど愚かではない。

 エミリーは返事をせず、逃げるようにどこかへ去った。アトラスが同情するようにおれの肩を叩き、首を振った。

「気にするな。みんな、すぐに慣れる。社内には戦争中に敵味方だったやつらも少なくない。お前だけが例外ってことはない」

「さすがに竜はいないだろう」

「まあな。しばらくは恐怖や敵意を向けられることも多いかも知れん。悪いがそれは我慢してくれ」

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