第3話 守られた光

その後、1ヶ月以上、琴子は土手に現れなかった。海は毎日、学校が終わると土手に足を運んだ。週末も欠かすことなく、一日中土手に座っていた。


一人でただ土手に座って景色を眺めていると、今まではただの木にしか見えていなかったものが、それぞれの木で特徴があり、種類が違うのだということがわかったりした。


毎日、同じ時間に老夫婦がウォーキングで通り過ぎる。散歩中の犬が、嬉しそうに歩く爪の足音がする。子どもに話しかける柔らかな母親の声が聞こえる。空には鮮やかな入道雲が遠くに存在感を増している。


海は何となく、琴子はこんな景色を見ていたのではないかと思うようになっていた。


海が嫌悪感とともに固く閉ざしていた周りの世界を、琴子は愛おしむように眺めていたのだ。


今なら少し、この前より少しだけ、琴子の絵の気持ちを伝えることができるような気がした。


周りが夕日に染まり始める頃、そろそろ帰ろうかと立ち上がったとき、後ろから、「海くん」と声がした。振り向くと琴子が手を振っているのが見える。


長い間待ち続けると、現実になった時に、ふと現実か幻想か判別できずに混乱してしまうのだろう。しばらく琴子を見つめて、現実であることを噛み締めた。


海は琴子の方に足早にかけて行った。


「久しぶり」


土手の斜面を登りながら、海は琴子に声をかけた。


「久しぶりだね、海くん。元気そうで、よかった」



琴子は笑った。笑っているのにとこか痛々しいように見えてしまうのは何故だろう? 海にはすぐにわからなかった。


斜面をやっと登り切って、琴子の隣に辿り着く。琴子はこんなに背が低かっただろうか? 座って話すことが多かったせいか、身長の印象があまりない。


「海くんがいる時に、ちょうど来られて、よかった」


琴子はそう言って、カバンからスケッチブックを取り出した。


ちょうど来ていたのではない。毎日来ていたのだ。琴子に会うために。ずっとずっと待っていたのだ。この時を。


「あのね、これを渡そうと思って」


琴子はスケッチブックを開いて、海に渡した。スケッチブックを受け取る時に琴子の顔を見て、海はハッとした。すぐには気づかなかったが、頬がこけ、目が窪んでぼんやりしているように見えた。何かあったんだと思うと、急に怖くなって、どこかに突き落とされたような気分になった。


渡されたスケッチブックには藍色や緑、紫などの深い色が混ざりあいながら、大きな丸が描かれていた。そのちょうど中心あたりは白の小さな丸がぼんやりと描かれていて、その中に小さな粒のような黄色やピンクの点がたくさんあった。


海が見たことのある琴子の絵と全く雰囲気の違う絵だった。いつものふわふわした明るいものではなく、暗く重いイメージが強い。今の琴子の様子と関係しているのだろうか。


「これは・・・?」


琴子をじっと見つめて海が聞いた。


「これね、私から見た、海くんの、絵だよ」

「え?」


海はまたスケッチブックに目を落とした。これが自分だと聞かされて、一瞬、心臓がドンと大きく突かれたような気がした。琴子から見た自分はやはりこんな色をしていたのだ。べっとりとはりつくような澱んだ色。海はさらに自分がどこかに落ちて行くのを感じた。


「・・・やっぱり、俺ってこんな感じなんだ・・・」


やっと言葉を絞り出した。今なら、絵の感想をちゃんと言葉で伝えられそうだと思ったのに、やっぱり全然できなかった。むしろ、何も出てこなかった。


明らかにショックを受けている海の様子を見て、琴子は驚いたようだった。


「あれ? ちゃんと伝わらなかったかなぁ。あのね、この真ん中のはね、大切に大切に守られた、あったかい光だよ。蒼は、海くんを守ってる、優しい色なんだよ。私、海くんの持っている蒼が本当に好き」


琴子は少しかすれた声で、息が続かず途中で何度も息つぎしながら、静かに想いを海に伝えた。


海は目を見開いて琴子を見た。頭の奥が痺れて動かない。いろんな思いや感情がぐるぐる渦巻いているようで、しがらみが胡散霧散して、恐ろしくクリアになっているようで、言葉の枠には何も当てはめることはできなかった。


琴子はそんな海の様子に気付いた。


「なんか、急にごめんね。この前、海くんが、自分はどう見えているんだろうって言ってたから。それで、どうしても渡したくて。それで、この色が、海くんの蒼が、どんなに優しくてあったかいのか伝えたかったんだ」


海は、涙が溢れるのを感じた。嗚咽するでも、泣きじゃくるでもない、溢れ出る静かな涙だった。夕日で全てがオレンジ色に染まっている。何かの鳥が二人の上を飛び去っていった。音だけが何も聞こえなかった。


「・・・ありがとう・・・」


海のその様子に、ちゃんと伝わったと琴子は安堵した表情を浮かべた。


「こちらこそ、ありがとう」


琴子はふっと笑った。


「海くん、ごめんね。もっといろいろ伝えたいんだけど、もう、行かなきゃ」


送るという海を制して、琴子はゆっくりと一人帰って行った。

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